3.私とあいつと勝手な約束
「アマリエ」
コツンと窓が叩かれて名を呼ばれる。
果たしてこれが何回目、いや何百回目のことだろうか。
アマリエは気だるい身体を起こして窓に向かう。
カーテンを隔てた窓の外にいる悪魔にもアマリエが近付く気配が伝わったらしく 、喜色を滲ませた声音でまたアマリエの名を呼んだ。
「カーテンを開けてよ」
男はいつからか、窓を開けて、とは言わなくなった。触れたい、とも言わなくなった。顔が見たい、とは言われるが。
はあ、とため息を溢してアマリエはその場にしゃがみこみ、窓枠に背をもたれて
「ねえ」
と、少ししゃがれた声を掛けた。
「っなに?」
上擦った若い男の声が返ってくる。
何年経っても男の声は変わらない。それに引き換え私は、とアマリエは自嘲する。
「毎度毎度ご苦労なことだけど、貴方、暇なの?」
「は?」
「は?じゃないわよ。暇なのか、って聞いてるの」
「どうして?」
「聞いてるのはこっち!」
要領を得ない男の返答にアマリエはつい声を荒げてしまう。動悸を感じる胸を慌てて押さえて呼吸を整えた。
「暇じゃないよ。陽が昇る前に帰らないといけないからね」
「あ、そう。じゃあこんなところに来てないで早く帰ったら」
「それが困ったことにアマリエのことを見てるのに忙しくて家に帰る暇がないんだ」
…何を言い出すのか。
「あのね悪魔さん。こっちはとんだ迷惑なのよ。分かる?何十年もこうやって付きまとわれて、多大な精神的疲労を負わされてるの」
「うん」
「だからね、もう来ないでちょうだい。今日私から話し掛けたのはこれが言いたかったから」
「うん」
「もう二度と、あんたに話し掛けないし、……二度と顔を見せることもないんだから」
そう言い、アマリエはゆっくりと立ち上がって日に焼けて色褪せたカーテンに手を掛けた。
経年劣化したレールが軋み、嫌な音を立てながらもアマリエの手によって開かれる。
「…っ」
万感の吐息を漏らしたのは、綺麗な朱月の瞳を持つ悪魔。
外から窓ガラスに手を触れて、愛しげに目を細めた。
「アマリエ、また会えた」
ふん、と鼻を鳴らしたアマリエは「こんなしわくちゃのばばあになんて顔をしてるのよ」と蕩けんばかりの表情を浮かべている悪魔に悪態をつく。悪魔はクスクスと笑った。
「口が悪いのはとうとう直らなかったね」
「余計なお世話よ」
アマリエはよいしょ、と口にしながら膝をつき、窓枠に両腕を置いて怠い頭を乗せた。
その緩慢な動作を悪魔は微笑みながら見守り、目を合わせるように自分も窓枠の縁へ近付いた。
「ねえ、僕を見て」
ガラス越しに指先で目元に触れられる錯覚。
のろのろと視線を上げると、綺麗な二つの朱月がアマリエを絡め捕った。
「アマリエが僕を見てくれてる。嬉しい」
「物好きね」
「悪魔だからね」
「皺だらけの顔をジロジロ見られるのは好きじゃないんだけど」
「そう?目元なんて笑ったら可愛いと思うよ」
「ばばあにお世辞を言うのも悪魔だから?」
「お世辞じゃないんだけど」
「悪魔の言うことだから信じないわ」
「ひどいな」
アマリエはゆっくり瞬きをする。瞼が閉じる度、悪魔が声を掛けてくる。
「ねえ、僕も君を見ていたいんだ。だから目を閉じないで」
「…今が何時か分かってるの?このすっとこどっこい」
「君から話し掛けてくれて、顔まで見せてくれたんだ。今日が最後だって言うならもうちょっとだけ付き合ってよ」
「…とても、眠いのよ」
身体がいうことをきかなくなってからというもの、常にアマリエは睡魔に襲われている。
眠りたくないけれど、瞼が重くて目を開けていられない。もっと朱月を見ていたいのに。この、二つの朱月を。
「嬉しいね。アマリエの好きなだけ見ていいよ」
「……心を読むなって随分昔に言ったわよね」
「記憶力良いね」
「…胡椒ぶん投げるわよ」
アマリエが半目で睨み上げても悪魔はさほども堪えず、むしろアマリエの両の瞳がこちらを見ている、と喜んでいるようだった。
「……そうだ、あんたはとんだ変態の変質者の悪魔だった」
「アマリエに対してだけだよ」
「なお悪いわ……」
視界が狭くなってきた。
そろそろだろうか。
霞む視界に、己の限界を悟る。最期の日が朱月の晩だったのは、アマリエにとっては幸運だったのかもしれない。
悪魔と最初に出会ったあの日から、アマリエは朱月の日を図らずも楽しみにしていた。
「……眠い。私、寝るわね」
枯れ枝の様に細くなった腕に顔を埋めて、アマリエが小声で呟く。
目を閉じて、意識を手放したら最後。もう、戻ることはないだろう。
「待って」
「アマリエ、待って」
「一つ、君に約束する」
「朱月の晩に必ずまた、僕は君に会いに行く」
「僕は窓を叩いて、ここを開けて、と言うから」
「そうしたら、今度は開けてくれると、嬉しいな」
「君の太陽の花を、また僕に見せて欲しいんだ」
「聞こえた?アマリエ」
辛うじて聞こえてはいたけれど。
そのことを窓の外にいる男に伝えられることは、アマリエにはとうとう出来なかった。