2.僕と彼女と胡椒
月が、朱く染まる。
「ねえ、ここを開けて?」
男が優しく微笑めば、獲物は皆喜んで窓を開ける。
何の不審も抱かずに男を迎え入れ、そして―――。
「ごちそうさま」
身体の下に組み敷いた獲物は息を乱し、剥き出しのままのたわわな胸を激しく上下させている。
獲物の首筋につけた噛み痕からは二筋の血液が滴っている。
男がそれをべろりと舐め上げると、ぐったりしていた身体を跳ねさせて獲物が身悶えた。
するりと指先で噛み痕を撫でるとそれは、魔法のように消えてしまった。
獲物の呼吸が弱くなっていくのも気にせず、男はベッドの上で体を起こした。
「じゃあね。良い夢を」
永遠に醒めない悪夢かもしれないけどね。
男は窓から身を躍らせて、その背に黒い翼を広げた。
―――悪魔。
人々に伝わる朱月の魔。それが男の正体だ。
***
「あー、お腹いっぱい。味はともかく大事なのは量だよね、このご時世」
魔を畏れることを忘れたこの現代で、獲物を選り好みしていられない。
獲物を恍惚に陥れ、絶頂を迎える瞬間に首筋目がけて鋭い痛みを与える。じゅるじゅると血液を啜られ、身体が内から冷えていくのをただじっと待つしかない。
その時の恐怖、絶望。そういう負の感情がまた、男の腹を満たす妙味となる。
「…ま、さっきのヒトは僕がそういう性癖だって思ってたけどね、うん」
男は誰に言うともなく独りごちて、最後に食べた獲物のことを思い出した。
首筋に噛み付くところまでは良かった。
ところが、だ。食事を始めてすぐに気づく。
―――あ、この女、こういう趣向なんだと思ってる。
流れ込んでくる温かな血液からは、女の歪んだ喜びしか感じられなかった。
痛みや死の気配に喜ぶとか、アブねえ女。
またかよ、と男は思った。そういう獲物が最近多いのだ。
歪んでいるが喜びは正の感情。男の舌には苦味として捉えられる。
チッと舌打ちをしかけるも、腹に入れば何でも一緒だと割り切って特に味わうことをせずに腹に収めた。
これは己が生きる為の大事な食事。味わうことを二の次にすれば、生きるのに必要な獲物には事欠かない。その考えが今日まで男を生き長らえさせてきた。
今でこそ男は一人だが、かつては多くの仲間たちがいた。
皆それぞれに趣向を凝らし、獲物を恐怖へ陥れることを美としていた。
しかし美意識を追求した男の仲間たちは、いつの間にか男一人を残して死に絶えていた。大半が飢え死にだった。
美を追求しすぎた故の飢え死にとか、馬鹿か。
男は仲間たちの骸に向かい、その死に様を罵った。
自分はそんな下手は打たない。不味かろうがなんだろうが、最後の一人になったって生き抜いてやる。
くあ、と大きな欠伸を一つ。満腹により眠気が男を襲う。
居眠りして墜落とか洒落にならん。ばさりと空を掻く翼を大きく動かして男は家路を急いだ。
「一晩で四人。ふた月分たっぷり蓄えたし、早くうちに帰って寝よ……、ん?」
目についたのは四階建ての集合住宅。その三階の角部屋の窓辺に、獲物がいるのを男は目ざとく見つけた。
「…へえ、怖いもの知らずだね」
獲物はどうやら月を見上げているらしい。魅入られたら地獄行きの朱い朱い、魔の月を。
朱月の晩と分かっていて起きているのなら、それは食べられても良いという合図というのが男の常識。
ついでだからつまんで行くか、と男は音も無く獲物の前に姿を現した。
この出会いは生涯忘れないだろう、と男は思った。
男を前にして、獲物が視線を合わせてぱちぱちと瞬きを繰り返す。まるで小動物のような仕草だった。
僕の顔に見惚れてるんだろうな、とほくそ笑む。獲物を捕らえるのに己の容姿は武器になることを知っている男は、獲物をより深く溺れさせようと笑みを深めて閉じられた窓に近づいた。
いつもと同じ笑みを浮かべ、いつもと同じ台詞を吐こうとして、男の動きが止まる。
近付いた先に男が見たもの、それは―――
「痴漢退散!」
それをよく見ようとした刹那の出来事。
許しを請う前に開かれた窓。と同時に放たれた粉末。そして電光石火の如く閉じる窓。
うわ、胡椒とかまじでばっかじゃねえのかこいつぐあっ目が!鼻が!!
げえっほ、ごおっほと胡椒で咽る視界の先でカーテンが引かれるのが辛うじて見えた。
狩りに失敗したと悟り、男は背の翼で羽ばたいて辺りを漂う胡椒の中から脱出した。
そのまま住み処への道を辿る男の胸中はぐちゃぐちゃだった。
涙と鼻水でぐしゅぐしゅの顔。止まらないくしゃみ。獲物にこんな仕打ちを受けるのは初めてのことだ。
ちくしょうあの女覚えておけよ!絶対に食ってやる!
怒りが渦巻く思いの中に、胡椒を掛けられる前に見たものに心惹かれる部分があることを男は自覚していた。
「良く見えなかったけど、あれは…」
空を飛びながらぐしぐしと袖で悲惨な顔を拭う。
獲物の見開いた瞳の中に見えた、それは。
「太陽の花だ」