穴の底
光太郎の実家の庭にはとてつもなく深い穴があった。それは、光太郎が子供だった頃、彼の父親が何かにとりつかれたように掘り続けて出来たものだった。誰にもその目的を告げることもなく、父は週末になると、ロープを伝って中に入っていき、一日中その穴を掘っていた。土を穴の外に出す作業が必要である以上、穴が深くなるにつれ、一日に掘り進める距離は小さくなっていったが、それでも毎週毎週休みなく掘り続けたことで、その穴の深さはまるで地球の反対側まで続いているのではないかと思えるほどに深くなった。
穴を掘る作業は、光太郎が中学一年の時から始まり、彼が高校二年の時に、父親の蒸発という形で終焉した。父はなんのためにこの穴を掘り続けていたのだろうか。光太郎は穴を覗き込み、光が届かない、真っ暗な穴の底を見つめながら、そう考えた。父の行方を知る者がいない今、彼がどのような理由でこの穴を掘り続けていたのか、誰にもわからない。そもそも母を含め、家族のだれも父と会話しようとさえしなかったことを考えるとそれも関係ないのかもしれない。以前は哀れに感じていた父親の姿が、職を失い、逃れるように実家へと返ってきた自分の境遇とどこか重なり、光太郎はふと泥に沈んだような気持ちに陥った。
そして、仕事を探す気力もなく、怠惰な毎日を送っていた光太郎が、この穴を掘り続ければ、父親の気持ちを少しでも理解できるかもしれないと考えるのに、それほど時間はかからなかった。ホームセンターでスコップとバケツ、そして穴を上り下りするために必要な頑丈なロープを購入した。準備を整えると、光太郎はためらうことなく、深い深い穴の底へと降りて行った。穴の中はひんやりと冷たく、下へ降りていくにつれて湿った土の匂いが強くなっていく。外から見ていた以上に穴は深く、五分ほどかけてようやく穴の底にたどり着いた。
穴の底に足をつけ、光太郎は周囲を見渡した。穴の幅は狭く、人一人がなんとか身動きできる程度。光の届かない場所だったが、ゆっくりと降りていったことで目はとっくに暗闇になれており、土の間からのぞく細い木の根っこなどを見極めることができた。光太郎はふと顔を上げた。そこにはいびつな形の楕円に切り取られた空があった。ただ穴の底に降り立っただけにもかかわらず、先ほどまで自分がいた場所が、まるで違う世界であるかのように思えた。父も作業に疲れた時、こうして穴の底から空を見上げたのだろうか。光太郎はその時の父親の気持ちを想像してみようと思ったが、どうしてもそれは叶わなかった。
光太郎は深く空気を吸い込む。冷たく湿った空気が胸の中を満たした。そして、光太郎はスコップの柄を力強く握りしめ、刃先を自分の足元へと深く突き刺した。
それから穴を掘り続ける光太郎の毎日が始まった。足元にスコップを突き刺し、えぐり出した土をバケツに詰める。バケツがいっぱいになったら、それを抱えて地上に出て、中身を捨てる。往復だけで時間がかかり、なかなか穴を掘り進めることはできなかった。しかし、幸か不幸か光太郎には時間があった。仕事に就いているわけでもなければ、誰かから遊びに誘われると言うこともない。家族もまた、仕事を辞めて帰ってきた恥さらしの光太郎のことなど気にかけようとしなかった。
そのため光太郎は少しづつ、しかし、着実に穴を掘り進めることができた。そして単調に繰り返される単純作業の中で、光太郎は父親のこと、自分のことついて思索を巡らせた。なぜ父親はこのような一見無意味ともとれる行動をしていたのか。なぜ、自分は父親と同じ行動を取っているのか。なぜ、自分はああして惨めに仕事から逃げてしまったのか。なぜ、自分はいま友達も恋人もおらず、ただ一人もがき続けなければならないのか。考えることは無数にあったし、時間は十分にあった。そして、そのような考え事とタイミングを合わせるように、光太郎は地面の中から様々なものを発掘し始める。
始めに発見したのは、無くしたと思っていたはずの高校の卒業証書だった。卒業式の後、部室へ向かったり、町へ遊びに行く同級生を尻目に、一人ぼっちで誰もいない家に帰り、手に持っていた卒業証書をぽいっとそこらへんへ投げ捨てたことを思い出す。なぜこんなところに、とは思わなかった。逆に、卒業証書がこの穴の底に埋まっていることの方が、光太郎としてはより自然なことのように思えた。
光太郎は手を休めることなく穴を掘り続け、そして同じように、忘れ去られていた何かを掘り起こしていった。誰にも渡すことのないまま机の奥にしまっていた修学旅行のお土産。高校一年のときに友達とゲームセンターで手にしたクレーンゲームの景品。高校に進学する際に捨てたはずの、中学の学生バック。写生大会で使っていた乾ききった絵の具とパレット。中学の同級生から借りたまま返すのを忘れていた漫画の単行本。小学生の時に生まれて初めてもらったバレンタインチョコの包装紙。
光太郎は一つ一つ大事に拾い上げ、周りについた土を払ってやった。別にそれら一つ一つに何かしらの感慨を抱くということはない。それでも光太郎は思い出の品が発掘されるたびに、穴を掘る作業をとめ、ぼおっとしたまなざしでそれを眺めるのだった。
「おい、そこにいるのは誰だ?」
野太い男の声がしたのは、光太郎が穴を掘り続けて、約三か月が経とうとしていたある日のことだった。光太郎は周りを見渡す。しかし、周囲にあるのは土でできた壁であり、人間などここにいるはずもなかった。声は上から発せられたわけではない。幻聴だったのだろうかと思い始めたその時、再び同じ男の声が聞こえた。今度はどこからその声が聞こえたのかがはっきりとわかった。光太郎から見て、右側の土の壁の中から声が聞こえたのだ。
光太郎は不審に思いながら、スコップではなく、自らの手で壁を崩し始めた。中にいる誰かを傷つけないように、あるいは上の方の土が突然崩落してしまわないように、ゆっくりと土を掘り進めていく。しばらく土を掘り続けてようやく、光太郎はその誰かの顔を発掘した。声の主は、立った状態のまま土に埋まっていた、光太郎の父親だった。父親は顔だけを土の中から出し、その他身体全身を土の中にうずめたまま、ゆっくりと目を開き、光太郎のことをいぶかし気に観察した。
光太郎が父の名前を叫んでようやく、父は目の間にいるのが自分の息子であることに気が付いたらしく、目じりに皺ができた両目を大きく見開き、驚きの表情を浮かべた。
「なんだ光太郎か………。随分、大きくなったな」
感慨深げにため息をついた父親は目だけを器用に動かし、挙動不審気に辺りを見渡した。そして、自分が未だに自分の身体が土に埋まってしまっている事実を確認すると、安堵の表情を浮かべ、再び光太郎と向き直った。
何年も前に蒸発したはずの父親との再会に、光太郎は言葉を失っていた。しかし、かろうじて、どうして、こんな土の底にいるのか、とだけ光太郎は問いかけることができた。その問いかけに父親はしばらくの間黙りこくった。そして、「あまり話したくはない。長くなるからな」と前置きしたうえで、ぽつぽつと語り始める。
「なあ、光太郎。どうしてこんな土の中にいるのかとお前は聞いているがな、俺からすれば、どうしてお前たちが土の上で暮らしているのかのほうが不思議なんだ。もちろん、理由は想像できるさ。想像できるが、どうしても納得できないんだ。土の中は一年中ひんやりしていて冷たいし、この中には俺を脅かすものは何もない。もちろん、外に出れば殴れらるとか、罵倒されるとかって言っているわけじゃない。ただな………そう………言葉にはできないな。だが、お前にはわかるだろう。確か、お前は俺にそっくりだったからな」
脅かす。その言葉に光太郎は躊躇いがちにうなづいてみせた。父親の言うことを理解しているわけでない。ただ、その言葉だけは光太郎の中ですとんと腑に落ちたような感じがした。別に誰かからひどい目にあわされているわけではない。誰かから痛い目に合わされているわけではない。ただ、脅かされていた。それだけ揺るぎない事実だった。光太郎は何も言えないまま、父親をじっと見つめ続けた。
「父さんは………どうして穴を振り続けていたんですか?」
長い沈黙の後、光太郎は喉の奥に引っかかっていた言葉をなんとか絞り出した。喉を通る際にあちこちで邪魔されてたせいか、その声はインクの切れかけたペンのようにかすれていた。父親は眉をひそめ、露骨に不機嫌そうな表情をうかべる。額には数本の皺が浮かんでいた。
「お前はどうして穴を掘っていたんだ?」
父親の予期せぬ質問返しに光太郎は小さく咳き込んでしまう。
「それは………父さんの真似をしようと思って」
「それは違うな」
父はばっさりと光太郎の主張を退け、じっと食い入るように光太郎の目を覗き込んだ。
「俺が穴を掘っていた理由はな、お前とおんなじだ」
二人の間に重たい沈黙が流れた。そして、その沈黙に身を任せるように父親は目をつぶってしまった。光太郎はどうしていいのかわからず、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。しかし、その間中、ずっと、父親のセリフが彼の頭の中でぐるぐると螺旋を描きながら底へ底へと沈み続けていた。すると、父は目をつぶったまま「土を元のようにかぶせてくれ」とつぶやいた。
「せめて死んでいる間くらい、外の世界に触れていたくないんだ」
光太郎は父に言われるがまま、露出していた顔の部分を再び土で覆ってあげた。父の声、呼吸の音がぴたりと止んだ。光太郎は父とは反対方向の土の壁に手をあてる。父親の言っていた通り、土はひんやりと冷たく、いくらでも触っていられるほどだった。
「俺が穴を掘っていた理由はな、お前とおんなじだ」
そうだったのか。光太郎はぽつりとそう独り言ちた。そして、光太郎は自分の頭の上の高さにスコップの刃先を突き刺した。そして、力を込めてスコップを回転させて土をえぐり出し、再び同じ場所にスコップを突き刺す。頭の上から雨のように土が零れ落ち、光太郎の肩と足元にふりそそぐ。土がくるぶしの高さまで積もっても、光太郎はその手をやめることはなかった。光太郎は何度も何度も頭より高い位置にスコップを突き刺し、土をえぐりだした。その間の光太郎の顔は氷のように無表情だった。