お前らを倒さないと、オレは強くなれない
獣臭。獣の油脂と老廃物の凝ったような嫌な臭い。
狼の荒い吐息。唾液で光る牙。
「うあっ! 痛えよクソォ!」
牙を突き立てられた悲鳴。
血の臭い。
生存を賭けた争い。生存競争の縮図。
「落ち着いて背中合わせになれ! 相手は隙を突くことに長けてる! 死角を作るな! 一匹だけを落ち着いて相手すれば倒せない相手じゃない!」
デリックの剣閃が一匹の狼を切り裂いた。零れ落ちた内臓から立ち込める血臭。
一瞬、狼たちが怯んだ。
それも束の間、同胞を屠られた事に対する怒りを露わに狼達は更に獰猛に攻め立てる。
獣の唸り声。
引き攣ったような悲鳴が背後から聞こえた。
「……あ」
振り返ると、泣き腫らした顔をした女の子と、その子をしっかりと抱きしめる母親が居た。
他にもたくさんの、守られるべき対象が居た。
三十人近い女子供たち。まだ乳飲み子だろう赤ん坊や、ようやく歩けるようになっただろう年頃の子供。
どいつもこいつも泣き腫らして、ひどい顔をしていた。
ある一つのラインを踏み越えた先では十人と少しの男たちが戦い、そのラインを超える前では三十人近い守られるべき者たちが恐怖に震えている。
オレはそのどっちでもない。ラインの上に立って、何もできず、どちらにも踏み込めずに突っ立っている。
――――オレはどうしたらいいんだ。
分かってる。オレが迂闊に踏み込んでも足手纏いになるだけだって。
どんなに悔しくても、どんなに腹が立っても、オレに出来る事なんてロクに無い。
それでも、護られてるだけなのはいやだ。
何も出来ずにいるのは、いやだ。
押し寄せる貧困に必死で働いて抗ったように。
結局、オレは売られて奴隷になった。けど、オレは必死で抗っていて。抗って抗い尽して、それでもだめだった。だから、仕方ないと悔しさに怒りながらも、オレは奴隷になる事を享受した。
けど、この状況は違う。オレはただ、見ているだけだ。
抗うなんて土俵にすら立てていない。
このまま見ているだけでも、狼は撃退されて助かるかもしれない。
けど、もしかしたら全員食い殺されて、オレも狼の腹の中に納まるかもしれない。
オレは、その状況になって大人しく受け入れることが出来るのか。
出来るわけがないだろう――――!
オレは生きたい。生きていたい。
この世界で知りたいことがたくさんある。
やりたいことだって幾らでもある。
デリックに武器の使い方を教わりたい。
リウィアに魔法を習いたい。
故郷にだって帰りたい。
美味い物だって食べたい。
綺麗なものだって見たい。
こんなにもたくさんやりたいことがある。
それなのに、オレはただ守られていて、状況に身を任せるだけでいいのか? 生き残れるのなら、それでいいのかもしれない。だが、死ぬかもしれない状況で身を任せるのか?
――――いいわけが無い!
オレは抗うと決めたはずだ!
オレは頼まれなくたって生きてやると言ったはずだ!
それなのにただここで突っ立ってるわけにはいかない!
「武器……何か武器!」
周囲を見渡す。何か武器になるものを得るために。
その時、また悲鳴が響いた。さっきと違ったのは、その悲鳴が男の野太い声だったこと。
振り返り、狼に組み伏せられている男を見た瞬間、オレは既に走り出していた。
足の筋肉が悲鳴を上げる程に。骨が軋む程に。オレは強く強く大地を蹴って、走っていた。
「退けぇぇぇっ!」
我武者羅に拳を繰り出した。【フレイムスロワー/火炎投射】を宿した焔の拳は狼の横っ面を殴り飛ばし、その顔面を焔が舐めた。
「ギャウッ!」
「死ねよ犬畜生が!」
獣の哀れな鳴き声を無視し、転げ回って火を消そうとする狼の横っ腹を蹴り飛ばす。
それでもなお動き続ける狼に馬乗りになり、その身体を支えている背骨を全力で殴りつけた。
拳が背骨を叩く嫌な感触。二度三度と拳を繰り出し、やがて狼の背骨が砕けた事を察知した。
この狼はもう動けないと判断して立ち上がると、オレは狼に襲われていた男の元へと素早く戻る。
「おい! 大丈夫かあんた!」
「手がっ! 俺の手があっ! 俺の、俺の手! 俺の手が! 手が! 手が!」
狂ったように男はそればかりを繰り返していた。手、手、と連呼し続ける男の手を見た時、オレは反射的に胃の内容物をぶちまけそうになった。
男の右手は半ばから食いちぎられていた。
傷痕は無残なもので、黄色っぽい脂肪と腱が覗き、血が流れ出し続けていた。
オレが吐き戻さずにいられたのは、ひとえに偶然だったとしか言いようがない。反射的に下っ腹に力を入れなかったら、そのまま胃の中身を吐き出していただろう。
「しっかりしろ! 速くあっちで手当てして貰え! おい!」
「あああっ! 俺の手が! 手が無い! なんで! 俺の、俺の手が! 手があっ! 俺の手が無いぃぃぃぃっ!」
「ああもう、うるせぇ! 速くあっちに行け!」
男の首根っこをひっ捕まえて、女子供たちが集まっている場所へと引っ張って行く。
そこでその男を任せ、狼達と戦っている男たちの元へと戻ろうとして地面にナイフが落ちている事に気付く。
「ラッキー……!」
恐らく、先ほどの男が使っていたものなのだろう。僅かながら体温が残っているのがわかった。
それを拾い上げてオレは走り出す。
ただ全力で突き進む。腰だめにナイフを構え、体当たりするように狼へと突っ込んだ。
「ギャンッ!」
――――浅いっ……!
狼に体当たりした瞬間に理解したのはそれ。 予想以上に皮が硬く滑る。内臓を抉るに至らなかった。外皮を切り裂いただけで終わる。
「づうっ!」
身を翻し、反撃してきた狼の牙がオレの腕を正面から捕え、皮膚を裂いた。
その時、オレは半ば無意識に喉の奥まで手を突っ込んでいた。
皮膚が裂ける痛みを必死で堪えながら、遠慮なしに全力で突っ込み、手が狼の食道の半ばまで到達する程に。
その時、脳裏に電流が奔った。それと同時、オレは最速で燃え盛る手の呪文回路を構築し、それに力を流し込んで発動させた。
「【フレイムスロワー/火炎投射】!」
「ガッ! ギャオオッ!」
オレの炎が狼の体内を焼いた。外皮が強靭だろうが、筋肉が硬かろうが関係ない。
内臓を直接燃やされればどんな生物でも致命的なダメージを負う。
内臓を焼かれた狼はオレの腕を離して地面を転げまわる。もう動けないだろうし、気道も塞がって死ぬはずだ。
「犬の躾では手を噛まれたら奥に手を突っ込むらしいが……狼にも通用するらしいな」
前世で聞きかじった話だったし、実際賭けに近かった。だが、賭けなければオレの腕は無くなっていただろう。賭けに失敗すれば更に長く腕を失っただろうが。
やはり、オレは無力だ。それが堪らなく悔しい。
こんな狼如きに負けていては、あのバケモノにリベンジなんて到底不可能だ。
「もっと、強くならなくちゃ……」
そう呟いて、オレは狼に噛まれ傷だらけの腕を見る。
この傷はオレの弱さの証。そして、それを乗り越えていく為にオレは強くなる。
だから、この傷は戒め。強さを求め続けるための、戒め。
何れ、傷の一つも負わないほどに強くなって見せる……!
「よしっ! やってやるぜ!」
気合いを入れ、オレはナイフを握り締めて周囲を見渡す。
狼達の数はもう半数近くまで減っている。尻込みして逃げようかと惑っている様子すら見受けられる。
このままならいけるはずだ。そう思いつつ、オレは次の標的に狙いを定めて走り出した。
狙うは、デリックと戦っている一際体躯の大きい狼。
恐らくはアレがボスだ。ボスを倒せば、たぶん群れには動揺が走る。もしかすれば逃げてくれるかもしれない。
加えて言えば、デリックは戦闘の技巧者だ。オレが注意を引けば、そのチャンスをものにすることは出来るはずだ。
大きく息を吸い込み、腰だめにナイフを構えて走り出した。
狙うは胴体。少しでも傷を与えれば動きが鈍るはずだ。そうすれば、その隙を狙ってデリックが仕留めてくれるだろう。
突き刺すのは、横っ腹に、斜め後ろから。獣の視野は広い。横から近づけば視覚でとらえられて気付かれる。だから、ほぼ真後ろから行く。
そしてオレがいつまでもくっ付いていたら、デリックの剣が鈍るだろうからすぐ離れる。
そう結論を出したオレは、デリックと戦っている狼にぶち当たるようにナイフを突き刺した。
会心の出来だったと言えるだろう。ナイフは深々と狼の肉を抉り、そしてオレはすぐに離れることが出来た。
ただ、オレにはやっぱり運が無いらしい。
すぐに後ろに飛んで、踵を返して走り出した直後、背中に熱い何かが直撃した。
その何かはすぐさま背中全体へと広がり、オレの背中が燃え上がった。
「うわ、あ、あ、うわああああああああああああ!!」
熱い。熱い。熱い。
頭にはそれしか浮かばなかった。ただ、熱い。
髪の毛が焼け焦げる臭いが、油の焼ける嫌な臭いが鼻を突く。
「あああっ! がああああああああっ!」
絶叫して、背中を地面に押し付ける。転げまわって背中の火を消そうとする。
その火は中々消えず、やがてオレの下へと駆け寄ってきた奴が背中を叩く事で炎は消えた。
「う……うぅ……いてぇ……いてぇよ……」
まだ、背中は燃えてるんじゃないのか。そう思える程に背中が痛んだ。
背中が突っ張って痛い。とんでもなく酷い火傷を負ったのだろう、皮膚の表面ではなく、内部がじくじくと痛む。
「ニーナッ! 無事か!?」
デリックの声が聞こえた。
何時もなら起き上がった、何がしか悪態でもついたのだろうが、オレには起き上がる気力すらなかった。
それを察したのかどうかは分からないが、倒れ込むオレの前方にデリックがやってきて、オレの顔を覗き込む。
「ニーナ、無事か……?」
「なんとか……でも、いてぇ……いてぇよ……」
声を発するたびに背中が痛む。発しなくても酷く痛むのに、声を発すれば響くように痛む。
今すぐにでも泣き喚きたいくらい痛む。
でも、泣かない。
泣いたらダメだ。傷の痛みに負けて泣いてなんかいられない。
こんな傷の痛みに負けるわけにはいかない。だから、絶対に泣いてやらない。泣くものか。
「すぐに治療院に連れてってやるからな! いや、神官だって逃げてきてるはずだ! どっかに神官が居るはずだ!」
「うっ……痛っ……もっと、優しく扱えチクショー……」
いきなりデリックがオレを抱き上げた事で背中に激痛が走る。
悪態をついたことでデリックがすまねぇと謝ったが、オレを降ろす気はかけらもないらしい。
「まてよ……狼は、狼はどうなった……」
「んなもんもう倒した! 残りは逃げたぞ! おい! 神官は、神官は居ないのか!? 怪我人だ!」
「それなら、いいか……」
狼は逃げた。つまり、オレ達の勝ちだ。オレ達は、狼が逃げ出すくらいに強かった。
オレのスコアは二頭だ。これは中々のスコアじゃないのかと思うと、少しだけ嬉しくて気が楽になった。
「神官は居ないのか!? 速くしねえとコイツが死んじまう!」
どうやらだが、集まっていた五十人ほどの中には神官……回復魔法の類が使える奴は居なかったらしい。
軽く、数ヘクタールはあるだろう草原に、町一つ分の人間が逃げてきているのだ。
本来なら一時間と経たずに全員が一か所に集まったのだろうが、オレ達の集まりは逃げ出してきてからほんの数分で狼に包囲されて動くに動けなくなった。
つまり、オレ達の集団は大集団からも孤立している。
その大集団の中には神官が居るのだろうが、その大集団が何処にいるのかすらも分からない。
「へへ……これは、また……ヘヴィだぜ……」
このまま、死ぬのか……オレは……。いやだ……そんなのはいやだ……死にたくない……。
死ぬのはいやだ……死にたくない……あんな、あんな暗い場所は……もういやだ……。
寒くて、暗くて、寂しくて、悲しくて……何にもない世界は……いやだ……。
「しにたくない……」
「しっかりしろ! すぐに神官を見つけてやるから!」
「しにたくない……しにたくないよ……」
うわごとのように、ただそれだけを繰り返す。
あんな場所は、もう嫌だ。
圧倒的な虚無と、寂しさだけがある世界。
オレ以外に誰もいない。何もない世界。あんな世界に行きたくない。
だから、オレはこんなにも死を嫌っている。
生きていたい。強くなれば強くなる程、死が遠ざかって行ってくれる。
「デリック……オレ、しにたくねぇよぉ……」
「大丈夫だ……絶対に助けてやる! だからしっかりしろ!」
「ああ……」
デリックの呼び声に応えて、オレは歯を食いしばって痛みに耐え続けた。
このまま意識を手放したいくらい痛むけど、それでも耐えた
やがて意識が朦朧としてくる度に歯を食いしばって。
そうしているうちに、たぶん、大きな集団の下に辿りついた、と思う。
その時にはもう、オレは意識を失っていた。




