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短編小説

『夜の鏡』 <第二稿>

作者: 半信半疑

あんまりこわくないよ。

たぶん。

 確か、午前二時頃だったと思う。寝床にいた私の意識が突然覚醒してしまった。頭は何をするでもなくぼんやりとしていた。眼球は少し水分を減らしているようで、私は数回、瞬きを繰り返した。

 壁にかけた時計の秒針が、静かに鳴っている。

 寝る前に酒を二杯飲んだことが原因したのか、どうやら催してしまったらしい。私は寝床から抜け出して厠へと向かった。


 戸を開け部屋を出ると、夜は静かだった。虫の音も聞こえないほどに。もうすぐ夏になるから騒ぎ出してもいいはずなのに、外にはただ、黒い夜が満ちているばかりである。


 暗い中を、私は進む。廊下の明かりは点けなかった。厠までの道のりに存在する全ての廊下の明かりを、一々点けていくのは嫌だった。何かに怯えている自分というものを確認したくないからだったと思う。あるいは、その行為が闇を怖がる子どものように思えたからだろう。私はいい歳をした大人である。暗闇が何だ。

 幸いにして、目も慣れているからと、私は闇の中を静かに歩いた。


 半分ぼんやりとした頭で一歩一歩進む。酒が完全に抜けきっていないのだろう。浮かれ心地とまではいかないが、ふわふわとした感覚が残ったまま足を動かしていた。用を足したいという願望を満たすため、私はせこせこと厠へ向かった。


 いくつかの廊下を曲がったり登ったり。黒くて暗い夜の支配下を、一人の人間が厠へと向かっている。こうして歩いていると、どうでもいい考えが頭をよぎって、少しだけ愉快になった。私にもまだ、このような若い思考が存在していたということを知れて、まるで知らない自分を見つけたような心地になった。


 愚かな思考だと自分でも思う。しかし、酔った頭というのは複雑怪奇で、何を思っているのか、全く見当がつかない。右側が左側で、上が下だったりする。つまるところ、今の私はおかしな存在だということだ。


 廊下は暗い。明かりを点けていないから当然のことだが、今更になって暗闇の怖さを感じている。若干酔いも薄れてきたようだ。さっさと用を済ませて、早くベットへの帰還を果たそう。私は、少しだけ歩みを速めた。


 足音のみが、曖昧な空間に響いていた。古い木造家屋だからか、一歩進むごとにミシミシギシギシと悲鳴をあげている。もう少し身軽になる必要がある、と冷静な頭で考えた。同時に、私の足音で同じ家に住む彼女を起こしてはしまわないか、と不安になった。それまで意識の外にいた彼女の存在が思い出されて、心に少しゆとりができた。


「まずは、禁酒をしなくては……。夜のお酒は控えよう」


 口に出して深く戒める。実行に移すためには、口に出して言葉にした方が良い、と誰かの本に書かれていたことを思い出した。

 そんな風にして、禁欲を固く誓っているうちに目的の厠に着いた。やけに時間がかかったような気がするが、気のせいだろう。そういうことにしておく。


 厠に備え付けられている電気をつける。さすがの私も、暗闇の中で用を足す趣味は持ち合わせていない。手早く済ませたいところではあるが、しばし時間を必要とするようだ。生理的欲求は、ため込んだもの全てを解き放ちたいらしい。

 仕方なく体に付き合う。精神は今すぐベッドに戻りたがっていたが…。

 しかし、幸運なことだか分からないが、済ませている時は、先程までの廊下の闇のことなど忘れ去っていた。


 欲求がようやく終わりを迎えると、途端に怖れがやってくる。忍び足で寄ってくる、何処にいるかも分からない闇への怖れ。酔いが醒めてきたのだろうか。

 蛍光灯がチカチカと点滅した。そろそろ買い替えないといけない。

 厠の水道で手を洗う。泡を使って綺麗に汚れを落とした。そして、正面にある鏡を、私は何ともなしに見た(私の家は厠に鏡があるのだ)。

 理由などない。視界に入ったから目を向けただけのこと。そこに映るのは私の顔だ。そのはずだ。

 鏡には私の顔が映っていた。何の変哲もない顔だ。少し染みが増えたかもしれない、そんなことを思って体を反転させた時、

「はて? 今さっき、鏡に映った私は、笑っていなかったか?」

 そんな疑いが芽生えた。

 鏡に背を向けている体を、ゆっくりと動かし、対面する。


 そこに私の姿は無かった。代わりに、異様なモノが映っていた。

 まず目に飛び込んできたのは肌の、異常なまでの白さ。

 次に、こけた頬。

 そして、飛び出た目玉と、吊り上がった口角…。

 実際の私は全くおかしくも無いのに、鏡の奴は不気味な姿で笑っている。視界に入れている時、私の思考も体も、凍りついたままだった。

 鏡の中の人物と視線が合う。

 一瞬で肌が泡立つ。ぞわりと、背中を這いずる寒気。眩暈が私を襲った。頭が、痛い。

 そこにいる私は、いつも映る私ではない。

 鏡はそっくりそのままを映すものだと言うが、これが私だとでもいうのか? 

 …冗談じゃない。冗談でも笑えない。こんな、こんな怖ろしいものが、私だって…?

 一度瞬きして手の甲で目元を拭っても現状は変わらなかった。わなわなと口が震える。


 錯乱した思考のせいか、私は、気づくと鏡に向かって一発殴っていた。きっと、それ以上見たくなかったからだと思う。勇ましい行動だと思われるかもしれないが、根底にあるのは恐怖心である。あんな悍_おぞましいものを、いつまでも見ていたいとは思わない。

 私は押し寄せる悪寒を振り払うように、厠を急いで走り出た。部屋に着くまでの廊下も走り抜けた。騒々しい足音が響くが、周りに構う余裕などない。それがたとえ、彼女であってもだ。行きの道のりが嘘に思えるほどの早さで部屋にたどり着き、寝床に潜り込む。掛け布団を頭まで被り、全身を隠す。

 かちかち音がうるさいなと思ったら、震えて歯がかちあっている音だった。同時に、心臓は早鐘を打っていた。じっと動かず身を潜ませる。異様なモノからは離れたが、寒気が離れてくれない。


 鋭敏になった聴覚は体から発する音だけでなく、外界の音までも広く拾うようになっていた。

 どこからか「ひたひた」、と音がする。


 足音だ。奴の、鏡にいた奴の足音だ。どうしてだ。どうして奴は実体を持っているんだ! 鏡の中にいるんじゃないのか!

 何故、何故と言いながら、私は寝床で震えた。隠れていてもどうにもならないが、見つからなければ、視界に姿が映らなければいいという根拠のない思い込みを信じ、私はそのまま息を殺した。恐怖に支配された私は、そうすることしか、できなかった。


 目をつむり、小さな声で必死に救いを請うた。無我夢中だ。


「助けて、助けて、助けて、助けて…」

-ひたひた

「助けて、助けて、助けて、助けて…」

-ひたひた…ひたひた…


………

……



◇◆◇



 どれくらいそうして願っていたか分からないが、気づくと、あたりには元通りの静寂があった。握りしめた拳は強張っていてすぐには開かなかった。手は白くなっていた。

 しばらくして掛け布団を少しだけめくり、部屋の様子を見る。…どうやら何もいないようだ。

 しかし、それから朝方の光が窓から射し込むまで、私は、眠りにつけなかった。全身の強張りは抜けていなかった。


 日が昇り、黄色の輝きが辺りを照らし始めた朝、私は起き出した彼女に目元の隈について聞かれた。

「眠れなかったの?」

 私は昨夜のことを話した。正直に言うと、誰でもいいから話して楽になりたかったのである。

 すると彼女は、酒のせいだと結論付けてくれた。やはりそうだろう。酔っていたせいだ。酒のせいだ。アルコールが悪いんだ。

 私は何度も言葉を変えて口に出した。今後、寝る前の飲酒は控えようと再度誓った。


 それから二人で厠の鏡を確認しに行くと、案の定、鏡はひび割れていた。相当な力で殴りつけていたようである。夜中からつけっぱなしだった、厠の電気を消す。

 後日買い換えねばならないなと話して、部屋に戻ろうとする私に、彼女は一つ質問をした。

「ところで、昨日私の部屋に来なかった? 耳元で足音が聞こえた気がしたんだけれど…」

 断わっておくが、私は昨夜、彼女の部屋には、行っていない。 


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