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比喩表現は単なる言葉遊びや連想ゲームではない(1)

 小説における比喩(*1)表現について、筆者には印象深い二つの経験があります。


 一つは、まだ小説を書き始めて間もない頃のこと――当時、筆者は所謂「文芸サークル」的なものに所属しており、そこでは週に一度、メンバーの一人が書きおろしてきた小説を合評するということをやっていました。メンバー構成は男女半々、同年代が中心で、忌憚ない意見が飛び交っていたと記憶しています。


 さて、そんなある活動日に、メンバーの一人が『冷た(*2)い夜』というタイトルの短編を発表しました。そして、その本文中に「カラスが羽を広げたような夜」という比喩表現があったのです。


 当時の筆者は、この表現に強烈な違和感を覚えたのですが、皆さんはどうでしょうか? 

 前後の文脈がないので判断しづらい部分もあるでしょうが、考え得る範囲で、筆者の違和感について少し見当をつけてみてください。


 というわけで、少し時間を置くため、先にもう一つのエピソードについて紹介します。


 皆さんもご存じのように、毎年二回行われる芥川賞・直木賞の選考時期が近付くと、各々の候補作が書店の一角に平積みされるようになります。そういう光景を見かけると、つい手にとってパラパラとページをめくってしまうものですが、数年前に芥川賞候補に挙がったある一冊を斜め読みした際、思わず立ちくらみを覚えるくらいの衝撃を受けました。


 何とその一冊、どのページをめくっても、ほとんど必ずと言って良いほど「~のような」「~のように」という直喩表現が目に飛び込んでくるのです。「おいおいおいおい」と思いながら購入し、最初から最後まで読んでみましたが、なぜあそこまで比喩表現を多用するのかについて、論理(*3)的な解は得られませんでした。


 何かを文章で描写するときに、つい比喩表現に頼ってしまうというのは、アマチュア作品にしばしば見られる傾向なのですが、まさかプロの作品で拝むことになろうとは。しかも、肝心の比喩の内容についても、ありきたりな表現を避けようとして、逆に空回りしているから目も当てられないといった具合です。

 まあ、その作品は作者のデビュー作ということですから、小説としての完成度の低さというか、未熟な面が目立ってしまうのは仕方(*4)がないのかもしれません。


 それじゃあ、成熟した比喩表現って何だよ? という疑問に答えるために、ここで「文芸サークル」のエピソードに戻りたいと思います。


 『冷たい夜』というタイトルの小説に使われていた「カラスが羽を広げたような夜」という比喩表現についてですが、皆さんはどう感じましたか?

 先程紹介したように、短編ですから、本文中で何度も「夜」が訪れたわけではありません。つまり『冷たい夜』と「カラスが羽を広げたような夜」は同じ夜のことなのです。


 ところで、インコなどを飼った経験がある方には分かると思いますが、鳥類というのは人間に比べて非常に体温の高い動物なんですね。カラスも例外ではありません。とすると、「冷たい」夜を「体温の高い」カラスで喩えるのは違和感がある――というのが当時の筆者の見解でした。

 もちろん、作者としては「夜の暗さ」を「カラスの羽の色」で表現したかったのでしょうが、であればタイトルの「冷たい」にも気を配って、カラスではなく「暗く冷たい別の何か」を喩えとしてもってくるのが筋でしょう。


 とまあ、ここまでなら単に筆者が他人の文章表現にケチをつけたというだけで終わる話。本当の驚きはこの先で、筆者のこの見解は当時のメンバーの誰にも受け入れられなかったのです。


 理由を問うと「そこまで気にして読まない」「カラスってなんとなく冷たそうだから、別に良いんじゃない」とのこと。「おいおいおいおいおい」と筆者が思ったのは言うまでもありません。

 どうしてもカラスを使いたいのなら、その物語の中で、予めカラスの冷徹さなどを表す描写をしておくなどの仕掛けを用意することもできるのに、何を思考停止しているのだと。


 このように「何となく」「雰囲気で」「その場のノリで」「筆に任せて」表現を考える(いや、考えていない)例は、プロアマ問わず幾らでもあります。先程の芥川賞候補作も然り。


 皆さんは、小説におけるストーリー上の矛盾や、登場人物たちの所謂「キャラ崩壊」のようなものを良しとしますか? もちろん、それらを意図的に巧みに操り、面白さを損なわないのであれば問題ないのですが、一般的には不評を買いますよね。


 だからこそ、多くの書き手は、これらの矛盾や崩壊が起こらないよう「プロット」などをこさえて、ストーリーや登場人物に関しては、まだ論理的に考えようという意識を働かせているわけです。


 であれば、その論理的な意識を、比喩をはじめとする文章表現にも向けてみてはどうでしょうか。

 少し長くなりそうなので、次回、より詳しく「比喩の論理性」について書いていこうと思います。

(*1)

 事前に告知したとおり、今回からより具体的で実践的な所謂「技術論」について書いていく。ところで、その初っ端がなぜ「比喩表現について」なのか疑問に思う方もいるだろう。確かに大抵の「小説の書き方講座」では、例えば「文章作法について」や「人称、視点の問題」などといった、小説を実際に書き始める以前に心得ておくべきことを、まず取り上げるのが一般的である。さらに、本作に限ってみても、前回まで「作者、読者」について話題にしていたのだから、その流れで「人称、視点人物、語り手など」を論じることが自然だと思われる。

 しかしながら、本作は、体系的に論をまとめることを特に目的とせず、単発でも気軽に読めて内容のあるものを、というコンセプトであること(そのためにエッセイという形式をとっている)、更新頻度が遅いこと、「比喩表現については近いうちに取り上げる」と本文中に明記したこと、等々を総合的に勘案し、今回の判断に至った。



(*2)

 随分昔の話であり、その小説自体手元に残っていないので、タイトルや本文に正確ではない部分があるかもしれないが、要諦は掴んでいるはずだ。また、特定を避けるために幾つかフェイクを挟んでいる。あしからず。



(*3)

 もし、「あの小説のことだな」とピンとくる人がいて、比喩表現の多用について論理的な解答を用意されている方がいたら、ぜひこっそりと教えていただきたい。



(*4)

 作者及び作品に罪は無い。が、昨今の出版関係者たちの「文章表現」を相対的に軽んじるような風潮には疑問を覚える。少し変わったストーリーや仕掛け、話題性があればそれで良いのか?

 確かに経済活動における他メディアとの競争、時代の変化のスピードについていくためには、「文章表現」などという独自性は、強みどころか足枷にしかないだろう。もちろん出版不況と言われて久しい中、小説というメディアを絶やさないようにと日夜努力し、苦心されている関係者の姿には頭の下がる思いである。しかし、筆者のような「象牙の塔」の住人からすれば、それは脳死状態の体を生命維持装置につなぎ、無理やり延命させているようにしか見えない。

 結局のところ、現在の状況で、小説を小説たらしめる要素については「作家個々人の自覚と力量」によるところがほとんどだ。だからこそ、本作の読み手であり、書き手でもある皆さんには、所謂プロ関係者の言うことを何でも鵜呑みにするのではなく、彼らを軽く凌駕するような「小説家」になってほしいと心から願うのである。

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