小説の骨と肉の御話
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自分で小説を書いたことのない人と「小説」の話をしても、大抵はこちらが一方的に喋るだけで、いまいち盛り上がりに欠けることがあります。おそらく常日頃からの小説への接し方、態度の違いが各々の思考に表れるためでしょう。
これは、まあ何となく分かる話です。
一方、同じ書き手同士であっても、どこか話が噛み合わないという場面を目にすることがあります。例えば、ツイッターのタイムラインを何気なく眺めていると、純文学を信条とする者とライトノベルを志す者とのやりとりは、悲しくなるくらいに無意義なものです。そのことを本人たちも自覚しているのか、互いに話をしてみよう、互いの作品を読んでみようという機会からして、ほとんどありません。
これは、本当に馬鹿げた話だと思います。少し気取った台詞調に言えば、ナンセンスと言わざるを得ない。
なぜ同じ書き手が、同じ「小説」の話をしようとしているはずなのに、全く反りが合わないばかりか、時として反目し合うような状況さえ起り得るのでしょうか?
答えは至ってシンプルで、彼らの誰一人として「小説」の話をしていないからです。
彼らはそれぞれ自分の好きな純文学の話をし、或いは自分の好きなライトノベルの話をしているに過ぎません。言わば、好みの服装の話をして「人間」そのものを語ったつもりでいるのです。
もちろん、ミステリやSF、時代物などなど、凡そ「小説」とされるものの書き手のほとんどに同様のことが言えると思います。プロもアマも関係ありません。編集者などはもってのほかで、「小説」そのものについて語る人間を、私は久しく見ていません。
要因は様々考えられますが、それについては次回以降の各論の中で絡めて論じていきたいと思います。今回は結論から申し上げると、「小説」そのものについて語るためには「小説とは何か?」という命題に対する解答を模索する必要があるということです。
アプローチの方法の一つとして、所謂「小説講座」や「小説の書き方」を、自分なりに整理したり考えたりすることは有効かもしれません。
しかし残念なことに、現在巷に溢れる「小説講座」もまたファッションの域を出ないものが多い。プロや編集経験者の手によるものは、あまりに商業主義に偏った面がありますし、素人の手によるものは、それをベースに批判や検討を全く加えることなく書き写したものばかりです。
どちらの場合にせよ、特に深い考察は無く、読者(主に書き手)を分かった気にさせる性急過ぎる結論があるだけです。しかも、これらは書かれれば書かれるほど、劣化コピーというか伝言ゲーム的に説明が省かれ、元々の意図から外れて誤った解釈を広く浸透させてしまっている例も少なくありません。
そこで、本作では筆者がこれまで温めてきた「小説」そのものにアプローチする手法、考え方を用いながら、既存の「小説講座」「小説の書き方」に対する批判や検討を行い、再構築する中で、小説とは何かを問う試み――すなわち「小説道」を提示していく予定です。
ところで、一般的には小説という大きな括りの中に純文学やライトノベルなどが含まれるというイメージを抱いている方が多いと思われますが、「小説道」においてはこれとほぼ逆の発想を基本とします。
つまり、純文学だろうとライトノベルだろうと、任意の一作品から商業主義やジャンルなどといった不純物を徹底的に取り除いていった結果、最終的に残る共通の極小さなものこそが「小説的な何か」なのではないか、という考え方です。
この考え方を用いれば、ジャンルの壁をはじめ、趣味か仕事かなどの垣根さえも越えて、純粋に「小説」そのものについて語ることが可能となるでしょう。
以上で、簡単ではありますが「小説道」の概要説明を終わります。
先程も申し上げましたとおり、次回以降は具体的な事例を挙げ、各論に入っていきたいと思います。が、技術論についてはもう少し先の話になるかもしれません。
次回は「作者」と「読者」の正体について論じます。
あなたは作者の役割をどう考えていますか? 読者目線という言葉を誤解していませんか?
(*1)或いは自分の好きな作者の話だったり、好きな作風の話だったり。
(*2)「純文学とは何か?」「ライトノベルとは何か?」という議論はネット上や書籍でよく見かけるが、そのどれもが「小説とは何か?」という大前提を考慮に入れていない暴論である。まったく以てナンセンスだ。
(*3)深い考察など書こうものなら「売れない、読まれない、自らの手の内を明かしてしまう」というデメリットしかないからだ。小説講座の読者たちは、面接試験のハウツー本をありがたがる就活生のように、手っ取り早く、無難で、確実な答えを求めている。小説講座の書き手はその欲求に従い、手軽にウハウハできる内容のものしか書かないだろう。
(*4)もっと突っ込んだ話をすれば、不純物以外に何も残らないものは「小説ではない」と言えるかもしれない。が、これは仮説に過ぎないので、今後の検証で明らかにしていきたい。