腹減ったなぁ
熱に浮かされるようにして目が覚めた。
熱く湿った吐息が漏れ、直後に世界全てがぐるぐると回った。
「う……あ……?」
石造りの天井。そして、清潔なシーツの敷かれたベッド。壁に造りつけられている机の上に、皿と木製のコップが置かれていた。
コップの中には水がある。
当然の推論として思い至った考えに従って左手を伸ばし、テーブルの上に置かれていたコップを手に取ろうとする。
だが、熱に浮かされていたオレは目測を誤り、コップを倒してしまう。そして、倒れたコップからかすかに酒の匂いがする水が零れた。
「ああ……もったいな……」
すぐさまコップを取り直し、持ち上げる。
殆ど零れてしまったが、ほんの一口分だけ水が残っていた。それを、口に含み、嚥下した。
冷たい水の感触が喉を滑り落ちていき、胃の腑がわずかに熱くなる。飲用水に酒が混ざっているのはよくあることだ。その心地よさに思わず溜息を漏らすが、直後にもっと水をよこせと全身が訴えた。
だが、水はもう無かった。それでも諦めきれずにコップを傾けるが、当然ながら水は落ちてこない。馬鹿みたいだと自覚して、コップを放り投げた。
木製のコップが地面に落ちて乾いた音を響かせ、それを聞きながらオレはベッドに倒れこんだ。
もはや体を支えているのですら億劫だった。
「はぁ……」
じくじくと腹と背中と肩が熱を訴えていた。そこでようやく過去の記憶が甦ってくる。
そうだ、オレは、猛獣と戦って勝利したんだ。
腹と背中は、猛獣の爪によって切り裂かれた傷。
そして肩は牙によって貫かれた傷。この熱は、恐らく傷が原因の発熱だろうと思い到る。
そう言えば、あの時肩から引っこ抜いた牙はどうしたのだろう。
そう思ったとき、右手に何かを握っていることに気付く。
何かと思えば、それはあのときに引っこ抜いた牙だった。二十センチほどもある、緩やかに湾曲した短刀のように鋭く、長い牙。
「はは……オレ……生きてる……」
再び、あの時の感情が甦った。猛獣を倒し、傷を負いながらも勝利し、生還したという全身を駆け巡った激しい喜びの感情。
そして、直後に闘技場を覆うほどの激しい熱狂の渦。その熱狂の渦はオレと言う存在によって巻き起こり、その感情の全てがオレへと向けられていた。
万雷の如き喝采。その喝采はたった一人のオレへと向けられていたのだ。その感覚は、オレの熱情を強く刺激し、もう一度味わいたいと思わせた。
死にかけるほどの経験だったのに、もう一度喝采を浴びたいがためにまた勝負に挑むなんて馬鹿らしいと僅かに苦笑したが、それでも悪くないと思えた。
古代ローマの奴隷剣闘士は引退した後も喝采を浴びた経験が忘れられず、再び剣闘士に舞い戻る事があったというが、それも納得出来た。
それこそ、オレが男であったならば、射精していたかもしれないと思えるほどの激しい感動の発露。
それを再び浴びたいと、心のどこかが叫んでいた。
オレは功名心は強いほうではないと思っていたが、どうやら違ったようだと苦笑しながら、オレは手の中に握られている猛獣の牙を握り締めた。
「あー……」
なんか、ムラムラしてきた。疲れマラみたいなものか。疲れマラは男だけに起こるものだけどさ。そりゃ女にはマラは無いからな……あったら大変だ……。
……まぁ、お気楽にムラムラできてるんだから体は大丈夫だろう。いや、八歳と言う年齢でムラムラ来る辺り拙い気もするが、それはさておいて……腹、減ったなぁ……。
多少なりとも気は晴れて、そうすると途端に空腹が自覚出来るのだから体というのは現金なもの。熱で茹だる頭は少々鈍いが、具合が悪いわけではないのだ。
オレは少しばかり体を起こして、机の上に置かれていた皿を手に取る。中を見てみれば、クルミやナッツなどが散りばめられたオートミールが盛られていた。
「オートミールは余り好きじゃないが……こらうまいこらうまい、こんなうまいものはじめてくった」
ブツブツとこれは美味いものなのだと自分に言い聞かせながらオートミールを口に運ぶ。冷えているので相当不味いが、まぁ、食える。
数分ほどして全てを胃に納め終えて、机の上に皿を置く。
さて……メシも全部喰っておいてからでなんだが、ここは一体何処なんだろうか。
周囲を見渡すが、畳部屋で言うなら二畳半といった程度の広さであり、シングルベッド一個置いただけで部屋は殆ど一杯だ。見渡す程の広さではない。
ベッドは入り口側から見て左の壁際に置かれており、入り口正面のほうに造りつけの机があるという形だ。滅茶苦茶狭い部屋で独房なのではないかと邪推しそうになる。
「うーん……」
とりあえず、今のオレは動ける状況ではない。左腕は上がらないし、腹も背中に引き攣って痛いし、挙句の果てには起き上がってるだけで頭がくらくらする。
まぁ、貧血だろう。考えてみると、左肩を貫通してた牙を引っこ抜いたんだから出血は酷くなっただろう。下手したら自分で自分にトドメを刺していた可能性も……。
「なんか背筋が寒くなってきた……」
今更ながら自分の行いに慄いていると、唐突に部屋の扉が開かれる。
そして、あの時オレを闘技場まで連れて行った男がポットを手に入ってきた。
「おっ。目が覚めたか。どうだ、気分は」
「どっちかと言えば悪い」
端的な質問に、正直に応える。嘘をついても仕方あるまい。
そしてそれを聞いた男は笑い、転がっていたコップを拾い上げ、そこに水を注いでオレに差し出した。
オレはありがたく受け取って飲み干す。しかし、全然足らない。
「もっと」
「おう、じゃんじゃん飲め。血を失った後は水を飲みまくるんだ」
そう言いつつ男がコップに水を注ぐ。
男の言う通り、血を失った後は水をたっぷり飲んだ方がいいと聞いたことがある。
いや、脳の手術をした後は脳脊髄液が減少するから、たっぷりと水を飲むんだっけ……?
まぁなんでもいいや。喉が渇いてるのは確かだから。
何杯か水をお代わりして、ようやく喉の渇きが落ち着く。
「落ち着いたか?」
「ああ、で、あの後どうなったんだ?」
「おう、お前はサーベルタイガーに勝ったが治療も虚しく天に召された」
「嘘つけ」
死んでるとしたら今のオレはなんだっつうんだよ。
「嘘じゃない。しかし、助命嘆願が強かったから、死霊術師に頼んでアンデッドにしてもらったんだ。蘇生よりも安上がりだからな」
「え……本当に?」
この世界、話を聞くに魔法だのなんだのが存在しているという。今の男の口振りからしてもそれは確かだろう。
そんなファンタジー臭がする世界にアンデッドが居ないと言い切れるのか。
ましてや、オレがそのアンデッドにならないと言えるのか……。
そう思うと、途端に今の自分の状態すらも疑わしくなってくる。
「嘘に決まってんだろ! だーっはっはっはっは!」
そして、不安になって尋ねた直後に男はオレの不安を笑い飛ばした。
こいつ後でぶっ飛ばす。ぜってぇぶっ飛ばす。
「安心しろ。お前はちゃんと生きてる。まぁ、普通なら死んでたところだが、運がいいみたいだな、お前は」
「運のいいやつが奴隷剣闘士になるわけないだろ……」
「うん? 確かにそれもそうだな」
オレは運が悪い。そればっかりは確信を持って言える。
何しろオレは転生する時の能力エディットで運を最低まで下げたのだから。
今思えばとんでもない事をしてしまった気がする。と言うか、間違いなくとんでもない事をしたのだと思う。運はゼロでも死にはしないなんて言ってたのに騙された。
オレが女に生まれたのも運が悪いからではないだろうか。
この世界では女は男と比べれば社会的弱者だ。
正確にいえば、力の弱いものが弱者であり、女は男と比べて腕力が低いから弱者にならざるを得ない。
オレが人売りに売られたのも女だからだ。貧農の観点からすれば労働力として男の方が役立つのは当たり前だ。
と言うか、人売りに売られたのも運が悪いからなんじゃ……。
「どうした、リスが唐辛子でも食っちまったような顔して」
「今後の人生の展望が暗くてな……ふへへ……」
「……大丈夫か?」
哀れなものを見るような目で見るな畜生。
「まぁ、あんまり暗い顔するなよ。いいニュースがあるんだぜ」
「……なんだよ」
いいニュースと見せかけて、実は悪いニュースとかじゃあるまいな。
そう思って心の準備をしつつ、男が口を開くのを待つ。
そして、男が放ったのは何とも衝撃的な一言だった。
「お前はもう解放奴隷だ」
「……は?」
男が言った言葉を理解するのに少しばかりの時間がかかった。
カイホ=ウドレイ。それは華々しい活躍をした奴隷剣闘士であり……などとわけのわからない事を考え始める程だった。
カイホウドレイ。解放奴隷。つまり、解放された奴隷。
「……なんで?」
「解放奴隷になるにはお前自身の値段の三倍の額を払う必要がある。で、お前の値段は銀貨四枚だった」
「それ、高いのか? 安いのか?」
「どっちかっていえば安いが、まぁ妥当な額だろう。何しろちいせぇからな。あと五つも歳食ってたら何十倍の値段にもなってたぜ。この場合は運がよかったんだろうよ。何しろ歳食ってたら、剣闘場じゃなくて娼館に買われてたろうからな」
もしかしてオレはむしろ運がよかったんだろうか……。
いや、下手したら死にかけてたんだから運は悪かったな……娼館なら死にはしないだろうし。いや、自殺してたかも……。
「んで、だが、お前が自分を買い戻すには金貨一枚と銀貨二枚だったわけだ。そしてお前は猛獣と戦って買った。そのファイトマネーは金貨二十枚。水夫の日当が銀貨二枚だから、ちょうど百倍ってとこだ」
「おお、高いな。余裕でオレを買い戻せるじゃんか」
「いや、全然安いぞ。普通の闘獣士なら、あの歳食った猛獣でも金貨百枚は取ってたところだ」
「なんだそりゃ! ピンハネにもほどがあるだろ!」
「これからその金貨八十枚分を使うんだ。大人しくしとけ」
「はぁ?」
「おい、入って来い」
男がそう呼びかけると部屋の扉が開き、巻頭衣を着た男が入ってくる。
いや、あれは貫頭衣ってよりはローブかな。下に何も着てないわけではないだろうし。
「さ、やってくんな。きちんと治してやれよ」
「はいよ。大人しくしとけよ。【キュア・ミドル/中傷治癒】」
その言葉と同時、男の手から何やら暖かく白い光があふれる。そしてオレの腹に触れると、今まで感じていた傷の痛みが一瞬で掻き消える。
「お、おおっ!? すげえ! 魔法か!」
初めて見る魔法が治癒で、しかも対象が自分というのはなんだか情けない気もするが、それよりも何よりも、魔法ってスゴイという感情が先立った。
何しろ本当に一瞬で傷が全て消えたのだから驚きだ。
「今の呪文は普通の治療院に行ったら金貨三十はかかる。ポーションなら金貨百二十枚だ。ほれ、安い気がするだろ。何しろアンデッドにはダメージを与える事も出来る便利な魔法だ」
「ああ、確かに……いや、今の魔法だろ。残り五十枚は?」
「安いポーションを飲んだと思って諦めろ」
くそう、結局ピンハネすんのかよ。
「まぁ、とにかくオレは解放奴隷なんだな?」
「おうよ」
つまりは家に帰ってもいいということだ。家に帰った所で食料が増えるわけでもないのでそう易々と帰れそうにもないが。
両親がオレを追い出すとは思わないが、現実問題食料は無いのであって、オレが帰ったら一家の誰かが死ぬ可能性すらもある。そもそも村の場所わかんねぇし。
「で、そこで相談なんだが……お前、剣闘士続けるつもりはねぇか?」
「あん? なんで?」
「いやそれがよう。お前、勝ったろ? もしもまたお前が戦うと分かれば、今度はもっとたくさんの客が押し掛けるだろ? んで」
「皆まで言うな。大体わかった。オレにも美味い汁を吸わせる代わりに、金儲けさせろってことだろ?」
「おう。ファイトマネーは正規の量を支払うし、お前をそう簡単に死なせるような真似もしねぇ」
「要は出来レースか」
「まぁ、な。だが、ハッキリ言って次の試合でお前が死んじまっても構わねぇ……って闘技場の主催者側は思ってるだろうよ。続けて稼げれば儲けもん、稼げなくても、次のお前の試合には観客は押し寄せる」
なるほどな。絞れるだけ絞る……そんな具合だ。おっさんの言うことは真実なんだろう。
腹は立つが、正直な話、今のオレはそんなものにでも縋らなくてはならない状況でもある。
頷けばオレは他の剣闘士よりはマシな待遇で剣闘士として戦う事になる。
首を横に振れば、オレは右も左も殆ど分からない世界で一人生きていくことになる。
さっさとこの闘技場から出たい気もするが、この世界で一人生きていけるとは思えない、か……。
どうしたもんかな……。




