戦わないのならば死ね
強い光が目を刺した。そして、観客たちの大歓声が聞こえた。周囲を見渡せば、観客がアンフィテアトルム一杯に収まっていた。
その誰もが熱狂に身を躍らせ、己の心の滾るままに叫んでいる。戦え、殺せ、戦え、殺せ。そんな大絶叫が耳朶を打ち続ける。
「――――ああ、現実なのか」
どこか不確かで、どこかあやふやな感覚が消え去る感覚がした。耳朶を打つ熱狂の声も、 この手のナイフの感触も、現実なのだ。
背後で嫌がる少年が男に押されて闘技場へと足を踏み入れる。そして、嫌がっていた少年は、観客の大絶叫に気付いて、ぽかんとした表情を浮かべた。
「腹、括るしかない」
ぎゅっ、と、ナイフを握り締めた。小さなナイフの感触は頼り無さげで、それでいて、途轍もなく心強い存在に感じられた。
このナイフを上手く使いこなすか否かで、オレの生死が決まる。即ち、このナイフこそが、オレの生命線に他ならない。
――――上手く使いこなせるのか。自問自答の声に答える声は無い。だが、上手く使いこなせなければ、死ぬだけなのだと、本能が語っていた。
そして、対面の門から、檻に閉じ込められた猛獣が運び出されてくる。その猛獣は、虎、だろうか。いまいちよく分からなかった。
年老いた獣であると男は言っていたが、それは確かなようだ。垂れ下がった皮膚に、肩や背骨が浮いているのが伺えて、年老いているのだろうと図らずも実感することが出来た。
だが、その猛獣の顔には、異様といえるほどに長い牙があった。その威容を誇る牙だけが、年老いた猛獣には酷く不釣合いで、恐怖を感じさせた。
生唾を飲み込む音が自身の体を媒介として耳朶を打つ。あの牙で噛まれれば、腕の一本や二本、簡単に持っていかれてしまうだろう事は想像に難くなく。
それは即ち、あの猛獣に組み付かれた時点で、オレの人生は決すると言う事。その決した先は、この幼い少女の身であるオレの命が費えるという結果しかない。
こんなちっぽけなナイフで何が出来るのだろうかと自問するが、やはり答えは出ない。
先ほどと同じように、うまく使えなければ死ぬだけだと本能が語るのみ。
「アンフィテアトルムにお集まりの諸君! これより、午前の興行を始めるとしよう! まずは、年老いた猛獣と、幼き子供の闘技を始めよう!」
何処からともなく老人の声が響いたと同時に、猛獣の檻を運び出してきた男たちが、猛獣の足にくくりつけられていた鎖を引く。
その鎖を闘技場の中心に埋め込まれていた楔に通し、鎖のもう一方を、オレの足に固定した。チェーンデスマッチ、みたいなものか。
そして、猛獣の檻が解放される。檻から飛び出した猛獣は掠れるような咆哮を一つ上げ、ゆっくりと歩みだす。
背後で息を呑む声が聞こえた。それと同時、猛獣が一気に駆け出す。たわんでいた鎖が一気に引き絞られ、足元を掬われた形となったオレは引っくり返った。
地面に体がこすり付けられ痛みを訴えるが、猛獣は止まることなど無く、背を向けて駆け出していた少年の肩口に喰らいついていた。
「ひっ、ぎっ……あああああぁぁぁぁああああああああぁあぁぁぁあぁぁぁああぁああぁ!!!」
絶叫。そして、歓声。少年の肢体を猛獣の牙が貫き、少年が絶叫を上げた。それに呼応するかのように、観客が歓声を上げた。
組み敷かれた少年から噴水のように血が噴き出し、猛獣の体を汚す。そして、猛獣はそれを意にも介さず、少年の首筋に喰らいついた。
ごぐり、と、鈍い音が響いた。先程まで耳に痛いほどに響いていた絶叫が掻き消え、少年の肢体が激しく痙攣を繰り返し、そのたびに血潮が噴き出した。
そして猛獣は少年の肢体を貪り喰らい始める。鋭い牙で柔らかい腹を割き、腹圧で飛び出してきた内臓に喰らいつき、それを咀嚼する。
ぬらぬらと、太陽光を反射して鈍く光を反射する臓腑。それを、猛獣は実に美味そうに、ゆっくりと咀嚼し、腕を突き込み、更に内臓を引き出そうとする。
現実味の無い光景。四方八方から聞こえる歓声はどこか遠い。だが、鼻を刺すような鉄錆の臭いだけが、何処までも過剰なリアリティを持ってオレに迫る。
全身が震えた。胃が痙攣し、嘔吐した。げぇげぇと、吐き散らした。目の前の余りにもグロテスクな光景に、体は反射的に動いていた。
鼻を刺す血臭。たったさっきまで生きていた人間が、ほんの数秒で物言わぬ肉塊と成り果て、無残にも畜生の餌となって消える。
あんまりにもあんまりすぎる。何処までも非人道的で、何処までも非現実的。大歓声を上げる人間たちが、人間の形をした悪魔に見えた。
現実とは、こうまでも苦しいものなのか。こんなにも残酷で、不条理で、理不尽なのか。なんで、オレがここにいる。なんでお前等は、安全なそこにいる。
唐突に体が引き摺られ、オレは地を転がった。その衝撃で気付く。猛獣が矛先を変え、オレへと一直線に走り出してきている。
「あっ、うあっ! い、いやっ、いやだぁぁぁぁあ!」
咄嗟に、地面にナイフを突き刺した。剣闘士が、猛獣が、戦車が、数多のものが踏み締めた闘技場の大地にナイフが突き立つ。
根元まで突き刺さったナイフを血が滲むのではと思えるほどに握り締め、必死で体を固定する。でなくては、死ぬ。殺される。
……いやだ、そんなのはいやだ! オレはまだ4年ぽっちしか生きてない! 死にたくない……! 絶対に死にたくない! 死にたく、無いんだ……!
歓声が聞こえる。殺せ、殺せ、殺せの唱和。そんな声はどこか遠く、頭の片隅で観客たちへの激しい憎悪が巻き起こる。
だからだろうか、迂闊にも、目の前の猛獣から僅かにでも注意を逸らしたのがいけなかったのだろうか。それは、分からないが。
「――――あ……」
ナイフが半ばから圧し折れた。オレの肉体は強靭で、現状の力で猛獣と力比べをしても、拮抗することが出来ていた。
だが、ナイフは違った。ただの金属製のナイフは容易く圧し折れ、残った僅かな刃も土から抜け出し、オレは一気に引き摺られる。
「あ、ああ! ああ! ひぃっ……! や、やだぁ!」
ただ、必死だった。地面に爪を突き立てて、爪が剥がれても必死で地面を掴もうとする。まだ、死にたく無いから。
それでも現実は非情だ。地面をしっかりと捉える事の出来ない指は猛獣に抗しえるに足らず、オレは引き摺られていった。
そして、背に熱い感触が奔った。痛い、と、最初は思えなかった。ただただ、熱い。まるで焼けた棒で肌を擦られたよう。
「いぎっ……! あ、あ、ぎゃあああぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁぁあぁあ!」
熱は一瞬で痛みへと変わり、熱を伴った激しい痛みが全身を貫いた。どろりと血が噴き出し、体を汚すのが分かった。
激しい痛み、激しい熱。非現実的な感覚。これは夢なのではと思いたくもなる。だが、痛みが、これが現実だと如実に語る。
迫り来る死の足音が聞こえた気がした。このままでは死ぬのだと、本能も、理性も、オレという存在の全てが全力で警告していた。
「げぶっ……! あがっ、あ、ああ!」
背に何か重いものが圧し掛かる。それを必死で振り払おうと、背の痛みも無視してオレは必死に足掻いた。
猛獣の唸り声が近づき。肩口に冷たい感触がしたかと思った直後、再び激しい痛みが全身を貫いた。
「あぎゃああぁあぁぁああぁあっ! ひぎっ、は、あ、ひぃっ!」
冷たい、冷たい感触。肩口を貫くその冷たい感触。首筋に当たる生暖かい猛獣の吐息。噛み付かれているのだと、自然と理解出来た。
足掻いたが故の結果。本来ならば首筋を噛まれ、首の骨は圧し折れ、皮膚を裂いて頚動脈を破り、オレは死んでいたはずだった。
肉体は必死で迫り来る死に抗おうと足掻く。だが、猛獣と言う存在に対し、オレという存在は余りにも無力。それでも、死にたくない。
生きたい。まだ生きて居たいんだ! オレは生まれ変わった意味すら見出せていない! まだ、やりたい事が、知りたい事が、たくさんあるんだ!
だから、オレは抗う……! 生きて、生き足掻いて……絶対に、生き延びる!
「ああ……! あああぁぁぁああぁあああ!」
咆哮。そして、身を全力で捩った。肩口を貫く冷たい感触は未だ健在。即ち、オレの体を貫いている猛獣の牙がオレの体を引き裂かんとする。
それでも身を捩った。激痛に目の前が眩み、胃の腑から激しい吐き気がこみ上げてくる。直後、オレの体が勢いよく倒れた。猛獣の足に組み敷かれている状況では上体が倒れただけだったが。
その次の瞬間、猛獣の悲痛な唸り声が響き、オレの背に圧し掛かっていた荷重が消える。そして、オレは必死で立ち上がり、未だに握られていたナイフの感触を確かめるよう、強く握り締めた。
軽く二十センチはあっただろう猛獣の牙は梃子の原理によって局所的に荷重が掛かった事により、根元から引っこ抜け、オレの肩を貫通した状態のままに残っていた。
「お……おぉ……! う、おぉぉぉぉおおぉぉぉおぉぉぉおぉおおおおおぉおぉおぉぉぉぉ!」
上顎骨を破損でもしたのだろうか。それは分からなかったが、顔を前足で抑えて転げる猛獣へと、オレは咆哮を上げてナイフを手に躍りかかった。
ナイフはまるで吸い込まれるように猛獣の首筋へと突き立った。たるんだ硬い皮膚を貫き、折れたナイフは根元まで刺さった。だが、致命傷足り得なかった。
まるで蝿でも払うかのように猛獣は腕を払った。本当に無造作な一撃。それこそ人間が目の前に蝿が飛んで来たから腕を振ったような動き。
「がっ……!?」
その一撃でオレの腹の皮膚は裂け、衝撃によってオレは弾き飛ばされた。無造作な一撃で、こんなにも簡単にオレは吹き飛ぶ。オレは余りにも無力だった。
だからといって、その無力さに歯噛みしている暇など無かった。オレは激痛を堪えて必死で立ち上がり、こちらを鋭く睨み据える猛獣と対峙した。
そして、猛獣が駆ける。だがその動きは死に際の集中力からか、酷くゆっくりとして見えた。だから、その首筋から血を流す傷口を見て、いけると直感した。
猛獣の動きにあわせるように、牙に貫かれなかった方の腕、指先をそろえた右腕を突き出す。そして、オレの貫き手が、猛獣の傷口へと突き刺さった。
猛獣の動きが止まった。それを意にも介さず、オレは腕を突き込んでいった。そして、指先に周囲の筋肉とは違う、強い弾力を持った物体が突き当たる。
それを引き千切れと、本能が叫んだ。オレはその本能の叫びに従い、その強い弾力を持った細長い物体を指先で掴み、一気に腕を引き抜いた。
一瞬の静止。その後、まるで噴水のように猛獣の首筋から勢いよく血が噴き出した。猛獣は一つだけ悲しげに鳴くと、そのまま地に臥した。
猛獣の肉体は時折痙攣するだけで、最早動く事は無い。オレが、猛獣を倒した。オレが勝った。オレは、生き残った……。オレは、生きてる……。
「は、はは……はは、ははは! あはっ、あははっ! あはっ!あはははははは!」
口から自然と笑い声が漏れた。鈍い痛みを発している左肩に突き刺さっている猛獣の牙を半ば無意識に引っこ抜き、それを天高く突き上げた。
この猛獣の圧し折れた牙こそがオレの勝利の証に思えてならなかった。この牙こそ、オレの命を証明する者。オレが強者である事を知らしめる証。
そして、大歓声が響いた。天を裂かんばかりの絶叫。観客たちは大番狂わせの事態に対し熱狂し、その激しい熱狂に喝采し、身を躍らせる。
圧倒的に不利な状況から逆転し、勝利したオレを賞賛する声の大合唱。小さき勇者!とオレを褒め称える声が闘技場に木霊する。
その激しい熱狂にオレは狂ったように笑い、バカみたいに走り回り、跳ね回ったところで、激しい肩の痛みにうめきを上げて転げまわった。
すると、闘技場の観客たちが治療を!小さき勇者を死なせるな!と叫びながら、親指を立てた右腕を突き上げて声高に叫んだ。
それに少しばかり送れるようにして闘技場に足を踏み入れてきた奴等が、転げまわっていたオレを担ぎ上げて闘技場から運び出していった。
これで助かると、ただ自然とそう思えた。その安堵にオレは身を委ね、意識はそのまま遠のいていった。




