殆どの人は、嘘をつくのが下手である(1)
久々の更新のため、文末表現が前回までと変わってしまいました。
あしからず。
ミステリ作家・伊坂幸太郎氏の小説作品に、「嘘を見抜く名人」成瀬という男がしばしば登場する。彼は「地下に流れる水脈を、無意識に察知できる人間がいるのと同じように」人の嘘が分かるのだという。例えば「仕草や表情、話し振り」「汗をかく。顔を歪める。必要以上に笑う。鼻に手をやる。眉をこする。鼻が膨らむ。さらには前置きで『嘘じゃないよ』と宣言する」など、手掛かりは様々あるのだそうだ。
かく言う筆者も、嘘を見抜くのは得意な方だと自分では思っている。ただし、筆者が見抜ける嘘は、専ら文章化されたものであり、従ってその手掛かりも「文章」のみである。
本エッセイの趣旨に沿うならば、ここで言う「文章化された嘘」とは、もちろん「小説」のことだ。しかしながら、小説はそもそも創作物なので、元より嘘を多分に含んでいる。ノンフィクションを謳っていても然り。嘘のない小説などあり得ない。
だからと言って、ことさらその「虚偽性」をあげつらって、小説そのものを批判するような事例は殆どない。なぜなら、読み手にとっては、その小説を読んでいる間は、そこに書かれている世界、人物、会話、行動、感情等が全てであり、それらは「本当のこと」だからだ。
反対に書き手の立場からすれば、そのように読み手を小説の世界に引きこむことができるかどうかが肝要である。読み手に、その小説が「所詮は創りものだ」などと気付かせてはならない。要するに、小説を書くという行為は「絶対にばれない上手い嘘をつく」ということに通じる。
そういった意味で、筆者が「嘘を見抜く」のが得意だと自負しているのは、嘘か本当かということよりも、その嘘が上手いか下手かを判別するという点においてである。そして、繰り返しになるが、それらはストーリーや設定ではなく、まず「文章」に表れるのだ。
少し小説から逸れるが、皆さんは、例えば高校・大学受験等で、5つくらいの選択肢の中から「正しい内容の文章が書かれているものを選びなさい」という主旨の問題を見たことがあるだろうか。
あの手の問題は、実は解答者が正しい知識を持っていなくても、文章を読みさえすれば正解を導き出すことができる場合が多い。なぜなら、筆者の経験上の見解ではあるが、殆どの人は「嘘を書く」とき、無意識のうちに不自然な文(言葉遣いや文法などを含む)を用いてしまうからだ。
これと同じことが、小説についても言える。そこで次回は、小説における「嘘の下手な文章」の特徴、不自然さについて具体的に取り上げていきたいと思う。
(*1)
伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社)
(*2)
例えばファンタジー小説のように、明らかに現実離れした小説であっても。
(*3)
小説の上手い下手について明確に論じている「小説の書き方講座」は少ないが、この「嘘が上手いか下手か」とういことは、ひとつの指標になり得るだろう。
(*4)
そういった意味では、問題となっている事柄自体の知識は必要ないが、日本語、国語、文法等の知識については熟知していなければならない。逆に、もしもこの手の問題の作成者が、そのような人物であれば、文章のみから嘘を見抜くことは不可能である。