第一章 巻き込まれた男。 5
「入ります」
涼やかなという表現がピッタリ来る様なそんな女性の声が響く。
『ススス……』
襖が静かに開かれる。それと同時にすっと女性が室内に入る。
サラッと長い黒髪、長身に似合うジーパンとシャツを着たその女性は美しい所作で正座した。
「お呼びにより参りました」
女性は正面に座る男性に視線を向ける。
「うむ……」
すると重く深い声が返ってきた。男の纏う空気は闇。闇が座っているかの様だった。
「瑠衣。お前に初の任務を言い渡す」
その言葉に瑠衣と呼ばれた女性が驚いた様に姿勢を正す。
「は! 何なりと!」
「瑠衣。お前は松尾流の忍びとして、これからこの高校に潜入してもらう」
男はスッと瑠衣の前にパンフレットを差し出した。
「これは……学校?」
瑠衣はパンフレットを捲った。
「武林高校? ここで一体何を?」
「うむ。お前はここに学生として入学し、そしてここである男性を守るのだ」
(男性……何だ? 政府の要人か?)
瑠衣は訝しげに男を見た。男はそんな瑠衣に構わず話を続ける。
「瑠衣。私が一度だけ任務を失敗した事を知っているか?」
「! お父様が……失敗? そんな馬鹿な。お父様は政府からの任務を全て完璧にこなしてきました。失敗など有り得ません!」
瑠衣は慌てた様にそれを否定する。だが男は淡々と言葉を続けた。
「私が若い頃だ。私は未熟さ故に某国のエージェントの罠に嵌った。途中で負傷していた私は五十人の達人に囲まれた。私は死を覚悟したが、そんな時、一人の男が現れた」
「それは一体……」
今まで聞いた事の無い話に瑠衣は先を促す。
「男の名は早坂鉄心。通称『鉄の男』。師を持たず、流派を持たず、無手を持って己の流儀を貫く。文字通り鉄の肉体と鋼鉄の精神を持つ男だった」
(お父様がそこまで褒めるなんて……)
瑠衣は嫉妬と羨望が交じった視線を父に送る。
「私の窮地に現れた鉄心殿は達人達と戦った。絶望的な状況だったが鉄心殿は決して諦める事無く五十人もの達人を全て倒した。私の命を救った鉄心殿はこう言った」
『ありがとう。アンタのお陰で楽しい喧嘩が出来たよ』
「笑顔でそういう鉄心殿は無邪気な子供の様だった。私はその時から鉄心殿の生き方に心を打たれ、救っていただいた命を鉄心殿の為に使おうと思ったが、鉄心殿は私の申し入れを受けてはくれなかった。その後、私も松尾流を継いだ為、会う機会も無くなったが、鉄心様が居なければ今の松尾流は無い」
瑠衣は父の話を黙って聞いていた。それはこの話が自分の任務と直結していると分かったからだ。
「では……私の任務とは武林高校に居る鉄心殿を守る事ですか?」
瑠衣の言葉にしかし父は首を振った。
「いや、違う」
「え……それでは?」
瑠衣が戸惑った様な表情を見せた。それはそうだろう。この話の流れならばどう考えても護衛対象は鉄心だろうから。
「鉄心殿は私達に守られる様な器の方では無い。お前が護衛するのは……鉄心殿の息子殿だ」
「息子?」
「そうだ。明日からこの武林高校に入学されるらしい。お前はそこに行って息子の早坂雄一殿をお守りするのだ」
父の言葉に瑠衣はしかし、不審な視線を向ける。
「お父様。しかし、この学校は普通の学校に思えますが……早坂雄一は命を狙われる理由が――」
あるのですか? と瑠衣は聞こうとした。しかし、それを父は遮る。
「ある。この学校は決して普通の学校などでは無い。いや、場合によっては最も苛烈な戦場になる恐れがある」
「え……一体……」
「いいか。武林高校とは仮の姿だ。この学校の真の目的は全世界の武術の統一にこそある」
「武術の統一?」
「そうだ。久我拾名が作ったこの学校で武術の統一を賭けた戦いが行われる。ここに集められる者達はそれぞれが流派の一番の弟子達。これは弟子を作った代理戦争に他ならない。命懸けのな」
「そんな……」
瑠衣が息を呑んだ。
(武術の統一? 歴史上そんな事がなされた事は無い。そんな事が起きれば世界中に多大な影響が出るわ……)
ボクシング、プロレス、空手、柔道……格闘技は様々ある。そこには莫大な利権も懸っているはずだ。それを統一なんて無茶過ぎる考えだった。
「正直どれほどの影響が出るかは分からない。だが各流派ともそれこそどんな手を使ってでも勝ちに来るだろう。もし万が一鉄心殿の息子に何か有れば鉄心殿に顔向けできない」
父親は立ち上がるとビシッと瑠衣を指差した。
「良いか瑠衣! 今こそ鉄心殿に松尾流の恩義を返す時だ。その大任をお前に任せる。命を賭して鉄心殿の息子、早坂雄一殿を守って来い!」
「はい!」
瑠衣は深く頷いた。そして静かに立ち上がると襖を開けて外に出る。
「ふう……」
小さく溜息を吐く瑠衣。
(はいって言ったけど……どうしよう……よく考えたら完全にお父様の私情じゃない)
そこは女子高生らしい感性を持っているのか複雑そうな表情だった。
(でも初めての任務だから頑張らなくちゃ。この日の為に一杯修行して来たんだから!)
気合を入れなおす様にパンと頬を叩くと瑠衣は自分の部屋へと歩き出した――