読者とは何者か(2)
総論的な話は今回まで。
次回からいよいよ具体的な技術論などを織り交ぜていきたいと思います。
流行や売れ筋、時代や社会情勢などを反映し、読者が求め、共感できるような物語であること――この考え方に「読者目線」という言葉をあてるのは果たして妥当でしょうか?
前回説明したとおり、この場合に想定されている「読者」とは、ジャンル別、年齢別、男女別等で分けた、極めて限定的で、ある意味個性を持った「読者層」のことです。普段全く小説を読まないような人たちについては、基本的に相手にしません。そういう意味では、確かに「読者目線」という言葉は適しているように思われます。
しかし、一方で「読者(層)」が個性を持つ集団ならば、前回も少し触れたように、その客観性を担保することは困難です。なぜなら、読者目線を持つようにと要請されている作者自身が、元々その読者層の出身であるということは珍しくないからです。
具体的に説明すると、小説の作者というものは、生まれてから一度も小説を読んだことがないにもかかわらず、ある日突然天啓を受けて書き始めるのではありません。誰もがまず小説を「読む」ことから始まり、その延長が「書く」という行為に繋がるのです。また、書くという行為を始めたからといって、読むという行為をしなくなるというものでもありません。
つまり、小説の作者とは同時に読者でもあり、なおかつ読者歴の方がはるかに長い人たちばかりなのです。「読者目線」などというものは持っていて当然。むしろ「作者としての目線」の方が、圧倒的に足りていないのではないでしょうか。そんな作者にとって、最も想定しやすい読者とは誰かといえば「読者としての自分」であり、また「自分と同じ層に属する読者」です。もっと言えば「自分にとって都合のいい読者」でしかありません。
結局、この「読者目線で考える」という言葉も「作者は神である」と同様、実効性を伴わない机上の空論に過ぎないということです。本当に客観性を保った読者目線で考えるのであれば、リサーチ業者に依頼し、最低でも1千人規模の無作為抽出アンケートを実施のうえ、第三者に分析してもらい、その結果を受けて小説を書くくらいのことをすべきでしょうが――が、それはそれで愚かな話です。
では、なぜこうも様々な場面で「読者目線」や「作者=創造主」論が根強く語られることがあるのでしょうか? 筆者は先程、どちらも机上の空論だと言いましたが、やはり共通点を探ることで、その答えが見えてきます。
要するに、どちらも非常に耳ざわりの良い言葉なのです。マスコミや政治家、企業経営者などが好んで使う、所謂「ワンフレーズ」というものに類すると考えても良いでしょう。
一般的に、人は長々とした説明よりも、瞬時に意味が理解できる言葉を好み、記憶します。しかも、「短い→意味が分かる→正しい」「長い→意味が分からない→正しくない」という心理が働き、その内容を吟味することなく判断してしまう危険性が高い。皆さんも御経験のあることだと思いますが、結婚式のスピーチや、全校集会における校長のあいさつ等は、長いと不満を持たれ、短ければ称賛されるものです。
そういったことを考えると、「ワンフレーズ」は人の正常な判断力を奪う危険性をはらんでいるとさえ言えるでしょう。もっと言えば、これを利用(悪用)することで個人や世論を操作することも十分可能です。いや、実際にそんな例はそこかしこに見られます。
果たして「読者目線」や「作者=創造主」と論じる「小説の書き方講座」の著者たちが、どういった意図でこれら耳ざわりの良い言葉を使っているのかは分かりません。ワンフレーズの効用を知ったうえで自身の論に手っ取り早く説得力を持たせようとしているのかもしれませんし、逆に自らもワンフレーズの罠にどっぷりと嵌ってしまっているのかもしれません。が、そんなことはどうでも良いのです。
大切なのは、本来書き手であり言葉を操る側に立つはずの皆さんにおいては「ワンフレーズ」などに騙されることなく、真摯に「小説とは何か?」ということを問い続ける姿勢を保ち続けることだと思います。まあ、筆者の長々とした説明を、ここまで読んでくださっている方は全く問題ないと思いますが。
ぜひ良い書き手であり、また良い読み手となるよう心よりお祈り申し上げます。
《*1》非読者層を新規開拓しようという野心的な試みであれば別。
《*2》よくよく考えてみれば「○○目線」という言葉は大体胡散臭い。政治家が選挙前に「国民目線」「市民目線」というフレーズを多用するのも然り。
《*3》あまり政治的な話はしたくないが、あくまで中立的な立場から見ても、現在最もこの国を賑わせている政治的話題はまさに「長々とした底の見えない説明」VS「ワンフレーズ」の構図となっている。何のことかは御想像にお任せする。
《*4》話は少しずれるが、小説の作者は、自らの作品の最も熱心な読者であるべきだと思う。小説を書きあげたら、最初から最後まで一字一句読み飛ばすことなく、最低でも一カ月に一回以上、一年間通して読み返すことが望ましい。そうすれば、誤字や脱字、言葉の誤用、文脈の矛盾などといった基本的なミスは一掃されることだろう。
先の展開も文章も全部知っているのに何回も読むのは苦痛だ――と思うなら、その小説は本当の意味でつまらない作品である。