第一章 巻き込まれた男。 3
「それで……用事とは何ですか?」
鉄心がエスプレッソを飲みながら久我にそう尋ねた。その顔はエスプレッソの苦味か、それともこれからする話への不安からか、とても渋い物だった。
「うん。まあ今回はてっちゃんにあんまり迷惑かからないと思うよ」
それに久我が軽い調子で答える。こちらはクリームソーダーだ。
(今まで迷惑だという自覚は有ったのか……)
「ほ……では今日はどんな用で?」
「うん。てっちゃんってさ。確か息子が居たよね。高校生になる」
その言葉にエスプレッソに口をつけていた鉄心の動きが止まる。
「居ますけど……何ですか?」
「うん。あのさ。今度武術を一つにする大会が開かれるからさ。それに息子を参加させて欲しいんじゃよ」
「…………はい?」
(意味が分からない。何を言ってるんだこのジジイは?)
鉄心の顔に困惑の色がありありと浮かんだ。それに久我がうんうん。と頷く。
「良かった。返事はオッケーじゃね」
「いやいや! 一言もオッケーなんて言ってないでしょ!」
「え? 何で? 息子がこの世界で始めて武術を統一する男になるんじゃよ。これって凄い名誉な事じゃろ?」
「名誉な事って! うちの息子は別に武術家でも何でも無いですよ! それに私だって、武術界から足を洗っていますから!」
「え? そうなの? はぁ~勿体無いの~。わしと唯一互角に戦える男、鉄の男、鉄心が武術を引退なんて、武術界最大の損失じゃよ」
久我が心底意外そうに万歳する。それに鉄心は苛々した様に貧乏揺すりをした。
「それは長老。貴方も良く知ってるでしょ! うちの家内は武術とかそういう乱暴な事が大嫌いなんです。もし今も武術に関わりがあるなんて分かったら。それだけで離婚されちゃいますよ!」
「ふ~ん。そうなの? でもな~これ断られるとわしも困っちゃうんじゃよ。他に頼めるあても無いし。はぁ~そうじゃの~いや~困った」
久我が何度もわざとらしく溜息を吐く。
「あ、あの。これ以上用件が無いなら私はこれで。鏡子が不審に思うといけないので……」
そう言って鉄心は早々に席を立とうとした。これ以上厄介事に巻き込まれたく無いというのがありありと見て取れた。
「はぁ~冷たいの~。わしは昔、てっちゃんが浮気していた事、揉み消してあげたのにの~はぁ~何か悲しいの。もういつ棺桶に入っても可笑しくない年齢じゃし、悔いを残さない為にも暴露しちゃおっかの~」
久我の言葉に鉄心の体が中腰のまま止まる。そしてそのこめかみには一筋の汗が流れた。
「お、脅すつもりですか?」
「ん? 脅す? 何が? わしは死ぬ前に悔いが残らない様に、事実を告白しようと思っただけじゃよ。じ、じ、つ、を。別に可笑しく無いじゃろ?」
「可笑しいでしょうが! 何で他人の秘密を暴露するんですか! そういうのは自分の秘密を暴露するもんでしょ!」
「ふむ。分かった。わしも男じゃ。それなら鏡子さんにてっちゃんの秘密を暴露した後、自分の秘密を暴露するわい」
「何も分かってない! 一人で死ねよジジイ! なに無理心中しようとしてんだ!」
鉄心は敬老精神も忘れてそう叫んだ。それに愉快そうに久我が笑う。
「ほ。ほ。まあてっちゃんが出来る事は二つじゃよ。この老人と二人で死ぬか。それとも、わしの要求を呑んでこれからも幸せな家庭を続けるか」
「ぐぅ……」
鉄心は拳をブルブルと震わせながら考える。
(いっその事このジジイをここで殺ってしまうか?)
非現実的な案が脳裏を去来する。それほどに追い込まれていた。
「ほ。ほ。殺気が丸出しじゃよ。そんな状態じゃわしは殺れんて」
久我が挑発する様に笑う。そこで鉄心は諦めた様に深い溜息を吐いた。
「わ、分かりましたよ……話だけでも聞かせて貰います」
「ほ! さすがてっちゃん。話が分かるわい」
久我は嬉しそうに手を叩く。それはまるで子供の様だ。
それから二人は、というか主に久我が詳細を説明する。だが説明するにつれ、ドンドン鉄心の顔が蒼白になっていく。
話が終わった頃には鉄心の顔は真っ青になっていた。
「む、無茶苦茶だ。そんな事が本当に可能なのか?」
「ふむ。私財と人脈をフルに活用したわい。大体百億くらいかかったがの」
「相変わらず無茶な金の使い方をする……しかし、本気なのですね?」
「うむ。マジもマジ。大マジじゃよ。それで? 息子の件はオッケーかの?」
「はぁ~そんな場所に息子をやったなんて言ったら、鏡子さんに何て言われるか……」
「ほ。ほ。まあある一点を除いたら素晴らしい場所じゃよ。ありとあらゆる施設が超一流。普通なら入れん。鏡子さんも喜ぶと思うよ?」
久我の言葉に鉄心は頭を抱えた。だがしばらくすると蚊の鳴く様な声でこう言った。
「……よろしくお願いします」
「ほ。ほ。決まりじゃ! じゃあ後で資料は送るの。ほ。ほ。わしは今から楽しみになって来たよ!」
久我はそう言うとハイテンションで立ち上がると爽やかに手を振る。
「じゃあ、てっちゃん。また今度!」
そう言って久我は早々に立ち去った。後には頭を抱えた鉄心だけが残る。
「本当……どうしよ」
その煮え切らない様はうだつの上がらないサラリーマンその物だった。