第一章 巻き込まれた男。 2
好きな格闘家はイゴール・ボブチャンチンです
「ふ~ふ~ん」
愛車のボルボを男。早坂鉄心が洗っていた時の事だった。
『プルルルルルルル。プルルルルルルルル』
携帯の着信が聞こえ鉄心は上機嫌にポケットから携帯電話を取り出す。
「はい。早坂です」
『お、やっほ~てっちゃん?』
(こ、この声……長老!)
鉄心は慌てた様子で携帯の画面を覗き込む。すると画面には久我拾名と表示されていた。
『ピ――』
瞬時に携帯の電話を鉄心は切る。
(はぁ、はぁ、あの人に関わるとロクな事が無い!)
内心の動揺を紛らわす様に鉄心は愛車の洗車を続ける。しかし心に残ったわだかまりは消えない。
「ああ、勢いで切っちゃったけど、後でえらい事になるかも……いや、絶対にそうなる。俺はあの人の頼みを一度だって断れた事が無いじゃないか……」
鉄心は過去を振り返る様に目を閉じた。
「ヤクザの事務所を潰しに行ったのが五回。警官を殴り倒したのが二十回。道場破りをしたのが五十二回……ああ、駄目だ。あの人にやらされた事を今でも鮮明に思い出せる」
鉄心は洗車を止めて頭を抱えた。それはこれから来るであろう悲報に怯えての事だった。
『プルルルルルルル。プルルルルルルルル』
(き、キタァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!)
再び鳴った携帯を出来るだけ顔から離しながら、鉄心は細目で携帯の液晶を確認する。それは少しでも嫌な未来から逃避している様だった。
『久我拾名』
しかし、期待に反して携帯の液晶に現れた文字は久我拾名からの物だった。
「はぁああああああああああああああああああああああああああ……」
恐ろしく長い溜息を吐いて鉄心は携帯の通話ボタンを押した。
『も~し、も~し! てっちゃん! わしわし! わしじゃよ!』
「え……と、長老……ですよね?」
『そうそう! 長老です! さっきはどうしたの? 急に携帯切れたけど?』
「あ……さっき何か急に電波悪くなってしまって……すみません」
『おっけー、おっけー。そんな事じゃと思ったよ。わしの電話が面倒臭くて切ったなんて事、てっちゃんがするわけないもんね~』
長老の言葉にギクッ! と鉄心の体が動いた。しかし、動揺を隠す様に平坦な声で鉄心は通話を続ける。
「まさか~電波のせいですよ。最近電話の調子が悪くて、買いなおそうかな~ははは」
『じゃよね~電波せいじゃよね~じゃからわし、気を遣って電波の関係無い所まで来たよ~』
「はい?」
長老の言葉が理解出来ず呆けた表情で鉄心は聞き返した。
「やっほ~てっちゃん久しぶり~」
その時だった。鉄心の真後ろからそんなお気楽な声が聞こえて来たのは。
バッ! と鉄心が振り返る。するとそこには塀から身を乗り出す長身の老人、久我の姿が有った。
「長老! どうしてここに!」
「ほ。ほ。偶然近くまで来たから遊びに来ちゃった♪」
(う、嘘だ……確実に何か企んでいる……)
「へ、へ~。そうなんですか。でもすみません。丁度これから用事が有って……」
「ふ~ん。どんな用事?」
「え、えっと会社の仕事がそう言えば残ってたかな~」
「あっそう。それなら大丈夫じゃよ。来週からてっちゃんの役職は係長から取締役部長になるから」
「へ! 何ですかそれ!」
「ほ。ほ。わしがてっちゃん所の社長に頼んどいたよ。ほ。ほ。暇じゃよ~管理職は。特に部長はマジ暇。良かったねてっちゃん。暇になって。更に言うならお給料もアップじゃよ」
グッと久我がつき立てた親指。だがそれから鉄心は嫌な予感しか感じなかった。
「で、暇になったてっちゃんに頼みたい事が有って来たんじゃよ。わし」
ニコッと爽やかに久我は笑った。その笑みを見て鉄心は――。
「あああ! お腹が痛い!」
全力で久我に背を向けて逃げ出した。
「あ~てっちゃん。鏡子さんは元気~?」
だが背後から聞こえた言葉に鉄心の足がビタッと止まる。
「挨拶したいな~あ、ここにピンポンがあるわい。はぁ~便利~超便利。これ押せば鏡子さん出て来るのかの……なあてっちゃん?」
「………………」
無言のまま鉄心は久我の元に歩いた。
「用件を聞きましょう。だから絶対にそのボタンを押さないでください。お願いしますから。マジで」
「ほ。ほ。物分りが良いの~だからてっちゃん大好き。じゃあ、その辺の喫茶店にでも行って、ゆっくり話そうかい?」
鉄心はシュンとしてそれに頷くと久我に肩を回され、喫茶店に連行された。