作者とは何者か(2)
上がらない更新頻度……すみません。
小説の作者は神ではない。
では、何者か? と問われれば「それは皆さん自身がそれぞれ考えることです」としか答えようがありません。前回も言いましたが、これに関しては「実感」こそが、小説を書くうえで最も有効に作用するからです。
従って、小説の登場人物を従業員に見立てて、作者は一企業の社長のようなものだなと考えればそれはそれでありですし、また同じく役者に見立てて、作者は劇団の座長のようなものだと考えても差し支えありません。
ただし、考えるうえでの注意点が二つあります。
一点目は、必ず自分自身の執筆態度を、メリット、デメリット含め、細部まで忠実に反映させた喩えを考えるということです。
例えば、先程「社長」と「座長」を例に挙げました。どちらも、組織・団体のトップに立ち、人に指示を出すという点で共通点がありそうです。では、両者の違いは何でしょうか? 少なくとも、そういった疑問に答え得るような喩えでなければ意味がありません。
これは「作者とは何者か」ということを考えるときのみならず、自らの小説の登場人物を考えたり、文中で使用する比喩表現を考えたりする際にも基本となる姿勢の一つです。
二点目は、一旦得られた答えを後生大事にするのではなく、何かにつけて更新するという意識を持つことです。
長い執筆人生の中で、価値観の変化は当然に起こり得るでしょう。そうしたとき、その変化に即した作者像を練り直さないままに書き続けていては、小説それ自体がどっちつかずの漫然としたものになる可能性が高くなります。
さて、筆者は今「漫然」という言葉を使いましたが、「作者が何者かなんて深く考える必要はない。なぜなら、作者は他の誰でもない。私自身であるからだ」という考えが、それを生み出してしまうと言ったら、皆さんはイメージが湧くでしょうか?
少し別のものに話を置きかえて考えてみましょう。例えば、サッカーでもバスケでも何でも良いのですが、スポーツをするときに、思うがまま好き勝手にボールを追うよりも、自分のポジションや役割を決めたうえでプレーした方が良い仕事が出来ることは言うまでもないでしょう。
従って、小説原理主義者であるところの筆者は「作者は私」と思考停止するよりも、「作者が小説のために果たすべき機能、役割」を念頭に、作者とは何者かということを模索する必要性を提唱するのです。
なお、次回は「作者」と対になる存在である「読者」とは何者かについて取り上げたいと思います。
(*1)例えば、あくまで一般的に考えてみると、我々は或る一企業の社長の顔や名前を知っていても、そこの従業員一人ひとりのことについては知らないことが多い。逆に、或る芝居に出演する俳優一人ひとりの顔と名前を知っていても、その劇団の座長のことについては知らないことが多い。
この前提を元に(ということは、実際の社長や座長がどうであるかに関わらず)、小説における作者の態度を考えてみると、前者は小説の登場人物よりも作者自身の主張や物語の主題などを重視する人により相応しい喩えになるし、後者はその逆ということになる。
(*2)登場人物や比喩表現は、後の回で是非取り上げたい話題である。
特に後者については、詳しく解説している「小説の書き方講座(ハウツー本)」がほとんどなく、プロアマ問わず、自分の感覚任せの(ということは論理的でない)トンチンカンな表現が横行している実態があるため、何よりも優先したいところである。
(*3)ちなみにであるが、筆者自身は「作者は黒子のようなものだ」といまのところは考えている。かつては、それこそ劇団の座長に近いイメージを抱いていたが、どうしても「座長」という言葉の持つ「人間味」や「現実感」が小説世界と乖離しているのではないかという違和感があった。
そんなあるとき見物に行った文楽(人形浄瑠璃)の舞台で、黒装束に身を包み、人形をはじめとする舞台装置を巧みに操る黒子を見てはじめて合点がいった。
彼らは異質な存在だ。彼らは確かにそこに存在しており、観客の目はその動きや姿をとらえているのに、誰もが黒子はいないものという認識のもとで、文楽の世界を愉しんでいる。また、黒子自身も決して自己主張せず、純粋に文楽の世界を観客に魅せる仕事に徹している。
あくまでも筆者の実感に過ぎないが、小説の作者もかくあるべきではないだろうか。