手段としての小説、目的としての小説
当エッセイの連載開始以来、ツイッターやメール等で、読者の皆さまから多くの御意見や御要望、御質問等を頂くようになりました。今回は、その中でも最も多く寄せられている「本エッセイで言われている『小説そのもの』って何ですか?」「筆者の考える『小説』とは、一体どういうものなのですか? それがわからないことには、理解しがたい内容があります」などといった御質問に、一定の見解を示していきたいと思います。
一定の見解だなんて、何だか奥歯に物が挟まったような言い方ですよね。実は、こういった内容の御質問は問題の核心をよくついており、頂いて非常に嬉しく思うと同時に、返答しようとすると「何をどこからどこまで」書けば、御質問者様が、或いは自分自身が満足するか判断がつかないのです。
おそらくどれだけ言葉を尽くしても、双方が満足や納得のいく回答をすることはできないでしょう。せいぜい「それを考えるのが本エッセイの趣旨です」とお答えするのが、現実的であり、また事実でもあります。ただ、それではあまりに甲斐がないので、現時点で筆者が確実に言えることだけを、今回どうにか言語化してみようと思います。
まず、最も基本的な考え方、原点とも言うべきことは、筆者にとって「小説」とは「目的」であり、手段ではないということです。目的と手段――このような分類をする時点で、既にわけが判らないと仰る方もいらっしゃるかと思います。
では、趣味か仕事かという分類はどうでしょうか? おそらく、皆さんが一度は考えたことのある分類の仕方だと思います。現にプロ作家ではなくても、将来的に趣味でやっていきたいのか、仕事として書くことを目指すのか。知人や家族等から、そういう質問をされたという経験談はよく耳にしますし、筆者自身も他人から問われた経験があります。
しかし、筆者には、そのような分類の仕方こそ理解不能で、返答に困ってしまいます。なぜなら、小説を目的か手段かでとらえている筆者にとっては、趣味も仕事も「手段としての小説」の範疇に入る同類だからです。
趣味の手段としての小説、仕事の手段としての小説、それらに加え、自己表現の手段としての小説、イデオロギーの手段としての小説、創作の手段としての小説、芸術の手段としての小説等々、全て同じだと感じてしまう。
このことは、言葉の上でもそうですし、また実際の作品を読んでみても感じるところです。ただ、具体的に何がどうなのだと問われると、まだ上手く言語化できていない部分なので、今回はこれ以上何も言えません。もう少しお時間をください。
また、以前知り合いの書き手と上記の議論をしたときに「じゃあ、お前にとってはプロもアマも同じなんだな」と、なぜか怒り調子で返されたこともありますが、それは半分正解で、もう半分は誤解。
確かに、最初から何かの手段として書かれた小説は、プロの手によるものだろうが、アマの手によるものだろうが、本質的には同じ「匂い」がします。しかし、それ自体が目的として書かれた小説は、それぞれが全く別の「匂い」を放っている。そこでは、プロかアマか、仕事か趣味かという問題は、単なる結果の違いに過ぎないのだと、筆者自身は理解しています。
もう一点、誤解を招きそうなので触れておきますが、手段として書くことと、目的として書くことの間に優劣はないと考えています。ただ、それぞれの書き手自身の「小説そのもの」への態度として、手段として書く人は小説を「従」なるものと、目的として書く人は小説を「主」なるものととらえているという違いは明確でしょう。
ということで、今回は「小説」に対する筆者個人の抽象的な見解を述べましたが、次回以降この話題を掘り下げるか、全く別の話題を取り上げるかは、また皆さんの反応を見てから決めようと思います。