限界を超えてなお戦え
途方もない巨体。まさに、見上げんばかり。
その巨躯を誇るバケモノは、空想上の存在だが、ミノタウロスと言う形容がピッタリと来た。
ただ、伝説上のミノタウロスと違うのは、その身が徹頭徹尾バケモノだって所だ。
形だけは人間だが、異常に肥大した筋肉に覆われた肉体に、牛の頭を丸く潰したような頭。
肉食なのだろう、頭部にある牙は鋭く、それこそ金属だって噛み砕いてしまいそうにすら見えた。
そして手には分厚く巨大な鉈のような剣。あんなものが直撃したら、防具ごと真っ二つだろう。
こんなバケモノに、たった一人で挑まなきゃならない。
こいつが足軽と同じように、弱ければいい。けど、それは甘すぎる想定だろう。
目の前に存在するだけで怖気が立つほどの途方もない圧迫感、こいつが紛れもない強敵だと物語っていた。
けれど、それを奥に押し留め、その代わりに勇気を振り絞るように、オレは雄叫びを上げながら斬りかかった。
「うぅおおおおおおおおりゃあああああっ!」
全力の、大上段からの振り下ろし。下手をすれば自分の足を斬ってしまいそうになる下手くそな踏み込みだけど、篭められた力は途方もなく。
バケモノの足へと振るわれた鉄剣は、バケモノの表皮を切り裂き、その下の肉を切り裂いた。
オレの攻撃は通用する。それならば、勝ち目はあるかもしれない。
「ゴッオォォォッ!」
そう思った直後、暴風が吹き荒んだ。
それは目の前のバケモノが手に持つ鉈を振り回し、オレの頭上を掠めた証左だった。
小さな体躯に救われた。頭の上十センチ程度を潜り抜けて行った。もう少し身長があったとしたら、脳味噌ごと身長が減っていた事だろう。
この戦い、オレが一撃を受けたらそれで終わる。
掠り傷だろうが、あんなものを受けたら肉を根こそぎ持っていかれ、動きが鈍るか失血で死ぬ。もしくはショック死だろう。
更に言うと、オレには時間制限がある。この異界化した空間では精神に異常を来たし、やがて死ぬ。
時間制限が来ても終わり、一発喰らっても終わり、挙句の果てにゃ、相手を倒せても脱出出来なければ終わりだ。
オレは必死扱いて相手に攻撃し続けて倒さなきゃいけないのに、向こうにはそんな時間制限なんかないし、肉体的にあらゆる点で優れている。
なんともまあ相手側に有利なチキンレースだ。ふざけてやがる。本当にヘヴィだ。
それでも、この賭けに勝たなきゃ、オレは生き残れない。
オレは生き残るんだ。絶対に死なずに。生きて帰るんだ。せめて、リンを逃がしてやらなくちゃならない。
だって、オレはねーちゃんなんだ。リンよりも年上で、護ってやらなきゃいけないんだから。
だから、絶対にオレはコイツに勝たなくちゃいけないんだ。
「だからっ、さっさと死ねよぉぉぉっ!」
オレの体躯では相手の胴体に攻撃を届かせることが出来ない。だから、足を狙う。
足を狙い続ければやがて相手が転倒する。
それに、あれだけの巨大な武器だ。オレに的確に当てるのは難しいだろうし、身体の内側に潜り込めば、迂闊に振り回せないだろう。
そう思って身をかがめて一気に突っ込んだ瞬間、目の前に壁が迫った。
それが何なのかを理解するよりも前に、咄嗟に剣を横に寝かせることが出来たのは本能の成せる技だったのだろうか。
全身がバラバラになってしまったのかと思うほどの途轍もない衝撃が全身を貫いた。
オレの身体はゴムボールのように吹っ飛んで、林立する木の一つに背中から叩き付けられた。
この時になってオレはようやく蹴り飛ばされたのだということを理解した。
「…………!!」
悲鳴を上げる事も出来ない。
押しつぶされた肺の中の空気は強制的に吐き出され、衝撃で硬直する筋肉のせいで、新たに空気を吸い込む事も出来ない。
胃の中身を吐き出してしまわなかったのが僥倖としか言いようがない。
「かっ……! はっ、っ……!」
陸に揚げられた魚はこんな気分なんだろうか。
呼吸をしようとしても、息を吸い込めない。苦しくて苦しくてたまらないのに、身体は酸素を取り込めない。
震える手は無意識に喉に向かうが、その手で出来る事などなにも無く。一体どうすればこの地獄から解放されるのか。
陸上に居ながらして窒息死してしまうのではと思った瞬間、目の前の光景にオレの全身は再び硬直し、直後に全身の力を振り絞って地に転がっていた。
直後、頭上を通り過ぎる豪風と、木が薙ぎ倒される音。
バケモノがオレの頭を吹き飛ばさんと振るった巨大な鉈が、オレが激突した木をなぎ倒したのだ。
オレは必死で立ち上がり、未だ握ったままだった剣を震える手で握り直す。
いつの間にか呼吸は出来るようになっていた。だが、呼吸するたびに、酷く胸が痛む。
たぶん、肋骨が折れている。呼吸をしても酷く苦しい。肺にも穴が開いているのだろう。
何よりも、怖い。怖くて堪らない。もしかしたら失禁してしまっているかもしれないと思う程に怖い。
だって、こんなにも痛いんだ。たったの一撃喰らっただけなのに。防御したっていうのに。こんなにもボロボロになってしまった。勝てっこない。それが怖くて堪らない。
もし次の一撃を喰らったら、どうなってしまうのか。もう避ける事なんて出来ない。防御したって無駄だ。
――――死んでしまう。
……いやだ。いやだ……そんなのは、いやだ……いやだ、死にたくない……死にたくない……! 死ぬのはいやだ……死ぬのはいやだ!
死にたくない!
「あ、あああっ、あああああああ!!」
そして、オレが選んだのは逃走ではなく、突撃だった。
目の前の敵へと全力で突っ込んでいく。
もはや防御など考えない、完全な捨身の突撃。
避ける事も出来ない。防御しても無駄。逃げたとしても、結局は死ぬ。
だったら、攻めるしかない。
その考えに至った瞬間にはもう激情が溢れ出していた。
オレをこんなにも追い詰めたバケモノへの怒り。不甲斐ない自分への怒り。こんなふざけた状況への怒り。
そんな怒りが混然一体となってオレの身体を突き動かす燃料となっていたのだ。
「らああああぁぁぁっ!」
全力で、バケモノの膝へと剣を突き立てた。
それにバケモノが悲痛な呻き声を上げて崩れ落ちかける。
骨を削るごりごりとした堅く嫌な感触。それに躊躇したわけではないが、オレは剣を引き抜き、バケモノの膝を滅多切りにした。
何度も何度も剣を繰り返し繰り出す。一撃一撃に全力を。
振るわれる刃の速度は天井知らずに高まっていき、バケモノの膝の傷は大きくなっていく。
やもすれば、このままバケモノの足を切断できるんじゃないかと思うほどに。
そして、片足を潰されてはさしものバケモノも堪らないのかバランスを崩して地面に倒れ込む。
それを認識するよりも早く、オレはバケモノの膝に剣を振るうのを止め、鉈を握っている腕に剣を全力で突き刺していた。
「ううるあああああぁぁぁっ! 死ね! 死ね! 死んじまえよぉぉぉっ!」
上から体重をかけて突き刺しても、硬い筋肉と腱は易々と切れはしない。
だが、ここが正念場。
武器を奪ってしまえば、あるいは片手を奪ってしまえば、戦闘力は大幅に低下するはずなのだから。
そして、背に怖気が走った。
オレの直感が伝えたのは、剣を引き抜いて背面を防御しろと言うものだった。
それはたぶん視界の隅に映っていたバケモノの胴体の動きから察知したものだったのだろう。
しかし、その時のオレはただ直感に従って剣を引き抜き、背後に振り返って剣を用いての防御を行った。
「かっ、はっ……!」
そして、途轍もない衝撃が全身を貫いた。
それは先ほどと同じように、バケモノが苦し紛れに放った蹴りだったのだろう。
先ほどよりはいくらかマシな防御を取れたが、それでもオレは地を転げた。
元々のウェイトの差がでかすぎる。幾ら防御したところで吹き飛ばされずに済むわけが無かった。
痛い。痛くないわけがない。
さっきは後一撃貰えば死ぬとまで思っていたのだから、同じような一撃を喰らえば、それこそ戦闘不能になるほどの痛みを覚えていただろう。
だが、痛みなんてもう気にならなかった。
激情の激しさは際限なく高まり、最早精神は肉体を超越して限界を超えて肉体を動かしていた。
剣を握り締める手は骨が軋んでいる。一歩走る度に、足の筋肉が引き攣り千切れていく。
肺は貪欲に酸素を欲し、脳髄はくらくらと酸素不足に喘ぐ。
「オオオオォォォォオオォォォォオオッ!!」
それでも、激情に突き動かされるままにオレはバケモノへと躍り掛かっていた。
限界を超えたとしても、それは長くは持たない。それこそ、ほんの数分の奇跡でしかない。
だったら、その数分の間に勝利の奇跡を掴み取って見せる。
足が肉離れを起こしそうな程の力で踏み込んで、先ほども切断しようと足掻いたバケモノの腕へと剣を振り下ろした。
バケモノの腕に食い込み、その肉を裂く刃。だらりとバケモノの指から力が抜けたのが見えた。腱を斬った事で、握力を喪失したのだ。
そして甲高い破壊音が響く。
オレの剣が砕けた。二度の殴打を受け、力技でバケモノを切り付けたのだ。破損してしまうのは仕方ないともいえた。
だが、武器が無くなってしまった。
ああ、武器なら、もっといいものがあったじゃないか。
オレはバケモノが取り落とした巨大な鉈を掴むと、それを振るった。
「ガアアァァァァアアアァッ!」
咆哮と共に風を切り裂いてバケモノへと迫る刃。
プチプチと肩と背で何かが次々と切れていく音がする。
手首が嫌にぐにゃぐにゃする。
指の骨が妙にそっくり返っている。
ふくらはぎが引き攣り、上に引っ張られるような感覚を覚える。
それら一切合財を無視して、オレはバケモノの顔面へと鉈を叩きつけていた。
「ゴモッ!」
呻き声のような、悲鳴のような妙な鳴き声。
バケモノの頭部が妙に陥没して、目玉が飛び出している。ああ、上手く刃を立てれなくて、殴りつけてしまったのか。
だからか、まだ死んでない。
なら、もう一発だ。
先ほどよりもずっとたくさん、早く、何かが切れていく音がする。
手首はぶらぶらして固定できない。
指は殆どがまっすぐに伸びていなくて、妙な方向に曲がっている。
足はもう動かない。
けど、鉈は振り上げることが出来た。
それなら、相手の顔面に振り下ろすことくらい、できる。
「――――死ねよ」
そして、振り下ろされた刃はバケモノの頭蓋を砕き、その脳漿を周囲にばら撒いた。
溢れかえる濃密な血臭。目の前のバケモノは動かない。死んでいる。
「これで、でれると、いいな」
体がうまく、動かない。
身体を引き摺るようにして、歩き出す。
リンが待ってる。はやく、いかなきゃ。
身体が、全然いうことをきいてくれない。
「つかれた……でも、いかなきゃ……」
頭がくらくらする。それと同時に、頭の中で爆発が起きてるんじゃないかと思うくらいひどい頭痛がする。
全然体がうごかない。すこしだけ、休んでも大丈夫だろうか。
そう思った時にはもうオレはすぐ近くに木に倒れ掛かるようにして座り込んでいた。
その時になってようやく未だに手にあの巨大な鉈を持ったままだったことに気付き、すぐ近くに転がした。
「はは……こりゃ、ひどいや……」
手首がぐにゃぐにゃで、指が滅茶苦茶に曲がってるように見えたのは見間違いじゃなかった。
手首の骨は過負荷に耐えかねて骨折し、指の骨は力の入れ過ぎで折れてしまったのだろう。
肩と背とふくらはぎと、あっちこっちの筋肉が断裂して肉離れを起こし、まともに動けるようになるまで数か月のリハビリが必要だろうと思えるほどの有様。
しかも、外からは見えないけど肋骨が数本折れてる。肺もやられてる。他にもいくつかの臓器が傷ついてるだろう。
このままでは、死んでしまうかもしれない。
「いやだな、死ぬのは……しにたくない……」
それは、いやだ。オレは、死にたくないのに。
でも、こんな有様じゃあ、なあ。
「ああ、死にたくないな……」
やっぱり、無茶をし過ぎた。逃げようのない状況でも、もっと上手くやる方法があったんじゃないだろうか。
いや、今となってはもう、遅いか。
なんだか、リンが呼んでいる気がする。それとはもう一つ、別の声が聞こえる。だれだろうか。
けど、リンが来てくれたのなら、助かる確率はぐんと上がるはずだ。
そう思っていると、リンがこちらに走り寄ってくるのが見えた。
どうやら、さっきのは幻聴じゃなかったらしい。
「ニーナ! しっかりしろニーナ!」
「う、るせぇ……」
「生きてる! まだ生きてる! 治療を頼む!」
「はい! 任せてください! 生きてさえいれば大丈夫です!」
誰の声だろう。首を巡らすことすらも億劫で、気合いで首を動かしてそちらを見ると、十歳をようやく超えたくらいの女の子がいた。
ゆったりしたローブに、手に持っているワンドを見て、素直にオレはそいつが魔法使いなのだと思った。
それなら、この怪我もすぐに治るのかもしれない。
そう思うと、とたんに安心してオレの意識は薄れて行った。