クモなんてやっぱり大嫌いだ
途方もない激情が嘘のように引いていく。
身を焦がしていた狂乱も、荒れ狂う血への欲望も、全て掻き消えていた。
そして、オレの眼前にリズが立っていた。
短い付き合いの中で、余り変わる事の無かった表情を今も変えず、小首を傾げてオレを見つめている。
「ニーナ、大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ、オレは正気に戻った」
あの途方もない激情に飲み込まれかけて、オレは狂っていた。
身を焦がす狂乱と激情。その二つに支配され、オレは見境なく全てを殺そうとしていた。
それこそ、ここにいた昆虫の全てを殺しても収まらなければ、オレはリズと玉藻にすら襲い掛かっていただろう。
そんな取り返しのつかない愚かな間違いをする前に、オレは正気に戻ることが出来た。
それは途方もない僥倖に思えた。
玉藻を助けるために戦ったって言うのに、玉藻に襲い掛かって殺してたら世話ねえっての。
「ニーナ、おっきいね」
「あん? ああ……これな」
先ほどまではほぼ身長が並んでいたリズが、今では見下ろすほど小さい。
今のオレの身長は明らかに百七十センチを超えていた。リズとの身長差は頭二つ分近い。
「胸も、おっきい。服ちっちゃすぎるよ」
「しょうがないだろ。服がでかくなるわけじゃないんだから」
このみょうちきりんな能力を得てから、オレは色々と苦労を強いられた。
元々長期間使えるようにと大きめの服を買っていたが、その服ですらも小さいのだから。
この状態になっているときは服がぱつんぱつんで苦しいし、ズボンはつんつるてんだ。
革鎧なんか着られないから、この状態になってる時は必然的に防具なしだ。
そういえば、オレは鎧をいつ脱いだんだろ? まぁいいや。
「とにかく、今は先に進むぞ。時間が無いんだろう?」
「……ううん。今は拙いかも」
「何?」
リズが長い耳をぴくぴくと動かしている。
そういえば、エルフは人間よりも知覚能力が高いのだと聞いたことがある。
元々、エルフは森で暮らす民であるため聴覚と視力、洞察力が鋭いらしい。
その優れた感覚と洞察力で森に暮らす獣を見つけ出して狩る優秀な狩人なのだとか。
「何か、来るのか?」
オレの感覚は極普通だ。野山で暮らしていたので視力はいいが、ただの人間である以上、エルフであるリズに察知能力で敵う事はあるまい。
オレが察知出来ていなくても、リズは何かを察知しているのだろう。
「上の階が騒めいてる。ここの虫たちが殺されたことで、上の階のモンスターたちが何かを察知してる。今は、動かない方がいいかもしれない」
「なら、尚更なんかが来る前に出発した方がいいんじゃないのか?」
加えて言うなら、オレにも時間が無い。
この能力の持続時間はおよそ三十分程度。それを既に五分近く使用してしまっている。
残った時間で可能な限り進んでおきたい。この能力が切れたら、オレは空腹で身動きが取れなくなるのだから。
それまでになんとか食料を見つけ出しておきたいのだ。
「上の階の構造が分からない。戦闘に適さない場所の可能性もある。向こうから襲撃を受けるとしても、ここで待ち伏せた方がいい」
それは確かに道理だ。オレもリズも武器は長物。
通路は狭いわけではないが、槍や大鉈を縦横無尽に振り回せるほど広いわけでもない。
もしかすれば上の階の通路はここ以上に狭い可能性がある。
そうであるならばここで待ち、上の階が落ちつくのを待つべきではある。
加えて言うなら、向こうから襲撃を受けたとしても、階段を下りてくる関係上、オレ達が真っ先に察知する事が出来る。
そうすればこちらが先制攻撃をすることが出来る。
考えれば考える程、ここで待つのが得策であるように思える。
「しかし、食糧はどうする。すぐに落ち着くとも限らんだろう」
オレもリズも、もちろん玉藻も食料を持っていない。そもそも持っていたら食べてる。
食料が無い状態での待機というのは厳しい。
何より、精神的にその状態に耐えられるか分からない。
現状では空腹が酷いわけではないのに、それでも食料に対する不安があるのだから。
「…………ニーナ、私はここの護り人として眠りに就くよりも前は仲間と旅をしていた」
「は? いきなりなんだ?」
確かに気になる話ではあるのだが、この状況でリズの過去話を聞いても仕方ない。
いや、旅をしていたと言うのなら、空腹を凌ぐ方法を知ってるのかもしれないな。それを教えてくれるのだろうか。
「その仲間の一人に、かつて魔王に滅ぼされた国の騎士が居た。その騎士はとてもお調子者で、私達の団のムードメーカーだった。そして彼は物知りだった」
「ほうほう」
「マジックアイテムの作り方から、魔法の解除方法、そして空腹を耐える方法や、食べられるものの知識。それらはとても役に立った」
「ふんふん。それで?」
食べられるものの知識に空腹を耐える方法は有用だ。それを聞けたら多少はこの状況もマシになるかもしれない。
しかし、オレは次のリズの言葉で耳を塞ぐこととなった。
「その中にはクモを食べる方法が……」
「あーあーきーこーえーなーいー」
「飢え死に、する?」
「……それは嫌だなぁ」
だからってなぁ……そう思いつつ、オレは周囲を見渡す。
転がるカマキリの死体と、焼け焦げた蝶の死体。そして頭を潰されて転がるクモの死体。
……カマキリ、は。硬そうで調理が大変そうだし、食べるところも少なさそうだし……パス。
蝶は……そもそも食べるところなんてあるのか? そういうわけでパス。
その二つをパスするとなると、必然的に残ったクモを食べるしかないのか……?
「カマキリを食べる方法も、あるよ?」
「種類の違いの問題じゃないんだ……」
確かに、昆虫食はこの世界にも存在する。
というか、オレの村でも昆虫食は極普通に行われていた。
畑の野菜につく芋虫は捕まえては集め、その日の夕飯に焼いて供された。
蜂の巣が見つかったら、成虫も幼虫も油に余裕がある時は唐揚げ、油が無い時は丸焼きで食べた。
カマキリもたくさん見つかったら、羽を毟って焼いて食べた。
蝶はさすがに食べなかったが、クモは捕まえて焼いて食べたものだ。オレは嫌いだったけど。
そのため、クモやカマキリを食べる事自体に拒否感は無い。もちろん、出来る事なら遠慮はしたいのだが。
しかし、こんなでかいカマキリやクモを喰うというのか。
というか、このクモには強烈な毒があるんだぞ? それはどうするんだ? もしかして肉には毒が無いのか?
いやしかし、このクモを喰わなきゃ飢え死にするのは確かなのだ……。
「やっぱ、上の階に行かない……?」
「やめた方がいいと思うけど、ニーナがそうしたいなら……」
「……いや、うん、やめよう」
冷静に考えれば、ここに残るのが得策なのだ。
そうするとクモを食べる事になるが……いざとなれば、リズに解毒して貰える。
リズが解毒し切れなくても、今は玉藻が居る。毒でくたばる心配はない。
……でも、胃から取り込んだら毒の効き目が普通より強くなりそうな気もするなぁ……。
「……まぁ、男は度胸だからな。試してみるか」
「ニーナ、男なの?」
「いや、女だけどさ」
ついを口をついて出たが、オレは女だった。今でもうっかり忘れることがあるんだよな。
「じゃあ、男は度胸なら、女はなに?」
「愛嬌だったと思う」
「じゃあ、愛嬌でクモを食べるの?」
愛嬌でクモを喰うとはどういうことだろうか……接待? まぁ、どうでもいいか。
「リズ、今のところ何かが来るってことは無いんだな?」
「ん。何かがこっちに来る様子はない。ただ、階段の上で何かが騒めいてる感じはする。とりあえず、私が見張ってる」
「そうか。なら、今のうちに軽く調理を試してみるか……」
とりあえず、クモから試してみるか……クモを食べるには焼いて食うのが一番なんだが、ここには焚き木になるもんがないからな……。
「クモは、生で食べる方が美味しいって言ってた」
「それだけは勘弁してくれ……」
このでかいクモを生で食うのは無理。生理的に無理だ。
生で喰えって顔の前にクモを突き出されたら可愛い悲鳴あげる自信あるもん。
というか、男だった前世でも悲鳴を上げただろう。オレは都会っ子だったんだ。まぁ、声が男だから悲鳴はキモイだろうけど。
「しゃあない【フレイムスロワー/火炎投射】で焼いてみるか」
どうせオレの魔法は大した火力が無い。使ってしまっても問題なかろう。
玉藻やリズの手を煩わせて、有限のリソースを無駄に消費する事は無い。
そういうわけで、さっそくクモの腹を掻っ捌いてみる。
しかし、甲殻が硬い。大鉈の一撃でぶち割る事は出来たが。
そこを無理やり開いてみると、真っ白い肉が覗いた。
匂いは……しないな。異臭がしたらどうしたもんかと思ったが。いやでも、無味無臭の方が危険なような気もするな……。
考えても仕方ないので、適当にひと塊ほど切り取ってみる。気休め程度にナイフを腰に括り付けててよかった。
それをナイフに突き刺し、【フレイムスロワー/火炎投射】を発動。
燃え上がった炎に肉をかざすとあっという間に肉に火が通って行く。
香ばしい匂いがしはじめる。匂い自体は、ウサギの肉なんかとそんなに変わらない。美味そうな匂いだ。
ただ、油が殆ど無いので表面で油が弾けると言うことは無い。どっちかって言うと鶏肉っぽい感じだな。
「……焼けたが、これ、本当に大丈夫か……?」
こんがりと焼き目のついた白っぽい肉。美味そうな匂いはするんだ、匂いは。しかし、毒が無いとは限らんからなぁ……。
そう思っていると、今まで倒れていた玉藻が唐突に起き上がる。
そして周囲を見渡し、昆虫の死体だらけの惨状に目を見張る。
「何が起きたんじゃ……リーゼロッテ、ぬしがやったのか?」
「私が半分くらい。ニーナがもう半分」
「ニーナが? ようやったのぉ……しかし、なんじゃな、ニーナ。ぬし、なんかでかくなっとりゃせんか?」
「別に気のせいじゃねえよ。ところで、玉藻。お前、今も解毒は出来るのか?」
「んむ? 出来るぞ。もしや毒でも喰らったのか?」
「いや、そっちは何ともない。まぁ、喰えよ」
そういってナイフごとクモの肉を手渡す。
それを受け取った玉藻は軽く匂いを嗅いでからその肉に齧りついた。
「美味い。カニみたいな味がするの。何の肉じゃ、これ」
親指を背後のクモの死体に向ける。
「クモはこんな味がするんじゃなあ。知らんかった」
「甘い味のするクモも居るんだぜ」
「ほー……」
故郷で食べたクモは大抵甘い味がした。それこそ、チョコレートみたいな味がする奴も居た。
カニみたいな味というのは初耳だが、カニも確か甘味があった……と思う。そこからするとおかしくないのかも。
「馳走じゃった」
ナイフを返される。そのナイフを受け取って、もう一度クモの肉を切り出す。
今度は大きめに切り取り、もう一度焼く。
「玉藻、もう腹はいっぱいか?」
「まだ入るぞ」
「そうか。ならたらふく食え」
再び焼きあがった肉を玉藻に渡すと美味そうに食う。
今のところ、空腹はそれほど酷くないので暫く様子を見させてもらおう。
その後、数塊の肉を玉藻に食わせ、オレは自分の分の肉を焼き始めた。
一つ、二つ、三つと焼いては、クモから引っぺがした甲殻の上に並べていく。
「どうしたんじゃ? なぜ食わん? わしはもう食えんぞ?」
「いや、お前が苦しむかどうかを待ってるんだ」
「は?」
「だから、毒があるかどうか判断がつくまで待ってるんだ」
「……もしや、この中で肉を食ったのは、わしが最初か?」
「そうだが?」
「ここ、こ、この、鬼畜! 腐れ外道! ぬしは鬼か! わしを毒見に使いおったな!」
おお、烈火のごとく怒り始めた。まぁ、毒見に使われたらオレだってこうなるな。
「お前、解毒出来るだろ。解毒出来ないオレが毒見するより安全じゃん」
「そういう問題ではないわあっ! せめて一言断るくらいは無かったのか!」
「オレが毒があるかもしれないって言う前にお前が食ったんだ」
「言おうともせんかったろう!」
「この肉は大丈夫か? って聞かれたら、毒があるかもしれないって答えてたぞ」
「そんなもん普通は確かめんわ! 屁理屈じゃ屁理屈!」
「屁理屈を言ってる自覚はある。しかし、元はと言えばカマキリに迂闊に捕まったお前の所為でもある。オレ達はここで待たなきゃいけなくなったんだからな」
「ぬぐぅっ……!」
その自覚はあるのか、玉藻が押し黙る。
しかし、この理屈ですら屁理屈という自覚があるんだがな。
ぶっちゃけ、毒見に使って、本当に玉藻が毒に冒されたらオレは土下座するつもりだったし。
「まぁ、今のところ何ともないんだし、いいじゃん?」
「ぬぅっ……ふんっ!」
さすがに怒ったのか玉藻がそっぽを向く。
まぁ、怒るよな。次は自分で試すか……次があるかはともかく。
そう思っていると、オレの身体が唐突に縮み始めるのが分かった。
それと同時に押し寄せる途方もない飢餓感。
その飢餓感に従ってオレは目の前の肉に齧りついていた。




