傍観者の記す非日常的事件
ここ数日の日記の内容を読み返していると、ほぼ立原さんのことしか書いていなかった。それよりも前の日記には受験のために頑張る、とか、大丈夫かな、不安だな、とかストレスで吐きそう、とかしか書いていなかったのに。
今頃だけど、どうして立原さんのことを書き始めたんだろう。なんだか観察日記みたいに立原さんの行動ばっかり書いていた。自分でもちょっと引くくらいに。
渡部さん達に歯向かいだしたからかな? ちょっと変わっているからかな? それとも……
「何色ガ好き?」
「! わっ…」
突然の声にはっとした。目の前に誰かが居ることに気付かなかった。そのくらいに考えふけっていたらしく、全身に急ブレーキをかける。危うくぶつかるところだった。
「ご、ごめんなさい。 ぼーっとしてて、」
「何色が好キ?」
「え?」
素早く横を通り抜けようとしたら、やっぱり私に話しかけていたらしく、目を向ける。そこには帽子を深く被った男の人が居た。
「何色ガ好キ?」
「え? 緑い……、?」
『近頃この付近で不審者の通報が───』
反射的に答えようとして、先生の言葉が頭をよぎった。
「緑? 緑ガすき?」
「え、あ、あの…」
不審者の特徴……それを思い出して頭から氷水をかけられたみたいに体に寒気が走った。
白いキャップ、緑のジャケット、それに好きな色を問いかける───全て一致した。
「緑はぁ…───」
「え……? え、え?」
ボトボトと、男性の口からナニカが落ちた。目を向ければそれは蠢いている緑色の……カチカチと寒くもないのに歯が小刻みに音を鳴らす。強張った顔を再び上げれば、
「ムシニまみレた死タいノ色ぉォぉオオ」
口いっぱいに蠢く虫を溢れさせたバケモノが居た。
「ひ、い、い、あ、あ、あ、ア」
あまりにも非現実すぎる。
夢だ、と自分の腕を強く爪を立ててみるも、目の前の男は消えない。ベッドの中でもない。現実だと思いたくないのに、これは紛れもない現実で、理解した瞬間腰が抜けて座り込んだ。ズルズルと、後ろに逃げようと、でも震えていて、全く逃げられなくて、視界がぼやける中で、自身の未来だけがはっきりと分かって、嫌だ嫌だと首を横に振った。
「やだ、やだ、やだやだやだやだっ…!」
覚めろ、覚めて、と夢でもないのに夢だとすがってしまう。でも、残酷に現実は突きつけられる。
「ナンデ? 好き、スキ、でショ? すきナら、ス、ススキきな、なラ、ナラ……」
アゴを外さんばかりに開けられた口から虫が落ちてくる。周りを見ても、なぜか不思議と誰も居ない。もう涙が止まらない。
「あやまるっ、あやまるから、ひっ、く……も、やめ、いや、や、やめて、おねが…」
何を口走っているのかも分からない。ただ助かりたい。無理だと分かっても、自分だけは、私だけは、と助かりたくて。
助けて。助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて。恐い、誰でもいい、死にたくない、お願い、助けて───
ゴキッ!!
メキリ、と目の前で棒が男の顔に食い込んで横にずれた。その衝撃で虫が空中に散る。それをただ呆然と見ていた。
「え、あ、」
「……あ、」
ポカンとして、私を助けてくれたのは───
「えっと……教室で………クラスメイト…だよね?」
─────立原さんだった。
「……うえっ、」
「は? 上?」
助かった、という安堵感。知っている人が近くに居るという安心感。ボロボロとさっきとはまた違う涙が流れてきた。
立原さんはそんな私に困惑しているようだったけど、ぎこちなく背中をさすってくれて、
「あ、イ、いダイィィぃぃィぃイイい…!!」
その手はピタリと止まった。
顔を上げる前に聞こえた苦痛とナニカにまみれた低い声。立原さんの制止の声よりも先に、私の視界に入れて、いや入ってしまった。
立原さんの一撃で折れてしまったはずの首を、音を鳴らしながら無理矢理戻す、男の姿を。
「あ、あ、…ひ、ぃ………!?」
「やっぱりこの程度じゃ無理だよね……」
助けを求めるように立原さんにしがみついたら、おそるおそるというように頭に触れてくれた。
その間にも、あの虫男はゆっくりと動き始めている。目はこちらを向いたまま、手で体を支えて四つん這いになったと思ったら、
「み、緑…ミどリ、ミドリはああぁあぁぁあ……!!」
口から緑色の虫を、それだけではなく鼻からも耳からも、更には目からも涙のように虫が溢れてきた。
あまりの惨状にもう声は出なくて、金魚みたいにパクパクと動くだけで。
「きっしょくわるっ…。 レヴァナントってこんなヤツしかいないの?」
「じゃまジャマジャまじゃマジゃまじャマじャまジゃマ邪魔あぁアアァぁァアああぁあァア!!!」
獣のようにビタンビタンと手足を鳴らして襲いかかってきた。それと同時に振りほどかれて、後ろへと押される。
「行って!! 走って!!」
手に持った棒を振りかぶった立原さんが居た。鈍い音を立てて顔面にメリ込んだ棒、虫男はそれを物ともせず、歯を剥いて棒を受けた顔で押す。
「う、だあっ!?」
勢いは棒では止まらず、立原さんを押し倒す。ガコン、と嫌な音、顎を外した男は立原さんに噛みつかんばかりに緑で溢れるその顔で襲いかかった。勿論立原さんはそれを棒で押し留めて抵抗するけど、やはり男女の力の差が現れているのか、下手すれば鼻を掠るほどに近付いている。ボトボトと緑色の虫が落ちて、ウゾウゾウネウネと制服の上で身をくねらせていた。
「行けってば…早く……!!」
「え、い、いやだ、たちは、」
「行け!!早く!!」
叫び声にビクリと身震い。
「走れ!!!」
逃げたい、でも、逃げたくない。
立原さんは?
立原さんはどうなるの?
死んじゃうかもしれないんだよ?
どうして助けてくれたの?
全部私が引き起こしたせいなんだよ?
私が話を聞いたせいなんだよ?
私が先生の話を聞かなかったせいなんだよ?
全部、全部、全部ぜんぶゼンブぜんぶ!
私のせいなのに!!
「………れて、」
立原さんを巻き込んでいいはずがないのに!!
「離れて!!」
常に持っていたバッグを力の限り投げつけた。
「えぼっ!?」
ぐちゃっと何かが潰れるような音と共に見事に顔に命中したことが分かった。
虫男の体勢が少し崩れて、意識が、目線が、私にずれた。その隙を立原さんは逃さない。棒で思い切りその顔を押して、
「だっ!!」
虫だらけのその顔を殴りつけた。ブチュブチュと虫が潰れて緑の体液が飛び散った。柔らかいのか、それとも立原さんの拳が強いのか、容易く変形する顔。浮いた体を彼女は更に蹴り飛ばす。
やった、と思ったけど、
「うぅうウゥがああァアあアあぁァああアァァああ!!!」
虫男の執念がハンパじゃなかった。今度は真っ直ぐに私に向かってくる。
とっさに反射で体が動くほど、私は運動が得意じゃない。座り込んだまま、殺され…
「いい加減、」
ガン!!とぶつかる音が目の前で聞こえ、いや見た。立原さんが虫男を素手で止めていて、私の前に立っていた。
「手ぇ出すなってのが───」
ゆっくりと握られる右手には不思議な形の黒いタトゥーのようなものが見えて、
「分かれやぁああ!!!」
怒号と共に突き出された拳は虫男の顔に叩きつけられ、弾けた。虫もボトボトと落ちているけど、ジジ…とまるでノイズが走ったようにジリジリと黒いもやになって、初めから存在してなかったように、今までの出来事が幻のように消えていった。
ただ、2つくらい確かなことがある。
1つは私と立原さんが虫男を撃退したこと。
そしてもう1つは……
「あ、あの…立原さん……です、よね? その…タトゥーは一体いつ……」
「………」
手や顔、足に絡み付くように彫られた黒いタトゥーが、気まずそうに目を反らす立原さんにあることだ。
ガシャン、と遠くで何かが落ちる音が聞こえた。目を向ければ立原さんが自動販売機の前でしゃがんで飲み物を取り出すところだった。その体には黒いタトゥーは彫られていない。というか、あの後いつの間にか消えていて驚いた。
今、私と立原さんはさっきの虫男を倒した場所から離れて、近くの小さな公園に来ていた。夕方の茜…大分薄暗くはなってきているけれど、子供達とその親であろう大人達が楽しそうに遊んで、笑って、見守っていて、とてもさっきの出来事が信じられなくて、
「あの、」
「え、えっ!? ……あ、立原さんか、あーびっくりした…」
声をかけられて、あの虫男がフラッシュバックした。
落ち着いて見れば、両手にさっき買ったであろうお茶の入ったペットボトルを持っている立原さんが居た。差し出されたそのお茶にお礼を言って、いまだに立っている立原さんにも座って貰うように、私の座っている位置を少し横にずらす。彼女は戸惑いながらも、しかしおそるおそるといった感じで腰を降ろしてくれた。
そして、
「…………」
「…………」
「「……………………」」
…無言。
……いや、うん。まあ、確かに立原さんと話すことはほぼ…というか全くなかったし、正直何から話せばいいか分からないし……。うわー、どうするの私……コミュ力を買いたい気まずい…。
「……あの、」
「はいっ!?」
緊張のあまりか思っていたよりも高くて大きな声が出てしまった。(立原さんは目を細めて睨むように呆れているけど)周りの人は聞いていなかったようで何より……。
「……その、なんというか」
「は、はいっ、なんでしょうか……!」
「今日のことは忘れた方がいい」
静かに、でもはっきりと、私を見ないで、真っ直ぐと前を向いてそう告げた。
「ショック……だったろうし、覚えてても辛いだけだし……。 それに、私と居ること自体、あのバカ共に目を付けられる原因になる、から…友達からも避けられるかもしれない」
だから忘れな、と突き放すような優しい声で言われた。思わず涙腺が緩んでしまった。
いつも見て見ぬ振りをしている私に対して、気を遣ってくれていることに心がとても痛んだ。
巻き込むな、もっと気をつけろって怒鳴られても、脅して言う事聞けって言われてもおかしくないのに。助けて貰われるような立場でも無いのに。
立原さんは今もこうして、私の背中をさすってくれている。凄く優しい人だと、どうして今まで気づかなかったんだろう。
ぐしゃぐしゃな顔を上げれば、そこには心配そうで不安そうな、少し冷や汗をかいている立原さんの姿。
その姿を見て、日記帳に立原さんを書き続けていた自分の心がやっと分かった。
憧れていたんだ。
その不器用な優しさに。
自身に確固とした意志のある強さに。
孤立しようとも自分を偽らなくなったその姿に。
勿論怖くて恐くて近づきがたい時があるけれど、それでもどこか儚さがあるその強さにどうしようもなく惹かれていた。
「た、立原さん……っ」
「え、あ、うん? どうした、ん…ですか? お茶飲みます?」
「すき、ですっ…!」
「……………はぇ?」
「すき、です…すき、あこがれで、その……っく、ぅ…あっ……あなた、のっ、~ぅ、ひっく……つよさ、……き、なんで……!」
「うん、ちょっと待って?落ちつけ、おちつこう、ウン」
あなたみたいな、強くて優しい人になりたいんです。
「と、とも、だち、友達に、なって、くださ、いっ…!」
「分かった分かった、なる、なるよ?だからほら、お茶飲んで落ち着こう、ね?ねっ??」
立原さんは泣きじゃくる私の背中をさすってくれて、お茶を勧めてくれた。
家まで送って貰って、自室で発狂しかかったのは私だけの秘密。
日記も乱れた。