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まだ原乃街は来ていなかった。
俺は、教室の空気がいつもとどこか違うなと思いつつ、自分の席についた。ホームルームはまだ始まっていない。
この静けさは何だろう。
妙だなあ。いつもならホームルームの担任の話の中盤でようやくお喋りが止まるのが、うちのクラスのはずだ。毎朝の鳥の囀りを気に留めないように、教室のお喋りはすでに空気のようになっていた。だから気が付くのが遅れたのである。
その時、教室のどこからともなく女子の啜り泣きがした。本能的な寒気に俺の肌が粟立った。
ホームルームが始まり、担任が俺達に簡潔な報告をした。
原乃街志穂子は死んだと。
授業が終わってのろのろ歩いていたら、俺は校庭に黒服の女を見付けた。地ならし用のコンクリートのローラーに寒そうに腰かけているのは、アイだった。アイが居たのは野球のグラウンドのそばだった。一瞬、原乃街に見違えた。
よく冷えた夕方だ。冷たい霧が降りていた。梅雨の先触れの雲が、まわりの山の堰を越える時季になった。
アイは事務手続が終わってからずっと俺を待っていたらしい。体が冷えたようで、黒いジャケットを着込んではいたが、朝よりも顔は青冷めていた。俺は、いつもよりも弱々しい体色になっているアイに愛らしさを感じた。
アイは、表情が無いところも、淡々とおかしな発言を並べるところも、いつもと変わらなかった。ただ、何を喋っていたのか俺は覚えていない。
アイは途中で「腹がすいた」と言い、駅前のエサみたいな食事を食わせるうどん屋で一緒にうどんを食べた。食欲は無かったが流れで食べておくことにし、ゴムと粘土の中間みたいなうどんを胃に収めた。
アイは先に食べ終わり、お盆を戻すために立った。一本ごとに神経系統が通っていそうな黒髪が揺れた。俺は美しいものが動いていることに美しさを感じた。そして、動いている美しいものがぱたりと動きを止める未来があるのだと思うと、急激な吐き気を催した。うどんが戻って来るのを喉の手前でこらえた。
俺は原乃街の葬式に出た。
クラスのやつらもたくさん居た。
なぜかアイも俺について来た。アイは黒服だったので着替える必要もなかった。
告別式があり、葬儀があり、出棺もあった。いや、葬儀のあとが告別式だったか?
きてれつな光景が式の会場では見られた。前回の相続がどうとかいう知らない話題で喧嘩する大人達が居た。逆に、隅の方でにこやかに立ち話をしている女性たちも居た。泣き顔を見られたくないのか、黒いベールがついた帽子を鼻まで被っている婦人も居た。
うちのクラスでも、絶対に泣きそうだと思った奴がカラッとしていたかと思えば、いつも無口でふてぶてしい奴が号泣していた。クラスで「鉄仮面」とアダ名されている無愛想な女が涙を流していたのは意外だった。葬式で俺の記憶に残っている少ない場面の一つだ。
原乃街の棺は、式場の一段高い所に安置されていた。俺達の汚れた感情から養分を吸い上げ、花を咲かせたような、原乃街の白い顔が寝ていた。穏やかだった。
式が終わり、棺は運ばれて行った。
たまたま近くに居たからか、アイは棺を持ち上げるのを手伝わされていた。
いろいろの式がめまぐるしく行われたんだ。二~三日。それとももっとかな。その何日間もが、「葬式」という一日であったような気がした。
俺とアイは何日ぶりかで開放され、二人で歩いていた。
式場のにぎやかさ、というか、重苦しい気配の群れは、もう周りには無かった。さっぱりとした外の空気は、日常が明日から始まることを感じさせた。
あす学校に行けば普通に授業や部活があるのだろう。それは、原乃街が居なくなったことを過去の既成事実へと繰り込むことであった。そして、過去を忘れて未来の活動へと踏み出すことであった。それを考えると、俺はいたたまれなかった。原乃街に生きていてほしいと、俺は今も思っているのだった。
「知ってるか? 俺は原乃街に告白していた」
「ん?」
俺はぶっきらぼうに言った。
アイはふくろうのように丸い目で俺を見た。
「返事を待ってるところだったんだ。そんな時に死ななくてもいいよな」
平静を装ってはいたが、俺は吐き出したかったのだろう。その上、「そうだね」と慰めてもらえたら重苦しさが薄皮一枚剥がれると期待したのだろう。別に、木のうろに叫んでも良かったのだ。しかし、アイは人間である分、応えてくれる可能性があった。いたわりの言葉で応えてもらいたかった。
「君もあの子に惚れていたのかい。けだし無理もないね。あの子は美しい。きわめて美しい」
アイは原乃街の面影を確認するように何度も頷いた。
「だが、もう居ないよ。ゾンビのように生き返らない限りはね」
アイは俺をじっと見た。静かすぎる無表情が全面的な説得力を感じさせた。アイは、俺達の年代がよくやる、世界全般へのアンチ気取りを演じているわけじゃなかった。そうだったら俺は苛立っていただろう。アイは淡々と伝えているのだ。それも、さほど興味を引かれていない事実をだ。俺は薄気味悪くなった。
そして、気味悪さよりも不思議な感じに強く囚われた。
「なぜ立ち止まっているんだい。さあ、早く帰ろう。家で夕食を摂ろう」
「ん……。あ、ああ」
俺はアイの背を追い掛けた。
その時、俺は抵抗しがたい引力のようなものに引かれた。
驚いたことに、俺は後ろからアイを抱いた。
理由は分からない。ただ、俺は今の行動に違和感は感じていなかった。俺の腕はすでにアイを閉じ込めていた。
俺は自分の腕が震えているのを感じた。アイの体は柔らかかった。金属の棒のように冷たかった。離した方がいい気はしたが、それでも俺は縋り付いていた。
「ん、どうした、アイは原乃街君ではないぞ」
黒い髪。真っ白い二の腕。
アイがどういう表情をしているかは分かっていた。いまさら罪悪感がこみ上げた。体の力が抜けた。
「すまん、悪かった」
俺は情けない声で呟いた。
「あやまらなくてもいい」
アイは振り返った。
無表情ではなかった。
瞳が潤んでいた。顔は上気していた。三日月のように開いた口が喜びを表していた。俺は別の種類の戦慄に襲われ、ゾクリときた。
「あやまられたりすると、気持ち良くて仕方ないんだ。どうしよう?」
アイは俺に抱き付いてきた。
そのまま密着し、じっとしていた。
アイの吐息は俺の首の付け根を何度も吹いた。
俺は、この前もアイが唐突に変化したことを思い出した。同時に、記憶の底で昔のアイとの出来事がざわざわとうごめいているのを感じた。何か重要なことが思い出せそうで……。思い出せなかった。
「まず、帰ろうか?」
アイは無表情に戻った。青白い指先が俺の顔から離れた。
家に着いた。俺はアイの部屋に行った。ベッドに腰掛けていたアイは、無表情で俺を見た。俺は自分が醜いものに思えた。アイの顔は俺の気分を写している鏡なのかもしれなかった。俺は吐き気とも高揚感ともつかない気分を覚えた。血圧が上がっていたのは確かだろう。
俺がアイの部屋に来たのは、自分の部屋に一人で寝るのが嫌だったという、それだけの理由なのかもしれなかった。俺はアイの隣に寝た。冷たくて柔らかいアイをいじり回してみた。
アイは夜空のような澄んだ遠い目で俺を見た。俺はアイにくっつくことでその目を避けた。
後悔するのは分かっていた。
俺は自分が虫になったような気がした。仲間の死骸を見付けたのだが、どうしたらいいか分からないので食うことにした虫のようだった。俺は静かにアイを襲っていた。
アイは俺に耳打ちした。
「そう。そうだよ。君の罪悪感をアイに吸わせたまえ。とてもいいよ」
ゾッとするほど抑揚のない声だった。
まるで、機械だ。
アイは言葉を続けた。
「君に言っておくことがある。原乃街君のことだ。彼女は死んだのではない」
唐突な話に驚く。
「アイが殺したんだよ」




