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ひだまり童話館(参加作品・過去お題作品)

SHINOBI ~日下茂平物語~

作者: 天神大河

 今から昔、江戸時代中頃のこと。土佐藩(とさはん)(現在の高知県)には、連日城下町を賑わせる盗賊がいた。


「おうお(まん)、聞いたかえ。また盗賊の茂平(もへい)が出たんじゃと。今度は『くろの屋』から米を大量に盗んだがやと」

「へえ、そりゃあたまげた。けんど『くろの屋』はのう、去年の飢饉のときに米を自分だけ独占して、わしらにはちっとも売ってくれんかったろう。自業自得じゃい」

「ほうじゃのう。茂平は、わしらにとっちゃあ義賊じゃ」


 年寄りたちの会話を小耳に挟みながら、十五になったばかりの若い娘――お(きぬ)は覚束ない足取りで通りを歩いていた。


「野菜、魚、いらんかねえ。安うしちゃるき、()うてってやあ」


 声高にそう言いながら、お絹は骨ばった両手に野菜と魚とをたくさん詰めた桶を持って、通りをあちこち歩き回っていた。だが、朝から休みなく歩き続けているにも関わらず、品物は一個も売れていなかった。

 もうじき日が暮れるというのに、これでは一銭も儲けが出ない。そう思ったお絹はその場でつと立ち止まり、小さく溜息を吐いた。

 その時、彼女の前に何か巨大な影が現れたかと思うと、どん、と大きな音を立ててぶつかった。

 お絹の華奢な身体が、地面へと崩れ落ちる。それと同時に、彼女の手から離れた桶が土の上を静かに転がりながら、辺りに大量の野菜と魚を散らばらせた。


「こりゃ、そこの女子(おなご)! おんしゃあ、どこを向いて歩きゆうがじゃ!」

郷士(ごうし)の娘が。わしらあ上士(じょうし)が歩いちょるのに、よう邪魔をしたもんじゃ。()が高い、控えろ!」


 立派な羽織を着た二人の男は、うつ伏せに倒れ込んだお絹の姿を見下ろし口々に罵声を浴びせる。対するお絹は、伏せた体勢のまま素早く足腰を動かし、正座の形を作った。そのまま頭を地面に着けると、両手を頭の前に持って行く。


「申し訳ありません、申し訳ありません」


 高い声を震わせ、お絹はただその場に平伏する。幾度も顔を地面に擦り付ける彼女を尻目に、取り巻きの男たちが小声で口にする。


「おい、ありゃあ沼島(ぬまじま)様のところの羽織じゃねえか」

「わしら郷士が上士に逆らうだけでも大事(おおごと)じゃというに、よりによって相手が沼島様とはのう」

「女子供の粗相にも容赦はせん方じゃ。あの女子は気の毒じゃが、わしらじゃどうにもできんちや。くわばら、くわばら」


 取り巻きの男たちがそんな会話を交わしている間に、上士の男の一人が、お絹の長い黒髪を乱暴に掴んだ。土で汚れた彼女の顔を前に、二人の男は下卑た笑みを浮かべる。


「この女子、わしの羽織に泥を塗りおった。斬って捨てちゃろうか」

「まあ待ちや。恰好こそ悪いが、顔だけはよう出来ちゅう。どこかへ身売りでもすりゃあ、高い金になるろう」


 口々にそう告げる彼らを前に、お絹は言い知れぬ恐怖から眉を歪め、目に涙を浮かべた。


 その時、彼女の眼前に突如黒い影が現れたかと思うと、上士たちは小さく呻き声を上げて後ずさった。

 いったい何があったのか。三人が影の姿形をはっきり捉えるより先に、気だるげな低い声が辺りに響く。


「ええ加減にしいや、上士ども。折角の団子が不味くなるろうが。見ちゃおれん」


 そう口にする影の姿が、徐々に鮮明に映る。お絹と変わらない年頃と思しき、若い青年だった。薄汚れた黒衣を纏った彼は、右手に握った串を口元へ持って行くと、そこに刺さっていた緑色の団子を口に含んだ。青年が噛むのに合わせて、肩まで伸びた黒髪もゆっくりと上下する。


「おんしゃあ、一体何をするがじゃ!」

「無礼者め、控えろ!」


 口々にそう言いながら、上士たちは青年の前へ近づこうとする。そのうちの一人が刀の柄に手を掛けたところで、黒衣の男は頬袋に団子を入れたまま、お絹の方へと向き直る。


「おい、お前。逃げるぞ。しっかり捕まっちょれ」


 お絹がその言葉に応える間もなく、青年の大きな手が彼女の背に触れた。その瞬間、辺りに土煙が立ち込める。突然の出来事を前に、二人の上士と、周囲に集まっていた取り巻きは思わず目を伏せた。

 そして、彼らが再び目を見開いた頃、つい先程まで居たお絹と青年の姿は、きれいさっぱり消え去っていた。



***



 お絹の目の前が、突然真っ白になる。陽光の如き白い閃光を前に、彼女は瞼を強く閉じた。眩い光は一瞬だけ強い光を放った後、花火のようにたちまち消え去っていく。

 そして、お絹はうっすらと瞼を開く。日の光に目が慣れていくとともに、彼女は自分が今置かれている状況を前に、唖然とした表情になる。


「えっ、えっ。な、何で」


 お絹は、青年の腕の中にいた。

 素早く地面を蹴り、街中を目に見えない速さで駆けていく彼の腕の中で、お絹はきょろきょろと辺りを見回す。建ち並ぶ家々が、彼女の視界から流れるように消えていく。

 目の前の状況を飲み込めないまま、上を見ると短い無精ひげを生やした青年の顔が見えた。お絹は彼に声をかけようとするが、それよりも先に男の口が動く。


「あの、こ、ここわ……」

「下手に喋りなや。舌噛むぞ」


 淡々と告げる青年を前に、お絹は困ったような顔を浮かべる。彼女の表情をちらと目で捉えた青年は、(かかと)を短い間隔で蹴り続け、走り続けていた足をぴたと止めた。腕に抱えていたお絹をその場に立たせると、小さく嘆息する。

 やがて、お絹は少しずつ冷静さを取り戻す。周囲に建っている小さな家と屋敷、路地と水路の形から、彼女は見覚えのある町の姿を少しずつ思い出していく。


「ここって……もしかして宝永町(ほうえいちょう)? あれ? あたし、つい今まで播磨屋(はりまや)の町におったのに」


 眼前に佇む新堀川(しんほりかわ)、中の島を挟んでさらに奥にある鏡川(かがみがわ)を眺めながら、お絹がぽつりと呟く。播磨屋町(はりまやまち)から宝永町までは、およそ十町ほどの距離がある。馬でも使わない限り、どれだけ早く走っても四、五分はかかる。だが、先ほどの騒動からはまだ一分程度しか経っていない。お絹が信じられないと言わんばかりの様子でいると、青年が溜息交じりに口にする。


「おい。上士どもから助けてやったのに、お礼の一つも無いがか」


 背後から聞こえてきた青年の言葉に、お絹は素早く振り返る。そのまま、彼女は男に向かって深く頭を下げた。


「あっ、ありがとうございました。危ないところを助けて頂いて……」

「まったく。この土佐じゃあ、郷士が上士の機嫌を損なえばどうなるかぐらい、分かっちゅうろう。気をつけや、小娘」


 す、すいません。そう言うと、お絹はもう一度深く頭を下げる。対する青年は、長い黒髪を乱暴に掻きつつ、もういい、とぶっきらぼうに応じた。その様子を目にしたお絹は、両手を胸の前に持って行くと、青年の顔を真っ直ぐに見つめる。


「本当に、何とお礼すればいいか……あっ、あたしの名前、お絹と言うがです。すいません、あなた様のお名前を聞いても」

「すまんが、俺には名乗る名前が無いがじゃ」

「それでは、あなた様を何と呼んだら」

「へのへのもへじ」


 へのへの……? お絹の脳裏に、顔の落書きによく使われる七文字が踊る。困惑した顔を浮かべるお絹の姿を見た青年は再び溜息を吐くと、『モヘジ』で良い、と呟いた。


「モヘジさん、このたびは本当にありがとうございましたっ」

「そんな何べんも『ありがとう』言いなや。繰り返し言われちゃあ、ありがたみが薄れるろう」


 すみません。お絹が小声でそう漏らすと、『すみません』も聞き飽きたちや、と青年――モヘジが告げる。彼の言葉を受けて、お絹がしょんぼりしたように眉をハの字に歪ませた。

 それから少し間を置いて、モヘジはところどころが垢でうっすらと汚れたお絹の着物を一瞥し、乾いた唇を動かす。


「俺と話すときは、別に敬語もいらん。変に気遣われるのはこそばゆい。それよりも、お絹とか言うたな。商人(あきんど)をしゆう割に、なかなか売れちょらんかったようじゃが」

「そ、それは……」

「地面に落ちてたお前の売り物、さっき少しだけ見たが、ありゃあかなり鮮度が落ちちゅうぞ。あと所々腐っちょった。去年は飢饉があったち言うても、見てくれが良うない物は誰も買わんちや。もっと工夫して売ってみいや」

「工夫して、って」


 モヘジの歯に衣着せぬ物言いに、お絹は顔を顰めた。頬をぷっくりと膨らませながら、お絹は不満げに尋ねる。


「それじゃあ、モヘジさんは商いをやったことあるが?」

「あるさ。俺がまだ小さかった頃じゃ。小便臭い餓鬼の売り物はいらん、と言われた記憶しかないが」

「じゃあ、モヘジさんだって売れちょらんかったがや。そんな人にあたしの商売をどうこう言われとうないわ。あたしはもうここで大丈夫やき、失礼します」


 早口でそう言うと、お絹は踵を返して通りを歩き出す。おい、待て。モヘジが呼び止めるのも聞かず、彼女は通りを西へと曲がり、そのまま裏路地へと消えて行った。

 モヘジは小さく嘆息すると、お絹とは反対の方角へと歩を進めた。通りを東へと進む。視界に映る五台山(ごだいさん)の景色を遠目に眺めていると、どこからかしわがれた男の声がモヘジの耳に響く。


「どんな風の吹き回しじゃ、真昼間から女子なぞ助けおって。放っておけばいいものを」


 モヘジは、すぐ左手にある裏路地へと目を向ける。昼間にも関わらず、夜のごとき深い影が差し込むそこへ、モヘジは語りかける。


市之丞(いちのじょう)か。どうしたち、俺の勝手じゃ。そんなことより、仕事か」


 モヘジは裏路地の影を見つめたまま、目を逸らさない。すると、影の中で二つの鈍い眼光がわずかに瞬く。


「ああ、今宵は沼島じゃ。商人や貧しい者から事あるごとに金をせびり、身売りや賄賂も厭わん、上士の風上にも置けん悪党じゃ。女子供にも刀を抜くことでも有名な奴ぜよ」


 市之丞と呼ばれたしわがれた声の主は、淡々と告げる。姿を見せない彼の言葉を耳にしたモヘジは、口角に不敵な笑みを浮かべると、影に向かって得意げに言い放つ。


「沼島かえ。さっき、そいつの手先に会ったばっかりじゃ」

「何じゃと。ならばお主、彼奴等(きゃつら)に顔を見られちょるやないか。いかんぞ、おんしゃあ」

「大丈夫じゃ。そんなに吠たえなや。何とかなるろう」

「……まあいい。暮六つ時に、沼島の屋敷で落ち合おう」


 そう告げる市之丞の声を聞いたモヘジは、気配の消えた影を一瞥し、そのままどこかへと歩き去って行った。



***



 お絹は狭い裏路地をとぼとぼと歩いていた。腹から音が鳴り、半身をにわかに震わせる。悲鳴を上げる身体を宥めるように、彼女は骨ばった手で自らの腹を擦った。


「お腹空いた……今夜の飯、どうしよう」


 結局今日は何一つ儲けを得られなかったばかりか、大切な売り物をすべて地面にばら撒いてしまった。今晩の糧どころか、明日以降も食べていける保障はない。

 あの時、上士二人とぶつかりさえしなければこんなことにならなかった。お絹の脳裏に幾度もその考えが浮かぶも、最早後の祭りだ。無くなってしまったものは仕方ない。とりあえず今夜を凌げる食い物を探さなければ。お絹はゆっくりと、足を前へ進める。

 その時だった。お絹の後方から突如大きな影が現れたかと思うと、男の大きな手が彼女の口を塞いだ。お絹は息ができない苦しさに悶えながら、手足をじたばたと前後に動かす。だが、そんな抵抗もむなしく、お絹はその場で崩れ込んだ。


「見つけたぞ、さっきの郷士の女じゃ。こんなところにおったがか。探すのにめったちや」

「こんな(なり)でも、とりあえずは金になる。沼島様もさぞ、喜ばれることじゃろう」


 上士の男たちが口々に話すのを聞きながら、お絹は静かに気を失った。



***



 暮六つ時を告げる鐘の音が、既に沈みきった黄昏の夕陽に消える。次第に夜闇が辺りを覆い隠す中、日下茂平(くさか もへい)は手に持った団子を齧りつつ、草陰から沼島家の屋敷を眺めていた。

 沼島家の大きな屋敷は石垣と漆喰の塀に囲まれており、さらにその周りを堀が取り囲んでいた。堀には川から引っ張ってきたであろう水が張られており、苔交じりの緑色に変色している。


「おうおう、さすがは沼島と言うだけのことはある。屋敷をぐるっと沼で囲んじゅう。見苦しいものじゃ」


 茂平が感心したような口振りで吐き捨てると、彼のすぐ側に中年の男が音も立てずに現れた。


「感心しちょる場合じゃないぞ、茂平。堀を越えた先にも、見張りが大勢おる。忍び込むにはちと手間が掛かるぞ」


 しわがれた声でそう告げながら、男――佐川市之丞(さがわ いちのじょう)は茂平の姿を見つめる。紺色の忍装束を纏い、腰に短い忍刀(しのびがたな)を帯刀した茂平は、好物の団子の串を握ったまま沼島の屋敷を注視していた。


「唯一屋敷を繋いじょる橋からは、まず無理じゃろう。見張りを四、五人もつけちょった。かくなる上は水遁(すいとん)を用いるほかないろう」

「沼を渡って抜け道を探らにゃあいかんのか。汚い沼を泳ぐのは、ちと嫌じゃのう」

「馬鹿なことを抜かすな。そういやお前が昼間話してた女子じゃが、さっき沼島の屋敷へと運び込まれたぞ」


 市之丞の言葉を聞いた茂平は、目を大きく見開く。二、三度瞬きをした後、串に残った団子を全て口に含んだ。市之丞は、茶色い忍装束をかすかな風に揺らすと、茂平と同様に屋敷へ視線を移す。


「よもや先刻の女子が捕えられようとはな。だが、わしらのやることに変わりない。早速――」


 市之丞が、再度茂平へと目を向けようとする。しかしそこに彼の姿はなく、団子の串だけが(くさむら)に落ちていた。



***



 沼の周りを電光石火のごとく駆けながら、茂平は素早く忍装束を脱ぎ、(ふんどし)一枚になる。紺一色に染められた忍装束を手早く風呂敷に包み込むと、手近に落ちていた(つぶて)を拾い、沼に向かって勢いよく投げ込んだ。

 礫が水面(みなも)に触れた瞬間、その大きさに見合わない轟音が上がり、水飛沫が散る。橋にいた見張りの男らが何事か、と沼を覗き見る。礫を落とした水面が大きく揺れているのを目にした彼らは、侵入者だ不届き者だ、と口々に叫ぶ。

 そんな彼らを尻目に、茂平は礫を落とした場所から遠く離れた一角で、周囲の様子を窺っていた。屋敷中の見張りは全員、轟音の上がった水面に気を取られている。

 今が好機だ。心の内で呟くと、茂平はほとんど音を立てずに沼へ潜った。両足を蛙のように動かし、静かに前へ泳ぐ。風呂敷包みをなるべく水に着けないよう注意しながら、口に(くわ)えた短い竹筒でゆっくりと呼吸する。

 やがて、沼島の屋敷を囲む石垣の塀に辿り着いた茂平は、忍装束を入れた風呂敷包みを塀の上目掛けて勢いよく放り投げる。包みが塀の上に引っ掛かる様子をはっきりと見て取った彼は、石垣の凸凹(でこぼこ)に手をかけた。


「立派な屋敷と立派な沼に対して、こっちはお粗末な塀じゃのう。是非上ってくれ、と言うちょるようなもんじゃ」


 そう漏らしつつも、茂平はわずかな窪みや突起を利用し、石垣を駆け上がって行く。あっという間に天辺に達した彼は、風呂敷包みから忍装束を取り出すと、目にも止まらぬ速さでそれを身に纏う。

 さほど濡れていない紺色の装束を着た茂平は、意を決したように、真っ直ぐ屋敷へと駆ける。そんな青年の黒い影は、次第に夜闇の中へと紛れていった。



***



 お絹が目を覚ますと、そこは今まで見たこともない豪華な部屋だった。床は一面清潔な畳で覆われており、三方には立派な障子があった。四隅には置行灯(おきあんどん)が据えられ、部屋一面を橙黄色(とうおうしょく)の灯がほんのり照らし出している。

 間もなく、お絹は息苦しさと手足の違和感を覚えた。彼女の口には猿轡(さるぐつわ)が巻かれているばかりか、両手足が縄で縛られていた。そんな自分の置かれている状況を呑みこむ間もなく、お絹の背後から野太い男の声が響いた。


「おお、気がついたかえ。なるほどのう、良い目をしちょる」


 お絹が後ろを振り返ると、そこには藍色の(かみしも)を着た小太りの男――沼島が座っていた。両足を前に伸ばす彼の黒い瞳が、お絹の全身を隅々まで見つめる。頭の天辺から足先までを一通り見終えた中年の男は、赤茶色い舌を出すと、自身の分厚い唇をべろりと舐めた。


「ふむう、良い女じゃ。馬鹿な旗本どもは売れば金になると言うちょったが、それは勿体ないのう。どれ、(わし)の女になれ」


 沼島が、這うようにしてお絹へ近づく。行灯(あんどん)で照らされた部屋の明かりが、一瞬だけわずかに揺れた。お絹は沼島から逃げ出そうとするが、身体を縛られているためうまく動けない。声を上げようとするも、猿轡に阻まれる。

 お絹が抵抗している間に、沼島の長い影が彼女の影に触れる。獣のように荒く、熱い息遣いが、娘の耳に入ってくる。

 お絹は、目に涙を溜めながら沼島の顔を見つめた。歪んだ男の笑みが、十五歳の娘に言い知れぬ恐怖心を覚えさせた。


「年甲斐もなく若い娘に迫りなや、沼島。胸糞悪いのう」


 不意に、部屋のどこからか青年の声が響いた。それとともに、部屋を照らしていた行灯の灯がすべて消え、辺りを暗闇が包み込む。


「何奴じゃ! 無礼な、儂が誰かを分かっちょる上での狼藉(ろうぜき)かえ!」


 その場で勢いよく立ち上がった沼島が、声を思い切り張り上げる。だが、声の主はそれに応えない。

 聞き覚えのある声に、お絹がぼんやりと記憶を辿っていると、突如沼島が二、三度甲高い悲鳴を上げた。


(いて)てっ、痛て! 曲者(くせもの)、曲者じゃあ!」


 沼島が叫びながら、左手の甲に刺さった細い(とげ)のようなものをゆっくりと抜く。傷は浅かったものの、左手の痛みに耐えきれず、時折熱い唇の隙間から呻き声が漏れた。

 程なく、二十人ほどの侍が沼島とお絹の居る部屋へと走って来た。彼らのうち数人が左手に松明(たいまつ)を持ち、それ以外の者は全員抜刀し、灰色の刀身を鈍く光らせていた。


「沼島様、ご無事ですか」

「部屋に入った曲者を捕えろ!」


 左手を押さえながら、沼島が侍たちへ声を張り上げる。だが、彼の周りに集まった侍たちは皆部屋の中を右往左往するばかりだった。俄かにどよめきを上げるばかりの彼らにしびれを切らした沼島は、額に青く太い血管を浮き上がらせる。


「何しゆうがじゃお前ら、しゃんしゃんせえ!」

「しかし、沼島様。曲者らしき者は、どこにもおりませぬが」


 侍の一人がそう口にするのを聞いた沼島は、松明の明かりで照らし出された部屋のあちこちを眺める。部屋の中にはお絹の他に、彼の声を聞いて駆け付けた侍たちしかいなかった。

 沼島は、その場に立ったまま前後左右を幾度も見渡す。部屋を埋め尽くす侍たちの側で、全身を紺色の毛で覆ったドブネズミが部屋の隅を横切っていく。

 しばしの間を置いて、沼島の右手を目にした若い侍が、短い悲鳴を上げた。


「沼島様、それは!」


 若い侍の声を皮切りに、侍たちの間でどよめきが起こる。沼島が何事かと思いながら足元を見ると、そこには黒色の手裏剣が落ちていた。部屋の中心に陣取る小太りの男は歯を小さく震わせながら、再び声を張り上げる。


「おのれ、最近城下を賑わせちょる『茂平』という輩の仕業か。奴を捕らえろっ。斬り捨ててもかまんっ。何しゆう、()よ探せえ!」


 沼島の号令を受け、侍たちは部屋を離れ、屋敷内へ散らばって行った。沼島もまた、お絹をその場に残したまま部屋を後にする。侍たちの持っていた松明の灯が遠く離れ、夜闇が辺りを包み込む。

 お絹は、その場で長い溜息を吐いた。一応沼島の手から逃れることはできたものの、自分が未だ捕らわれの身であることには変わらない。束の間の安堵と先の見えない不安から、お絹はもう一度深い溜息を吐く。

 そんな彼女の側に、いつの間にか紺色のネズミが寄り添っていた。


「おい」


 先程の青年の声が、どこかから木霊する。どこから――? お絹がそう思いながら辺りを見回していると、ネズミは彼女の足に飛び移り、器用に肩まで登った。お絹の顔をすぐ目の前にしたネズミは、白い前歯を出しながら、小さな口を動かす。


「おい、俺だ。昼間会ったろう。沼島の手先から助けてやった恩、忘れたとは言わせんぞ」


 ネズミが発した言葉に、お絹は思わず目を(みは)った。この男は、まさか。そう思った矢先、彼女の自由を奪っていた猿轡と縄が、乾いた音を立てて畳へと落ちた。


「あ、あなた、モヘジさ……っ」

「大声を出すな。黙って俺の話を聞きや」


 ネズミが、低い声でお絹を威圧する。思わず口をつぐんだお絹は、小さく頷いて応じた。


「ええか、これから俺の言う通りにせえ。この汚い沼屋敷から、お前を自由の身にしちゃる」

「で、出られるがですか?」


 ああ。ネズミは一言だけそう応じると、沼島たちが出ていった障子へと一直線に駆けていった。お絹が茂平へ声をかけようとした瞬間、夜闇に紛れた忍の影が激しく揺れる。

 ふいに、お絹の眼前で炎が灯る。一瞬目を伏せ、あらためて目の前を見ると、紺色の忍装束に身を包んだ茂平が立っていた。左手には、彼の腕より一回り大きな龕灯(がんどう)が握られており、中で蠟燭の炎が揺れるのが見て取れた。


「もたもたしなや。行くぞ」



***



 茂平とお絹は、龕灯の灯りを頼りに屋敷内を進んでいく。すると、廊下の一角から白装束の侍が四人、茂平たちの前に躍り出た。


「曲者じゃ、捕らえろ!」

「茂平、貴様の悪行もこれまでじゃ!」


 茂平は隣を歩いていたお絹の肩に手を掛け、そのまま彼女の前に躍り出た。侍たちは、手に持った大刀を茂平目掛けて一斉に振り下ろす。

 幾筋もの刃が、ほぼ同時に眼前に降りかかる。しかし茂平は怯む様子もなく、すべての太刀筋を見切るやいなや素早く身を(かが)めた。刀身が鈍い音を立てて、他の大刀とぶつかり、木の床を傷つける。だが、その刃のどれも茂平を捉えてはいなかった。

 茂平は体勢を低くしたまま、侍たちへ駆け寄る。手近にいた侍の一人の袖口を掴むと、茂平は彼の身体を侍たち目がけて思い切り放り投げた。袖口を掴まれた男と、投げられた先にいた男とが、短い呻き声を上げてその場で気絶する。残りの侍たちは一瞬動揺した表情を見せるも、すぐに意を決して茂平へと斬りかかった。茂平は降りかかる二筋の刃を避け、侍の一人の前に躍り出る。右手でそのまま彼の袖口を掴むとともに、近くにいた侍へ音もなく放り投げた。残った侍二人もまた、短い呻き声を上げて気絶する。


「もう大丈夫じゃ。先を急ぐぞ」


 お絹は両手で口を押さえながら、泡を吹いて倒れている侍たちを注視していた。そんな彼女の様子を目にした茂平は、小さく溜息を吐いてお絹の元へ歩み寄る。


「心配ない、こいつらはただ気絶しちょるだけじゃ。じきに気がつくろう」


 俺は無益な殺生はせん。ぽつりとそう呟いた茂平は、お絹の身体を素早く自身の背に乗せた。お絹が驚きの声を上げるのも構わず、茂平は屋敷の廊下を駆け出した。昼間と同様、目にも止まらぬ速さで進む。

 夜闇で覆われた障子が眼前を流れていくのを見ながら、お絹は茂平に声をかける。


「モ、モヘジさん」

「俺の名はモヘジじゃない、茂平じゃ。誰と勘違いしちょるのか知らんが、俺はモヘジと言う奴に頼まれて、お前を助け出したにすぎん」

「えっ、けんど」

「俺の背中でべらべら喋りなや。舌噛むぞ」


 嘆息交じりにそう告げる茂平の背に揺られながら、お絹は静かに確信する。彼は、間違いなく昼間自分を助けてくれたモヘジその人だ。口では否定しているが、姿や口調、態度は昼間と変わらない。お絹は、茂平の背で小さく笑った。


「どういたが、急に(わろ)うて」

「だって、有名な盗賊の茂平が、まさかこれほど無愛想で、お人好しとは思わんかったき。ねえ、モヘジさん」

「だから俺はモヘジじゃのうて――」


 そう口で否定する茂平の前に、突如茶色の忍装束が現れる。茂平が足を止めると、眼前に市之丞が立っていた。険しい表情を浮かべた市之丞は、しわがれた低い声で茂平に語りかける。


「何しゆうがじゃ、茂平。お前、忍としての己の使命を忘れたがか。たかが女一人に(うつつ)を抜かすなど」

「勝手なことをしたとは思うちゅう。すまん。けんど、この女子に何かあってはいかんかったがじゃ」


 茂平が淡々とした口調で告げる。彼の言葉を聞いたお絹の胸が、少しだけ高鳴る。対する市之丞は、険しい表情を崩さないまま、懐から小さな黒色の包みを取り出した。


「まあいい。そんなことよりも、奴が賄賂と身売りをしていた証拠を掴んだ。さっさとここから出よう」

「すまん、市之丞。この借りは、必ず――」

「見つけたぞ! 曲者じゃ!」


 刹那、どこからか男の声が上がった。茂平と市之丞は顔を合わせると、互いに小さく頷く。

 いろいろ言いたいことはあるけんど、まずはここを出てからじゃ。市之丞がそう呟くのを聞きながら、茂平たちは屋敷の出口に向かって駆け出した。細長い廊下の前方と後方に、白装束の侍が集まる。眼前に立つ侍を次々に蹴散らしながら、茂平たちは屋敷から抜け出した。

 屋敷と外とを繋ぐ橋にやって来たところで、お絹は短い悲鳴を上げる。茂平と市之丞が眼前を注視すると、そこには沼島が立っていた。二十人はいるであろう侍たちを(はべ)らせた彼は、歪んだ笑みを浮かべながら口にする。


「儂の屋敷から黙って出て来られると思いなや、忍風情が。茂平に市之丞、二人もおるとは思わんかったが、構わん。この場で一網打尽にしちゃる。かかれ!」


 沼島の号令を合図に、侍たちが(とき)の声を上げて一斉に襲い掛かって来た。お絹が声を出せないまま恐怖に震えていると、茂平が彼女に静かに語りかける。


「心配ない。お前は、俺が必ず助け出しちゃる。いいか、しっかり俺の肩を掴んじょけ。離すなよ」


 茂平の言葉をお絹が吞み込むより先に、二人の忍は空高くに舞い上がる。突然のことに驚いたお絹が思わず眼下を見ると、下にいた沼島たちも同じように驚愕した面持ちで茂平たちを見つめていた。

 茂平と市之丞の身体が、ゆっくりと地面へと降りて行く。屋敷の対岸に両足を下ろした彼らは、背後の橋に目を向ける。先程の出来事に侍たちはみな呆然としていたが、沼島だけが顔全体を紅潮させながら甲高い声で叫んでいた。


「おのれ、奇怪な技を使いおって。何しゆう、お前ら! 早う奴らを捕らえろ! 斬れ、斬れえ!」


 沼島の言葉で、次第に侍たちは平静を取り戻す。やがて大刀を構え直した彼らは、再び鬨の声を上げて茂平たちの元へ走っていく。茂平と市之丞は、事前に足元に置いていた目に見えない糸を掴んだ。やって来る侍たちの姿を前に、茂平がぽつりと口にする。


「捕らえられるものなら、捕らえてみいや。まずはその汚い沼から出られたら、な」


 二人は、手に持った糸を手前へ思い切り引っ張った。刹那、沼島たちが立っていた橋の橋脚(きょうきゃく)が根元から折れる。木で出来た橋は音を立てながら崩れ、橋桁(はしげた)も次第に壊れていく。

 沼島や侍たちは全員、屋敷を取り囲う沼へと落ちていった。侍たちは沼で溺れつつも、ゆっくりと泳ぎ出し、手近な石垣に身を委ねた。唯一泳げない沼島は、ぷくぷくと泡を出して沈んでいたところを、侍二人に抱えられながら助けられた。

 彼らの様子を遠目に見ながら、茂平はお絹を背中から降ろした。後はもう自分で帰れるろう。その言葉を耳にしたお絹がふと目をやると、茂平と市之丞の姿は忽然と消えていた。



***



「お前、見たかえ。鏡川に晒されちょった、沼島の賄賂の念書」

「ああ、見た見た。あれは流石にいかんろう。身売りのことまで書かれちょったそうやないか」

「あの念書の件で沼島は、藩庁(はんちょう)から厳しい詮議(せんぎ)を受けゆうと。噂で聞いたんじゃが、この件で御公儀(ごこうぎ)も動きゆうらしい。沼島に厳しい沙汰(さた)が下されるがは、まず間違いないろう」

「それにしても、今回の件。盗賊の茂平が暴いたっちゅう話じゃろう。大したもんじゃ」


 年寄りの男女が集まってそんな噂話をしているのを聞きながら、お絹は樽いっぱいに詰め込んだ野菜を売るために朝から街の通りを歩き回っていた。


「人参、大根、いらんかねえ。朝採れたてで美味しいで。寄っちょれよ」


 そう声を張り上げながら、お絹は細い足で前へと進む。昨日のモヘジの言葉を意識して、お絹は採れた野菜の特徴を強調しながら売り回った。その成果もあってか、今日は朝から野菜を買ってくれる人が二、三人現れた。


「美味そうな野菜じゃのう。それじゃ、俺には大根を売ってくれんか」


 背後から聞こえてきた声を聞いたお絹は、思わず振り返る。そこには、昨日と同様薄汚れた黒衣を着たモヘジが立っていた。彼の右手には、団子の刺さった串が握られている。


「モヘジさん、来てくれたがやね」

「ああ、今日はなかなか調子が良さそうじゃのう」


 モヘジは言いながら、懐から土埃の付着した銭を幾つか取り出した。四銭になるぞね、とお絹が言ったのを聞き、モヘジは銭を四枚お絹に手渡す。お絹は、少し土がついた大根をモヘジに手渡しながら、しどろもどろに口にする。


「モヘジさん。それで、昨夜は、その」

「昨夜のことは、誰にも言わずに早う忘れた方がええ。それがお絹、お前のためじゃ」


 モヘジが団子を口に含みながら淡々と告げる。そんな彼に構わず、お絹は言葉を絞り出す。


「何とお礼を言っていいのか。モヘジさんと、あと、もう一人おったあの男の人と」

「お礼なんかいらん。それは市之丞(あいつ)も同じじゃ。あいつは普段滅多に表に出て来ない分、市井(しせい)の連中から感謝されることもない。それが忍にとって、本来あるべき姿じゃと」


 串に刺さった団子を全て食べ終えたモヘジは、串を懐に入れると、手に持った大根を肩からぶら下げた。そんな彼を見上げながら、お絹は疑問に思っていたことを口にする。


「モヘジさん。モヘジさんはどういて、あたしを助けようとしてくれたが?」

「知らん。俺は何もしちょらんきに。助けたのは、盗賊の茂平が……」

「『モヘジさんに頼まれてあたしを助けに来た』って、茂平さんが言うちょったけんど」


 お絹の言葉に、モヘジは反論できずしばし黙り込んだ。彼の顔をまじまじと眺めるお絹から目を逸らし、そのまま彼女に背を向ける。再び沈黙が流れる。お絹が沈黙に耐え切れず口火を切ろうとした瞬間、モヘジが彼女に顔を向けないまま答えた。


「お前が、俺が最初に好いた女子とよう似ちょったからじゃ」


 突如、一陣の風が吹く。お絹は思わず目を伏せた。そして彼女が再び顔を上げると、モヘジの姿は既にどこにもなかった。人々が行き交う街の通りに立ちながら、お絹は満足気な笑みを浮かべる。


「ありがとうね、茂平さん」



 これは、忍――日下茂平の、史実には残っていない若かりし日の一幕である。




SHINOBI ~日下茂平物語~/終幕

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― 新着の感想 ―
[良い点] こ、これはまた、時代劇風ハードボイルド童話ですね。 私の頭の中では、坂本龍馬のような姿の忍者が浮かんできました。 茂平は地元では有名な忍者? それとも、天神さんのオリジナルキャラなのでしょ…
[良い点] 天神さんの歴史もの、いいですね♪ 忍者、かっこよかったです〜(*´∀`*) そういえば最近どこかで、妖怪ブームの次は忍者ブームが来るって読みました。なに情報だったんだろう??(もの忘れ多発…
[良い点] SHINOBI ~日下茂平物語~ 拝読させていただきました。  土佐藩を舞台にして、セリフも方言を使ったこだわりもあって世界観がよく作られていると感じました。必殺仕事人やねずみ小僧のよう…
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