第四話 職場の仲間
「田村さん!だいたい貴方と言う人は……」
小さな箱の前、扉越しに、そんな声が聞こえる。
(ああ、またか!)
私はそう思うと同時に、ドアを開けるタイミングを計算し始めていた。まるでそれが、習慣化された動作であるかのように……。
「田村さん!だいたい貴方と言う人は……」
って金切り声を上げてるのは、この小さな箱の主、お局様(帯刀清美)だ。年齢的に言えばお局様と言うよりは、大御所だとか、古株って方がぴったりくるのかも知れないけれど……。そんな彼女のフルネームを頭に思い浮かべる度に、時代劇風な凛々しい名前だと思ってしまう。
そして、金切り声を浴びせられて、小柄な体をさらに縮みあがらせているであろう、お局様?の標的は、アルバイトの田村真美子である。
どうやら帯刀さんの気を損ねた原因は、真美ちゃんがパティシエになりたい!って夢を持ってるってことを、どこかから聞きつけたことらしい。
(あの時の飲み会かしら?)
私は直ぐにぴんときた。職場の気の合う面々で飲んでいた時、真美ちゃんが「実は私パティシエになりたいの!」って目を輝かせながら話してたことを思い出す。
(だけど変ねぇ。真美ちゃんがパティシエになりたいってことは帯刀さんも知ってるはずだけど……)
私の脳裏を疑問が過ぎる。
「貴方がパ……パテ……シエ?になりたいってことまでは聞いてましたよ!でも知りませんでしたねぇ!まさか、うちのレストランの谷川さんに試食役をさせてたなんて!びっくりですよ!私に隠れてこそこそと……!」
(あちゃぁ!そこまで嗅ぎつけられてたの?それでご立腹なんだ)
私は真美ちゃんの身を案じた。
真美ちゃんは例の飲み会の時、パティシエの夢を話した経緯でうちのレストランの従業員の谷川弘と意気投合し、……、程なく交際するようになった。
「私も話ししたことないのよっ!谷川さんとは……。あっ貴方!アルバイトの分際で……!立場ってものを弁えたらどうなの?」
その後は耳を覆いたくなるようなつまらないお説教が扉越しにくぐもって聞こえ続けた。
「「帯刀さんにはどうせ洋菓子の味なんて分からないでしょう?」って、……、あなた!そんな風に私のこと馬鹿にしてるんでしょ?!」
「逆の立場で考えてみれば?私が貴方に隠し事をしてて、……、後でそれが分かったら、……、気分が悪いでしょ?」
等等、憶測と妄想のオンパレードだ。
凄い形相を真美ちゃんに向けている、そんな帯刀さんの姿が容易に想像できる。
(ちっ!お局ばばあめっ!あんたの私生活なんて興味ねえよっ!隠されたって痛くも痒くもないし!)
(いや、もうねぇ!むしろ隠しといて欲しいくらいさ!頼みもしないのにぺらぺらぺらぺら、しゃべりやがるから、こっちは親切で相槌うってやってんだよっ!)
(てめえが勝手にしゃべったからって、私や真美ちゃんもあんたと同じように何もかもをしゃべれってか?っざけんなっ!)
私は心の中で、精一杯の悪態をつきつつ、帯刀さんの定年退職までの年数をカウントダウンしてしまう。私の記憶が正しいのなら、彼女の退職までの残り年数は、両手の指でカウントダウンしても十分足りる年数だったと思う。
けれど悪態だとかカウントダウンは、あくまでも私の心の中での遠吠えだ。 決して口に出してはいけない。
こんなことを口に出して言い合いでもしようものなら、「電話交換室」と言う閉ざされた箱の中は阿鼻叫喚の修羅場になってしまうことは間違いないだろう。
それに、矛盾と言えばそうとも言えるのだけれど、帯刀さんの気持ちが何となく分かるような気もするのだ。
それはあくまでも私なりの理解だし、心の中で帯刀さんに悪態をついていながら「理解もできる」なんて言ってみても、全く信憑性があるとは言いがたいのだけれど……。
ようするに帯刀さんは、不器用なくらいに人に対する情が厚い人なのだ。
職場と言う所は一様に、ドライな空間だと思う。同じ部署に居る時にはあんなにも親しげにしていたかと思えば、別々の部署に配属されたとたんに他人行儀になるなんてことは、日常茶飯事なのだ。
ましてや、こんな小さな箱の中に籠もっていればなおのこと、箱の外の者からは見向きもされない。
自分が箱の外に向かって精一杯の情をかけたのにも関わらず、誰からも見向きもされない……、
帯刀さんは、そんな辛酸をなめてきたのだろう。
だからこそ、同じ箱に詰め込まれている私や真美ちゃんとの間にずれや不一致があると分かると、ただただ悲しいのだ。別に私や真美ちゃんのことが憎いってわけではなく、ただただ悲しいだけなのだ。
(ずっと一緒に居るんだから、何でも話してよ。私は貴方たちを家族みたいに思っているのに、みずくさいことしないでよ!)
ってな心情なのかも知れない。
「そこまで分かっているのなら、帯刀さんの考えに全てを合わせて振る舞うべきだろう」
って言われてしまいそうだけれど、そうも行かないのが女性が身を寄せ合う密室の現状なのだ。
私も、真美ちゃんも、そして……、帯刀さんだって、最大限の努力で、狭い室内での人間関係には神経質なまでに気を遣っているのだ。
それでも、些細なことで互いの考え方や性格の違いはどうしたって目に付いてしまう。
だから、今扉の向こうで繰り広げられている光景も、日頃のガス抜きの作業のようなものなのだ。
それに、どんな職場にだって台なり小なり悩みや問題はあるのだから、少し薄情なようだけれど、今日は真美ちゃんに生け贄になってもらう。
無論、帯刀さんのターゲットが私だった場合でも、真美ちゃんは決して助け船は出さない。
(吹きすさぶ風に耐えるように、帯刀さんのお説教は受け流す。反論はタブー)
ってのが、真美ちゃんと私の間での暗黙の了解みたいになってしまっていた。
特徴のある帯刀さんの足音が扉に近付く。
私はすっと階段のある通路に身を滑り込ませた。これも習慣化された動作パターンだ。
憤然と給湯室に向かう帯刀さんの後ろ姿を見送ってから、私は電話交換室の重たい扉をそろりと開いた。
電話交換室は十畳間くらいの広さだろうか。手前の四畳分くらいが、冷蔵庫だの小さな食器棚だのが配された休憩スペースだ。その奥に一段高くなって、私たちの職場(戦場)、電話交換機が整然と3台並んだスペースがある。
扉を開いて見渡せるのはこんな風の部屋なのだけれど、電話交換機が配された場所の左手には小さな扉があって、その奥は電話線だとかModemだとかがごちゃごちゃと詰め込まれた機械室になっている。電話線や機会を整備する業者さんが立ち入るだけの部屋だから、直接私たちには関係のない部屋ではあるのだけれど、電話交換の心臓部だから、重要な場所には違いない。
「真美ちゃーん、おっはよう!」
私は部屋の奥に向かって、努めて明るく声をかける。
「ああ、美紀ちゃん、おはよう!「
そう応じながら真美ちゃんはくりくりっとした目をこちらに向けた。
少しウエーブのかかった長い髪、優しげな瞳、ふっくらとした唇、耳朶に揺れるハート形のピアス、そのどれもこれもが真美ちゃんの柔和な人柄を作り出しているパーツのように思える。
「今は何考えてた?」
私は、「朝から大変だったね!」って労いの言葉を口にする代わりに、彼女にそう訊いてみる。
「うーん、新作のケーキに合うのはどんなフルーツかなあって……。クリームの泡立て方とかね……。そんなことかなあ」
しれっとした顔で、そう応じてくれる真美ちゃんが私は好きだ。この娘も彼女なりの距離感で、私や帯刀さんとの間合いを計って、社会人としてここに居るのだ。私より10年近く年下だけれど、対人関係的な洞察力は成熟しているのだろうと思う。
「そっかぁ!新作できたら……、真っ先に帯刀さんに食べさせてあげなよ」
私はブレスト(電話交換機用のヘッドセットマイク)を頭に着けながら、そう返してやる。
「うーん、そうねぇ……、「渡辺さんが、帯刀さんには洋菓子の味は分からないから止めときなよ!って言ってましたけど、そんなことないですよね?」って言いながら渡したら……、おもしろいかも?」
「もう!積極的にもめ事作って、おもしろいわけ?」
ちょっぴり意地悪を言ってやったつもりが、きっちり言い返されてしまった。
真美ちゃんの会話の切り返しはとても素早くて、元来ゆっくりした口調でしゃべる私も、彼女と話しをしていると自分が漫才師にでもなってしまったのかと思うくらいに、楽しげに、テンポ良く、話してしまっている。
そんな風に真美ちゃんのペースになんとなく巻き込まれてしまう自分自身をちょっぴり心地良く受け入れていたりする。
(はたして、頭が切れることだとか、弁舌が立つことは、お菓子作りに必要なんだろうか?真美ちゃんにはもっと別の適職があるのではないか?弁舌の切れだけ取ってみれば弁護士なんて適職かも?) ふと、そんなことを思ってしまう。
程なく帯刀さんが給湯室から戻って来る足音が聞こえる。
それまで悪い冗談を飛ばし合いながらころころ笑ってた私と真美ちゃんの間にぴりりと引き締まった空気が漂った。
その場の空気を変えられるのは、帯刀さんのなせる技なのだろう。
彼女はこと仕事となると、自分にも、そして真美ちゃんや私に対しても厳しい人なのだ。
もしも彼女が、自分に甘くて他人に厳しいような人だったのなら、私や真美ちゃんは帯刀さんを信頼しなかっただろう。
仕事に関して自分にも他人にも公平に厳しい態度を貫ける、そんな筋の通った彼女だからこそ私も長年一緒に仕事ができたのだと思う。
こうして、今日1日が始まる。