それはたぶん、はじまり
駆ける、駆ける、駆ける。
夜の街を駆け抜ける。
あのバケモノからは、どれだけ走れば逃げ切ることが出来るのだろうか。
分からない。
分からないが、とかくに今は走らなくてはならないことは分かる。
ただひたすらに走り続けるしかない。
先導するデリックの後を追って走る。
運動が得意そうに見えなかったリウィアも、しっかりとついてきている。
心配なのは自分の体力だが、今のところ、特に問題は無い。
現状のペースのままなら、あと一時間は走り続けることが出来るだろう。
――正直、一時間走れたからと言って、あのバケモノから逃げ切ることが出来るとは到底思えないが。
「くそったれ……マジでくそったれだ……」
オレの運の悪さってのは、ここにまで作用してんのか?
オレが町に出たからあのバケモノが現れた……って言うのは、流石に考え過ぎなのだろうか。
寧ろ、逆。
あのバケモノが現れるから、オレはこの町に来てしまった。と考えた方がしっくり来る気がする。
ただ単に、オレの所為であんなバケモノが現れてしまったと思いたくない現実逃避なのかもしれないが。
「ああ、マジでふざけてやがる……!」
今更になって分かる。背後から迫る、途方もない威圧感。
あのバケモノを目にした時には驚きが優っていた為に分からなかった、あのバケモノの持つ力。
圧迫感とか威圧感とか、いろいろと言い方はあるが、ただそこにあるだけでこちらが押し潰されてしまいそうな途方もない存在感。それは言葉で言い表すなんて到底不可能だろう。
本能と理性の双方が警鐘を鳴らしまくり、心臓は早鐘を打って身体を急かす。
ああ、わけわかんねえ。ヘヴィ過ぎる。オレの人生はベリーハードじゃなく、デッドリーモード辺りがお似合いなのかもしれない。
「ニーナ、お前、馬には乗れっか!」
「ロバにしか乗った事ねえよ!」
唐突にデリックから投げかけられた怒声に近い質問に、オレも怒声混じりで応える。
貧農の一家に馬なんて上等なもんが居るわけがない。痩せたロバを一匹飼ってたくらいだ。まぁ、喰うもんが無いせいで去年喰っちまったけど。
「っつか、デリック! 今の状況がさっぱりわかんねえんだよ! アレはどんだけヤベえんだ!」
「オレが一万人居たって勝てねえバケモンだ! メガデスクラスを倒せる人間なんざ、世界にほんの一握りだ!」
それは予想以上の最悪だった。例えてみるなら、オレ達みたいな木端は宇宙怪獣に対する地球防衛軍だ。光の巨人だのとんでもねえメカの怪獣が出てきて倒してくれるのを待つしかない。
言ってみればそれは自然災害。台風に拳で挑みかかる馬鹿が居るか。地震に肉体で挑む阿呆が居るか。
天災に対し人間が挑むなんて、愚かにもほどがある事。必死で頭を下げて、その上を通り過ぎてくれるのを祈って待つしかない。相手はそんなバケモノ。
「ヘヴィにもほどがあるだろ……!」
なんだってそんなバケモノが出てくるんだ。RPGで言うならここは始まりの町だろうが。始まりの町にラスボス一歩手前のボスが出てくるなんて、どんなクソゲーだって話だ。
ああ、ふざけてる。マジでふざけていやがる。
だが、最悪なんてものは意外と続くものらしい。あるいは、どん底まで落ちたって思っても、また底が抜けるらしい。
走るオレ達の前に、路地からそれは飛び出した。
全身に鱗を持ち、エラとヒレを持つ異形の姿をした人型。
そいつは古ぼけた剣を手にしていて、その剣をデリックへと振り下ろした。
それに間一髪でデリックは対応する事に成功した。訓練士である彼は常に剣を帯びている。それを抜き放ち、相手の剣を受け止めていたのだ。
「シー・デヴィルがなんだって陸地に……!」
「デリック! 頭を下げろ!」
叫び、踏み出すと同時に呪文回路を構築する。二回目の行使だってのに最初のそれよりも遥かに素早く、精密にその回路は構築され、一瞬にしてオレの拳が焔に包まれる。
拳が炎に包まれた瞬間にはもうオレは跳躍していた。
ギリギリでデリックを跳び越え、デリックと剣を合わせている半魚人みたいな奴の顔面へと、焔を纏った拳を叩き込んでいた。
「ぐぎゅぃぃぇぇぇっ!」
奇怪な悲鳴。拳に感じるのは硬い鱗の感触と、その奥にある気持ち悪い柔らかさを持った肉。
拳を包んでいた焔はオレから離れ、その半魚人の顔面を苛む。
水棲生物であろうそいつは火には弱いのか、悶え苦しみ、デリックが振りかざした剣に気付く様子も無く、そのまま両断された。
「よし! さっさと逃げるぞ! ニーナ! よくやった!」
「おうよ! だが、次やれるかはわかんねえぞ!」
正直、さっきのはかなり無茶だった。猛獣を倒し、あの女を殺して、レベルアップを果たしたのかオレの身体能力は劇的に上がっていたが、それでもデリックを飛び越える程の跳躍は無茶だった。
先ほどまで何ともなかった足は震えが走るほどに疲労しているし、踏み込みに使った親指の付け根辺りの骨は、気持ちの悪い痛みを訴えている。
次にやれるかと言えばやれると答えるが、次にやれば、オレはたぶんもう走れない。
「ニーナちゃん、次は私がやるから大丈夫よ。任せておいて、私だって強いんだから」
そういってリウィアが微笑む。ああ、考えてみりゃリウィアが居た。オレじゃなくて、リウィアだったらもっと上手い事デリックを助けられたのかもしんねぇな。
「ああ、次は頼んだ。正直、かなり足がきつい」
言いつつ、走り出したデリックの後を追う。
走り抜ける最中、あちこちから湧き出してきた半魚人が町の人間たちを襲っている光景が視界に映し出される。
ああ、なんて有様。なんてクソッタレな光景。
ふざけていやがる。魚なら魚らしく海の中に住んでいりゃあいいもんを。
「地下水路か……奴ら地下水路を通って街中に入り込んで来やがったんだ」
デリックが独り言ちる。思えば、街中には汚物などが転がっている様子が無かった。それはつまり、下水道は整備されているという事なのだろう。
あの半魚人どもはデリックの言う通りに下水道を遡って街中に入ってきたって事か。
だが、それは無鉄砲な襲撃で行えるような事だろうか。
あのとんでもなくデカいバケモノと同じく海側から上陸せず、地下水路から入るっていうのを当然のようにやれるだろうか。いや、あのデカいバケモノは視線を引き付け、海側から逃げさせることが目的だったんじゃないのか。
そして、街中に入り込んでいた半魚人どもが逃げてきた人間たちを狩る。これは、どう考えても作戦じゃないのか。
後ろを振り返る。
遥か遠方には途方もなく巨大なバケモノ。どでかい半魚人を乗っ取っているような、謎の寄生生物。恐らくは、この惨劇を考え出した張本人。
そのぎょろりとした巨大な目が、愉悦に染まったように嗤った気がした。
それを認識した瞬間、脳髄が沸騰した。激しい憤怒の炎が心を焦がす。
目の前に飛び出してきた半魚人がデリックに剣を振り下ろすより早く、オレはそいつの腹へと拳を叩き込んでいた。
指が嫌な音を立てて軋んだ。激しい痛みが脊髄を通って脳髄を突き刺す。
それが気にならないほどの激情がオレを突き動かし、半魚人の足を蹴り飛ばして体勢を崩し、転がっていた木片を半魚人の目玉に突き刺した。
「舐めやがって……! 舐めやがってぇぇぇっ! 人間を舐めてんじゃねええ!」
激情の炎はオレの肉体を限界を超えて動かした。
小さな拳が半魚人の鱗を砕き、お守りに持っていたあの猛獣の牙を、鱗を砕いた箇所へと突き刺した。
半魚人の内臓か何かを破壊したのか、半魚人は激しく痙攣すると動きを止めた。
色だけは人間と同じ血液が流れ出し、引き抜いた猛獣の牙は血に濡れて月光を照り返していた。
「ニーナ! 落ち着け!」
「これが落ち着いてられるか! あのクソ野郎! 人間を舐めやがって! ぜってぇにぶっ殺してやる!」
頭蓋の中にマグマが満たされているのを錯覚した。鼻の奥で木が焼け焦げるような匂いがした気がする。燃え盛る怒りはオレの身体を焼き尽くしても止まらないと思えるほどに。
「本当に落ち着け! お前が行っても殺されるだけだ! 俺よりも弱いお前が勝てるわけないだろう!」
分かっている。理性じゃわかっている。
オレじゃあ何にも出来ない。この状況を変える事なんて出来ない。ましてや、あんなバケモノを殺すなんて不可能だ。
分かっている。分かっているのに、許せない。
これは義憤なんかじゃない。誰かが殺されている事に対する怒りじゃない。
それはもっと利己的な感情。
オレが、オレが舐められているという事実が、オレの脳髄を焼け焦がす程の怒りを産む。
相手はオレを嘲笑っているつもりなんかないんだろう。だって、相手にとっちゃ、オレなんか羽虫以下の存在だろうから。蟻に怒りを抱く人間が居るか? 居るわけがない。そういう事だ。
それはちっぽけなプライドと言ってもいい。猛獣を倒した如きで粋がっているガキの戯れ言だ。
それに、こんなのはおかしい。なんで、オレはこんなにも怒り狂っている?
自分の感情のはずなのに、理解出来ない、制御出来ない。まるで自分じゃない自分が何処かにいるかのようだ。
こんなのは絶対におかしい。オレは確かに短気だが、こんなにも短慮ではない。自殺になると分かっていても行くような蛮勇さだって持っていない。
だが、そんな異常を些末事と切って捨てる。それくらい、今のオレは異常で、怒り狂っていた。
「分かっちゃいても、分かるわけにはいかねえんだよ!」
そう叫び、オレは走り出した。
あのバケモノをぶち殺してやるために。
そんなことは無理だってわかってる。わかってるのに、止まる事なんかできない。
後悔なんてしない、出来ない。
オレはもう止まらない。止められない。
この身体が滅ぼうと、心が砕けようと、アイツをぶち殺すまでは。
ぶち殺せなくたって、一矢報いるまでは。決して止まる事なんかできない。
「待ちやがれ阿呆」
「ぐげがっ」
唐突に首が締まった。いや、オレのシャツを誰かが掴んで止めたんだ。
苛立ちと焦燥、そしてオレを止めた相手への激しい怒りが心を焦がす。
振り返って、オレを止めた奴をぶん殴ってやろうとして、凍り付いた。
そこに居たのは、たぶん、冒険者。
頭を除いた全身を鎧で覆った女冒険者だった。
その手には信じがたい程に巨大な黒光りする金属で出来たハルバード。
柄だけでも六メートルほどの長さはあるんじゃないか。ヘッド部分も人間の大きさを超えている。二メートル近くはあるだろう。一体何で出来ているのかは分からなくても、それが途方もない重量を持っている事は分かる。
そんなバカげた超重武器を軽々と手にしながらも、その背にも黒光りする金属で出来た馬鹿げたサイズの板みたいな剣を背負っている。
腰には真っ白な鉈みたいな剣が二振り。それだけじゃなく、全身のあちこちにナイフだの弓だのと武器が装着されている。
全身の武器と鎧で、軽く百キロは超えているだろう。いや、もしかすれば、もっと。
そんなものを身に着けていながら、この女は平然としている。
「何やってんだこのアホ……落ち着いたか?」
「あ、うん……」
声をかけられて頭が冷えている事に気付いた。というより、この女冒険者の出で立ちに呆けてしまったと言える。
「ああ、居た! 逃がさんぞコラ!」
そして続け様に背後から声がして、オレは持ち上げられた。
後ろを振り返ってみれば、そこにはデリックが居た。
中々にキレた笑みでオレの事を見下ろしている。
「へっへっへ、このクソガキが……」
「へ、へへへ……」
「この馬鹿野郎!」
ごんっ、と鈍い音がした。そして直後に鈍い痛み。
「いでぇ!!」
「どうだ、愛の拳骨の痛みは」
「吐きそうだ……」
「そこまで言うか畜生が!」
しかし本当に吐きそうだ。思いっ切り走ったせいで内臓はひっくり返ったような気すらしてくるし、拳骨された痛みも響くようで気持ち悪い。
「ははは、大丈夫か? 【キュア・クリティカル/致命傷治癒】」
女冒険者が笑いながらオレの頭を手を向けると、直後に痛みが消える。先ほどから違和感のあった足もすっかり何ともない。
「あんた、そんなナリで魔法使いだったのか……」
「いや、これはアイテムの力だ。これな」
そう言って女冒険者が羽織っている若草色のマントを指し示す。
「一晩のうち三度まで【キュア・クリティカル/致命傷治癒】を使えるマントだ。もうこれで打ち止めだから怪我すんなよ」
「あ、うん……」
この女冒険者の言う事にはどうも逆らえる気がしなかった。
それは相手の持つ何か。風格とか、威風とかいうのだろうか。そんな何かに強く気圧されるのもあったが、それよりももっと強いものがあった。
こいつには絶対に勝てない。そんな風に直感的に理解出来て、その言葉にも底知れない説得力を与えていたからだろう。
「ええと、アンタは冒険者か? 悪いな、こいつを止めて貰って」
「ああ、気にすんな。自殺しに行くの止めないほど薄情じゃねえからな」
そう言われると弱い。あのままだったらオレは自殺しに行っていたのは確かなのだから。
「さて、と……ギガデスクラスの後に一人でメガデスクラスと連戦ってのはぞっとしねえが、あれなら一人でもなんとかなるかな……」
女冒険者がそんなことを平然と呟く。その余りのとんでもない言いように、こいつはどっかおかしいんじゃないかとすら思った。
「お前らは速いとこ逃げな。生憎と護ってやれるほど余裕がないんでな」
「ま、待ってくれ。あんた、本当にアレを一人でやれるってのか!?」
「正直厳しいが、やってやれねえことはねえよ」
そういって、その女はふっと笑う。それは自信に満ち溢れた笑みだった。
その時になって、その女がとんでもない美人だっていうことに気付く。
まるで輝くような金髪に蒼い瞳。歳は二十の少し手前くらいだろう。怜悧でいて勝気そうな美貌で、自信に満ち溢れた笑みを浮かべて見せると、こいつなら何でもやってくれそうだと思えた。そう、絶対の信頼を抱けるような笑みだった。
「巨人殺しの異名は伊達じゃねえ」
そして、その笑みが獣性を秘めた凶暴なものへと変貌していく。
その凶暴な笑みを浮かべながら、女が遥か彼方に見える怪物を見やる。
自身の空いている左手を差し出し、何かを握り潰すような仕草をして笑みを深くする。
「三年ぶりのリベンジだぜ、クソヤロー。今度こそぶっ殺してやらぁっ!」
そう叫んだ瞬間、その女は消えた。
一瞬遅れて風が吹き荒れる。それで、あの女は目にも止まらぬ超スピードで移動したのだと悟った。
一体どれだけのバカげた速度だというのか。
あれほどの超重量の装備を身に着けておきながら、あんな速度で移動できるなんて、どっちがバケモノだか分からない。
「ああ、くそっ……」
――――カッコイイじゃねぇかよ、畜生……。
魅せられた。
あんなバケモノに対して真っ向から挑める力が、羨ましくて堪らなかった。
理不尽を押し潰す理不尽。それがアイツなんだろう。
力の権化に対して反逆し、勝利を掴み取る。あの女なら、絶対にやってくれる。
ああ、羨ましいなぁ……。
「……ほれ、逃げるぞ。あの姉ちゃんが戦っているうちに」
「……なぁ」
「うん?」
「オレも、アイツみてぇになれるかな……なりてぇよ、アイツみたいに……」
「さぁなぁ……。それはわからんが……諦めなきゃあ、いつかは辿り着けるんじゃねえか?」
「だよな……」
ああ、そうだ。何を始める前から諦めてんだ、オレは。
なれるか? じゃねえ、なってやる、だろうが。
なってやるさ、アイツみたいに。
理不尽を押し潰す理不尽に。想いを貫き通せる力を、手に入れてやる。
絶対に、なってやる。その時に、あのバケモノにリベンジだ。
まぁ、オレがリベンジする前にあの女にぶっ殺されちまうだろうけど、なんて思ったけど、んなこと知ったこっちゃねえ。
要は、オレの気分の問題だ。
あのバケモノと同じようなバケモノをぶっ殺してやる。
「だから、覚悟しとけよ」
遥か遠くに見える巨躯のバケモノを覆い隠すように、オレは手を差し出した。
その手をゆっくりと握りしめる。はるか遠くに見えるバケモノを握り潰すように。
絶対、ぶっ殺してやるぜ。
「そうと決まれば今は逃げるぜ! 強くなってリベンジマッチだ!」
「お、おう! おら、いくぞ!」
「おうよ!」
そしてオレはデリックを追って走り出す。この先にある何かを追い求める為に。この夜を駆け抜ける為に。
夜はまだ始まったばかりだ。明日の朝日を拝むまで、気は抜けない。