自殺願望者の家事情
─────ジャアーーー……─────
…まさか、秋というそこそこ冷える季節で水のシャワーを浴びるハメになるとは思ってなかった……。
「あいててて…、……つぅ………!」
全身の至る所に薄く、浅く刻まれた切り傷を痛めないように、手で優しく、血だけを洗い流して清める。
お風呂場から出たら、冷えた体をバスタオルで拭いて、わずかな温かみも取り戻しつつも、生理的にガタガタ震える。
下着や肌着を着ける前に傷口を消毒して、絆創膏を貼りまくる。すぐに塞がるだろうが、いかんせん数が多い。
腕と足は残して寝衣を着た。
後は自室に戻り、残りの消毒をしようと……───
「お前の部屋、中々殺風景だよなぁ。 女らしくないし」
「黙れ出て行け変態悪魔」
部屋に入ればニタニタ顔の男が1人。
しかし、ただの人間じゃない、コイツは悪魔だ。
一体なんなんだコイツ。
「……………はあ、」
………本当。
あのチェーンソー大男をブチのめした後、私は気絶。
意識を取り戻した時にはウサギの背中の上で、ウサギはというと人気の無い小道を歩いていた。
偶然、私と同じ制服の生徒が近くに住んでいて、その帰り(多分部活だろう)だったらしく、生徒手帳を盗み見て、とりあえず学校に向かっていた、と。
遠回りするように、わざわざ電車も使わずに人気の無い場を歩いているので、なぜかと尋ねると、
「お前が空中浮遊しているのを奇怪な目で見られたいんだったら別にいいけど?」
……と、ニヤニヤしていたので、とりあえず殴っておいた。
そういえばコイツは人間には見えないんだっけ、と思い出した。更に声を出しても聞こえないのだとか。ただ、触れることは可能ならしい。じゃないと人から生徒手帳とか盗めないし、私を背負うことも出来ない。
つまり、もし私が背負われた状態で町の中を歩こうもんなら、私が透明人間の背中で眠ったままおんぶされている格好で宙を移動するというシュールな絵が完成出来たらしいのだ。
そこの点に関しては感謝したい。
…………のだが…。
「で…、アンタいつまで居るつもり?」
「ん?」
電車にはもう乗らないと思っていたから、お金を持ってきておらず、ウサギに抱えられて家まで屋根やらどこやらを飛び回って……、ちょっとしたスリル満点の遊びになっていた。
なんとか辿り着いたまでは良かった。
1人じゃやりにくい傷の手当てもやってもらったこともまだいい。(というか、本人がやりたいと志願した)
……しかし、それが終わってもコイツは部屋でゴロゴロ、居座っている。
「いやね? 思った以上に報酬が多くてさぁ、お前に貸した力じゃあ全っ然、釣り合わないんだよねぇ」
あれ、思ったよりもちゃんとした答えだった。
「……そうなの? 悪魔ってそういうの踏み倒すんだと思ってた」
「まーなぁ、確かに人間と契約しよう、なんて奴等は少数派じゃねぇかな。 ちょっとした趣味の範疇でしかないし、言うならば暇潰し。 人間が損することはあっても、悪魔が損することは普通は、ねぇ?」
やっぱり踏み倒すことが多いらしい。
それをしないウサギは女にはだらしない男だけども、暇潰しだろうが律義ではあるらしく……
「今けなされた気がしたんだけど?」
「凄いねエスパー?」
「おい」
……勘も鋭いらしい。
私が悪びれなくけなしたことを認めると、1つ息を吐いたウサギ。
今頃だけど、私は刻まれて無惨な姿の制服を縫っている。ミシンなんてものが無いので、針で手作業、チクチクとやってるわけだが。
「で? どうやって私に力を貸すつもりなの?」
話を聞いている限り、悪魔の持つ力と報酬が釣り合うまでは力を貸してくれるということで良いらしい。
でも、私は今、特段あの反則級の力を使うほどに困っていることがあるって訳じゃないし、これからもそんなことがあるってことは分からないし……。
それまで一体どうするつもりなんだろうと思って聞いてみると……
「ん? 全く考えてないけど?」
「は?」
……まさかのノープランだった。
だらだらしている悪魔曰く、もしかしたらあの力が必要になるような場合があるかもしれないとのこと。
だから、しばらくは行動を共にする……って……
「……それって私と一緒に住むって訳じゃないよね?」
まさか、ねぇ…。流石にそんなことは……
「え? そのつもりだけど?」
……。
…………。
………………。
……………………。
…………嘘だろオイ。
「まじで言ってんの!?」
「ん? 別にいいだろ、お前ぼっちだし。 第一俺は人に見えないから気にする必要もねぇよ?」
アンタが良くてもコッチが困るんだよ!!
ヤバイヤバイ! なんとかして別の住居に行かせないと困る!
「それに他にツテなんてないし」
……コイツ悪魔だった……じゃなくて!
「だっ、だけどほら! 男女が同じ屋根の下で住むってどうよ!?」
「ふっはっは、お前みたいな肉無しまな板でもそんなこと考えんだなぁ。 処女プラス恋愛経験ゼロのかわいげの無い女を襲うほど落ちぶれたつもりは、」
「出て行けやこの色狂いがあああああああっ!!」
「あごっ!?」
渾身のアッパー炸裂。
「しかも散々毒吐きやがって性欲の権化死にさらしやがれぇええええっ!!」
「げぼぉ!?」
地を滑るように右足の回し蹴りがふらつく女の敵の左頬に爆裂。
顎と頬、女の味方の2連擊に女の敵は地に伏せた。
「~~~つぅあ~~~~っ!!」
しかしこの脳を揺さぶるような凄まじく容赦の無い殴打と蹴りですら、悪魔は背筋から駆け上がり、胸の奥から湧き出る、ぞくぞくとした快感を感じて悦んだ。
「…あ、ヤベェこれ癖になるかも……!」
「……アンタ、ホントにヤバいよ。 そのドM感…」
悶える悪魔に危ないヤツを見る目でカナは引いた。
そこへ、
「カナッ!!」
扉を壊す勢いで誰かが入ってくると、一直線にカナへと向かい、
ゴッ!!
「っ!!」
拳を振り落とした。
一切手加減されていないその一撃を頬に受け、軽く吹っ飛んだ彼女。
ウサギは突然の出来事に目を丸め、反射的に動こうとして、止まった。
視界に入ったカナが睨み、やめろ、と口が動いていたからだ。
入ってきたのは女だった。
濃い厚化粧に、派手で体の主張が激しいドレスっぽい服。甘いけどキツイ香水が、離れている俺の鼻をついた。
流石の俺でもこれは萎える……おぇ……。
「アンタ、本っ当に聞き分けがないわね……!!」
怒りに震えた声、目は血走り、少し酒の匂いもした。
ゴッ、ガスッ、ガツッ、と女はカナに掴みかかって、固めた拳を無遠慮に何度も振り落とす。
カナは反撃もせずに、頭を守って蹲っている。
……これってアレ…虐待ってヤツで良いんだよな? 女の方は厚化粧過ぎてあんまりカナと似ているようには見えないけど母親ってことでいいんだよな?
困惑している俺の前で、女はヒステリックにわめき散らしている。
「大きな音立てないでっていつも言ってるでしょ!? どうして分かんないの!?」
「もう中学卒業するくせにそんな簡単なことも出来ないの!?」
「私が産んでやったのに!! あんっ……なに、あんなに痛い思いして産んでやったのに……!!」
「この出来損ないが!! 可愛げも愛想もないこのグズがあぁっ!!」
拳、蹴り、物まで使って、カナの華奢な体を執拗に痛めつける。汚い言葉は心を傷つける。
暴力と暴言はとても酷く、体中に血を滲ませて、その行為が終わるまで体を縮こませていた。
腕の間から時折見える目は無感情で、光が無かった。
「……『仮契約』、使っても良かったのによ」
「ば……か、言わないでよ。 こんな日常茶飯事なことに使うとか勿体なさ過ぎるわ」
母親らしき人が出て行って数十秒後、ボロボロになった血まみれ……ではなく痣まみれのカナに、俺の独り言が届いていた。
「よく手を出さなかったね、ウサギの薄情者」
かすれた声で、睨んでくるから思わず吹き出した。
「よっく言うぜ。 カナちゃんがきっつい目で睨んでくるからだろぉ? それがなかったらブチのめしたのにさぁ」
「ちゃん付けヤメロ」
冗談だったらしく、今は少し自虐的に笑っている。
虐待中、俺はその様子をずっと眺めていた。
元とはいえ、契約者が拒否するのなら、動かないし、手出しはしない。
基本的に人間とはノータッチなのが暗黙の了解。人には見えないし、わざわざ好き好んでイザコザに首を突っ込む必要も無い。
……まあ、他の虐待シーンなんて、見ていて良い気になるようなものじゃあないんだけど。
「……訴えたら保護されんじゃねぇの?」
「………悪魔が現実的なこと言ってるのって…凄くシュールなんだけど」
「そうかぁ? 使えるモンは使えるぜ?」
弱々しく笑って、ゆっくり、ぎこちなく、体を起こすカナは体中に青黒い痣を作っている。折角巻いてやったのに、腕の包帯は少し赤く滲んでいる。
…うん、なんか………ねぇ……。
「……はあ、みっともない所見せるからさっき断ったんだよ、私は。 こんなストレス溜まるような家に居ると気分悪くなるでしょ?」
「んーー…」
「さっきのウサギが性欲の権化だとかは方便。 や、本音ではあるんだけどね? いくらアンタが人に見えない悪魔だとしても、あんまりこんな汚い所をほとんど毎日見せるワケには……、………何ジロジロ見てんの?」
「んー………、…ん?」
カナの話を聞きながら、俺はカナの痣だらけの体をじっと見ていた。それこそ足のつま先から黒髪の頭までじっくりと。
「いや、血まみれの美女ってのは定番だけど、痣まみれのヤツも意外とイケるもんだと思って、あいだぁっ!?」
こめかみ付近に衝撃が走って、視界がこれでもかってくらいに揺れた。地に上半身を預けて、まだブレる目には木刀を持つ痣だらけの手が見えた。
「……悪趣味が」
冷め切った言葉に見上げれば、無表情でありながら怒りの形相をしているカナが映った。
吐き捨てるようなその言葉と汚物を見るような目が、口元にやける俺に突き刺さった。