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 俺は急いでアイを二階に上げた。親が出掛けていることを感謝せざるを得ない。

 隣の姉の部屋にアイを入れた。姉は大学を出てから県外に就職したので、盆・暮れしか部屋には戻って来ない。

「なぜだ」

「これがあるからだ」

 アイは「結婚同意書」を掲げる。

「二人は結婚している。同棲するのは自然だと思わないかね」

 平然と言うアイに対し、俺は青冷めている。さっきのニヤニヤ顔はどこへ行った。当事者じゃなかったら笑ってやりたい。

「だけど、そんな同意書はガキの頃の話で」

「君は、好きではないのにアイと結婚したのか」

 淡々と言われるのは、凄まれるよりも迫力がある気がする。というか、まるで上司みたいな喋り方をしますね。十年の時を経てアイ>俺という立場が構築されたようです。昔はもっと対等だった気がしなくもない。

「結婚と言っても、それは法的拘束力のあるものではなくだな」

 いや、話がずれているぞ。俺が言いたいのは、アイ、お前の申し出自体が荒唐無稽ということであり……。

「アイは同棲したい。君は同棲したくないのか」

 頼むから同棲同棲言わないで下さい。いちいちびびるから。アイに詰め寄られ、俺は黙ってしまう。湖のように澄んだ無表情は神秘的であり、今にも生の地肌のにおいが鼻を刺激しそうだ。正座していても床に届くほどのツインテールは、毒蜘蛛の足を伸ばしたような癖毛なのだが、それが妖しげな魅力をまわりに放っている。息が詰まり、酸素が足りない。

「同棲に抵抗があるのかい」

 アイは立ち上がり、くるりと回りながら言った。

「それなら、少し離れた同棲でもいい。この部屋は普段誰も使っていない感じがする」

「いや、ここは姉貴の部屋で」

 と反問した俺だが、何の仕事? 勤務地は? ならば大丈夫だね? という三段攻撃を受けあえなく沈んでしまった。無表情で問い詰められるのは慣れていない。嘘をつくなと言われているような気がするのだ。観念したように俺は言った。

「よく分かったな。姉貴がこの部屋使ってないって」

「うん。アイと同じ感じがしたからな」

「?」

 こうして、アイは壁一枚へだてて俺の部屋の隣に住むことに……なってしまうのか?

「心配しないでくれ。食事や風呂や洗濯は余所でやる」

 あー待って。まだ俺の中ではOKしてないんだが。親にバレないようにするのも大変なんだぞ。部屋で静かにしてたとしても、突然そうじに来たらどうする。いつ上がってくるか分からない。

 そういえば、俺とアイのことについて、中元家と茨島家では親の態度が違うのを思い出した。俺は女の子と遊んでいるのが子供心に恥ずかしく、親に隠してアイと遊んでいた。一方アイはオープンにしていたので、俺は向こうのご両親からは可愛がられたものだ。

「そうだ、お前、ご両親の許可は貰って来たのか」

「もちろんだよ」

 さもありなん。あのオープンな親なら。

「大丈夫、君のご両親には見付からないよ。アイは人間の気配には敏感なんだ」

 アイは黒いニーソックスを脱ぎ、床の上で畳む。俺は、人間ではない理解不能な生物に侵略されたような思いを強くする。再会したと思ったら、俺の想像を超えた奴に成長してしまっていた。ただ、外見は非常に美人である。そこが問題だ。俺は今、原乃街の返事を待っている。もし原乃街が俺の彼女になってしまう奇跡が起きた場合、学校では原乃街、家ではアイと、これは両手に花というのではないか……? そこまで妄想し、俺は自分がどうしようもなく健全な男子高校生である悲哀を感じ取った。

 はいはい、俺は可愛い子が隣の部屋に住むのは大賛成なのな。クズだなぁ。もういいや。なるようにならせよう。

 

 

 心が決まると、俺は意外と乗り気になってきた。

 親が出ているうちに準備をしておこう。さしあたり、今晩アイが泊まるという運命を俺は受け入れたのだから。案外、二~三日もしたら飽きて帰るかもしれない。

 俺は、掃除をしたり物を運び入れたりしながら、お客様然とベッドに腰掛けているアイの話を聞いている。アイは極めて普通の事情を語っていた。あの昔の日、茨島家はお父さんの仕事の都合でA市へと越したこと。今までの十年間、ここK町にある茨島家の一戸建ては物置状態だったこと。再びお父さんが町に戻ることになり、アイは以前の家に戻って来たこと。ふうんと言いながら、俺は床を拭く。

「それから、君に報告しておく。アイは悪魔ロボットになったよ」

「は?」

 俺は手を止めた。

「昔、アイは言っていなかったかい? 神様になるとか、なりたいとか」

 自分が言ったことを俺が覚えているのは当然、という物言いである。

「ん、そういや言っていたな。お前が居なくなる直前ぐらいだったか?」

「うん。そう。そのことだ。この世には神様になれる人間というのが居てね、アイもそれに選ばれかけたんだが、だめだった。アイは神様にはなれなかった。それでアイは悪魔になった。ただの悪魔ではないんだ。悪魔ロボットだ」

「ふむ、なるほど」

 俺は立ち上がり、雑巾を握った手で腰を叩く。

 って、例のごとく淡々と言うから相槌を打ってしまったが、今のお前の日本語が何を意味していたのか全く分からないのだが。

「いい。理解されないのは当然かついつものことだ。それがいいんだ」

 俺の胴体のあたりを見詰め、アイは呟いた。俺は色々と訊き返したかったが、また意味不明な答えを返されるのを恐れ黙っていた。それに、何もかも納得しているような顔で落ち着いているアイを見ると、質問する意欲が無くなってしまう。俺は愚痴っぽく独白した。

「何だよ、悪魔ロボットって」 

「悪魔ロボットだよ。それ以外の何物でもない」

「まあ、悪魔ってのは分かるがな。野球の応援しかり、学校における不良しかり、アンチってのは相当数存在するものだからな。とくに俺達はアンチを自称したくなる年頃ではある」

「――」

「あと、ロボットってのは、お前のその無機的な性格のことか?」

「無機的とは、どういう意味かね」

「う、あー、何だろうな、そのー、普通の人間とは違うって感じかね」

「アイの性格には興味はないけれど、アイはロボットだよ」

 アイはすっくと立ち上がり、ツインテールをほどいた。ばさっ。蜘蛛の足のように折れ曲がった長髪が垂れる。尻のあたりにまで達している。

 髪が動いた。

 部屋に風が吹いたわけではない。アイの髪の一部がふわりと持ち上がり、肩を回り込んで俺との間に垂れた。そう思ったのもつかの間、髪は波のように俺の足元に広がった。

「うおっ」

 思わず避けてしまった。きゅるるるっと髪の毛は収斂し、つやつやした質感と、明瞭なる一つの形を持った。

 プラスチックのような黒い大鎌。

 ぴょこんと立った鎌は俺の目の前で鎌首を揺らしていた。鎌の根元はアイの髪の毛と連結している。連結部が細いので、ふとプラモの部品を型から取るようにパチリと切ってしまいたくなる。

「髪から鎌が出たからロボットだという証明になるわけではない。しかし、ならないとも言い切れない。受け取り方しだい」

「これ、触ってもいいのか?」

「どうぞ。斬れないようコーティングしてある」

 鎌首に触ってみた。ちゃんと触れる。触感はプラスチックにそっくりである。

 いや、最初は映像だと思ったんだがな。最近、二人で同じゲーム機とソフトを使うことで3Dの世界を共有できるゲームが流行っているから、それかと思ったんだ。しかし、本物のようだな。

 しゅるん。アイは鎌を引っ込めた。髪は元通りになった。鎌が消えたこともあり、俺はもう考えないことにした。本物の質感が何だ、幻覚を一段進めただけではないか。それに、切れない鎌など考慮するには当たらない。こっちは今、原乃街の返答の方が気掛かりなのだ。原乃街はこの場に居るわけではないのに、俺の血圧はずーっと上がりっぱなしだ。アイが来てくれて、本当は助かっているくらいである。客とお喋りしていれば気は紛れるし、血圧も下がってくれるのではないかと。俺は床そうじを再開した。

「訊かないのかい?」

「ん、何をだよ」

「鎌がどうして出て来たとか」

「訊かねぇよ、そんなこと」

「ほんとに大雑把なんだな。君は」

 アイはベッドにてツインテールを作り直している。俺は床を拭き終えたので、一階から新品のシーツと食料品を運んで来た。アイは前髪を直し、元通りの髪形を完成させていた。

「ちょっとどけろ。このシーツ、たぶん年末から洗ってないから。換えるぞ」

 アイを立ち上がらせ、シーツを交換する。……すげぇホコリだ。布団も交換かな。

 ふと気が付くと、アイはスナック菓子やカップラーメンの入った袋を眺めている。

「食べたいのか?」

「ん、いや」

 今度は俺を見る。

「一つ訊ねたいが、君はさっきから何をやっているのかね?」

「何って……。お前の泊まる部屋の掃除だよ。食べ物も用意しておかないとな」

 俺はしばらく作業を続けた。

 親が戻る前にどうにか部屋は準備できた。

「よし、じゃあ俺は行くから。あとは休んで……」

 振り向いたら、アイはさっきと同じ顔と姿勢のまま立っていた。バッテリーが切れたロボットごっこか?

「――どうして、準備したの?」

「お前が泊まるって言うからだろう」

「じゃあ、アイのために準備したの?」

「ああ、それと……」

 なにげなく答え、別の注意事項を言おうとした俺は……。

 走って来たアイに抱き付かれた。

 勢いが良すぎて俺は背中から倒れてしまったが、それよりもアイの体が柔らかくて気持ち良かった。

「お、おい、ちょっと、」

 隙間0で絡み付いてくる肉の圧力。俺は頭が真っ白に……てか、本当に圧力が強すぎるんだが。首とか腕の骨が痛いんだが。俺がタップしかけた時、アイは顔を上げた。

「……ふふん」

 顔を紅潮させ、ニコリと微笑んだ。

「フリーズ」

「え?」

 アイは意味不明な語を呟き、立ち上がった。俺から距離を置き、表情は再び能面に戻っていた。

 ひょっとして、部屋を掃除されたことが嬉しかったのだろうか。

 俺は、速やかに自分の部屋へ移った。何か知らんが、急に胸の中で興奮が膨らみ始めていた。隣の部屋に居続けたら自分がどうにかなりそうな気がしたのだ。俺は自分のベッド上で丸まり呟いた。これは困った。血圧を下げてくれる客だと思ったらそうでもないのか。

 その晩、俺は悶々として眠れなかった。横になっていても、壁一枚の向こうに居るアイを変に意識した。池から上げられた魚のように居心地が悪いよ。寝慣れているベッドなんだけどな。

 しょうがないので、近くのコンビニまで立ち読みと茶を買いに出掛けた。近くと言っても五百メートルはある。田舎町だからな。

 コンビニに着くとコンドームや生理用品の置かれている棚に目が行った。今日はどうも変だ。茶を買いに来たはずなのにな。困ってしまった。

 買い物を済ませ家に戻ったら一時間ぐらい潰れていたんで、それは良かったけどな。

 二階に上がり、俺は自分の部屋ではなく、隣のドアを開けたい衝動を感じた。

 すると、ドアが三センチほど開いているのが見えた。さっきアイの部屋を出た時、閉めなかったのだろうか。アイは扉が開いていても気にしない性格に思える。

 俺は隙間に顔を近付けた。

 ベッドが見えた。

 誰も寝ていなかった。

 フローリングにもアイの姿は無かった。

 俺は不審に思い、静かにドアを開けた。体を滑り込ませ、中の様子を見る。やはりアイは居ない。

 おや、と俺は思った。窓が少し開いていたのだ。窓の外は、広めのテラスになっており……。

 その時、テラスでドサッという物音がした。まずい。俺は咄嗟に身を引き、ドアを元の隙間まで狭めた。

 俺は息を凝らして覗いている。テラスから黒い影が静かに近付いて来る。影は窓を開け、部屋に戻って来た。アイだった。髪は下ろしているが、寝間着には着替えていなかった。アイは窓ガラスにもたれ、ふう、と溜め息をついた。アイも眠れないのだろう。寝床が変わったのだから無理もないが。

 俺は、外から降る夜空を背景に冷ややかに佇む少女を見たって、詩情を感じるような繊細さは無い。今の俺は、焼け付く煩悩を制御しかねている陳腐な高校生に過ぎなかった。溜め息をついているアイは、何となく寂しげに見えた。黒すぎる衣装と白すぎる肌が反発しているのを、シースルーブラウスの灰色が繋ぎ止めていた。俺は呑気に覗いていることに空しさを覚えた。何となく済まない気分になった。俺は自室に引き返し、コンビニの袋からお茶のボトルを探し、飲んだ。すぐ眠れた。

 

   *

 

 寝ている間、ひどい悪夢にうなされていた気がする。重いものにのしかかられ、身動きできなくなるような……。

 目を開けた時、俺の下腹部にアイが座っていた。悪夢の原因が分かった。しかし、それなりに重いはずなのに、アイの尻の奇跡的な柔らかさが重さを感じさせない。そして、大きく膨らんだ俺の煩悩を鋭く刺激してくる。

「お、おいっ。どけろよ」

「ん、おはよう」

 あいかわらず、平社員の一人を見る重役のような目である。

 あれ――?

 その時、俺の脳裏に鈍い衝撃が走った。乗られている重みとは別の苦痛だった。悪い薬がじわじわ広がるような波動が頭を駆け巡った。これは、何かを思い出しような前兆であった。なぜなら、この感覚は二度目であり、最初の時も何かを思い出しそうだったからだ。大事なものか些細なものかは分からなかったが、とにかく何かが記憶の蓋を持ち上げようとしていた。最初の感覚は昨日。アイに抱き付かれた時だった。

 だからといって、もう一度同じことをしてくれと今頼むのは色々と気がひける。とりあえず保留しよう。どうでもいいことにも思えるしな。

「学校に行く時間ではないか?」

 アイは器械体操的な動作で滑らかに立ち上がった。

「ああ、そうだな。お前は、学校は?」

「アイも行くぞ。この町に転入して来たのだから、転校生として学校に行くのが王道だと聞いた。一緒に行くために君を起こしたんだ」

 微妙にずれている気がしなくもない。王道とかそういう問題なのか? 玄関で落ち合う約束をして、俺はいつもより意識的に服装と髪形を整えた。

 玄関に出て行ったら、アイが例の黒い衣装のままなのには唖然としたね。今から着替え直す時間は無いぞ。

「お前、それでいいのか?」

「うん。心配いらんよ。寒暖の差が激しい時期だからね。羽織るものは用意した」

 アイは黒いジャケットを両手でくるくると畳んだ。

「じゃなくてさ、学校に行くんだから、前の学校の制服とか無いのか」

「前の学校? 制服?」

 アイは首をかしげる。

「あー、問題ない。いいんだ。今日はそうだな、手続きをしに行くだけだからね」

 何というか、この場で考えた答えにも聞こえるんだが。

「まあいいや。じゃあ学校までは一緒に行くから。ちゃんと手続きはしてこいよな」

「おけ」

 徒歩で学校に出発する。けさは霧がたちこめていた。山に囲まれているK町ではよくある。

 どうも心配である。アイが転入したとして、うまいことクラスに溶け込めるだろうか。アイが結構な割合で想像を超える言動をすることを俺は体験した。俺が通う第五高校は田舎の学校であり、おおらかな生徒がとても多いので、原乃街のように繊細で気使いできる人間が引き立つ部分もあるが、――いやすまん話が脱線した。ともあれ第五高校のおおらかさがアイの間抜けさを存分に受容してくれることを願いたい。

 いま俺は勢いで言い切ってしまったが、はたと思考を巻き戻してみる。

 アイは、本当に「間抜け」なだけなのだろうか? 引っ掛かるところがあった。アイは単なる間抜けではない気がする。間抜けではあるけれど、本気でやっている気配がある。待てよ、それは間抜けどころか白痴の領域ではないか? いやいやいや、そうではない。つまり……。間抜けな言動の裏には真面目な真実が隠れていて、俺はそこに至るルートを見つけていないのではないかという感覚に襲われるのだ。

 違和感があった。

 昔のアイは間抜けじゃなかった気がする。むしろ、ものすごく真面目だった。自分のミスで魚を一匹取り逃がしたら、日が暮れても一匹捕まえるまで帰らないような奴だったはずだ。大きな違和感による、昔と今の断絶。二つの空間はアイという名前一つによって無理矢理に貼り付けられている。

 しばらく歩いた。俺達は、例の小川を通り掛かった。

 アイは目くばせもせず橋を渡った。

 俺は、アイを学校の事務室の前まで連れて行ってやった。始業の鐘が鳴ったので、それ以上は付き合えない。アイの転入手続きで俺が手伝えることも無いだろう。そこそこに教室へ急いだ。

 階段を登っている時、俺は開放感を感じていた。アイと一緒の間、心が休まらなかったとも言えるが、原乃街の居る教室へ向かうという爽快感が大半を占めていた。昨日の告白、俺はできるだけのことをした。悔いは無い。いい結果が出るよう願うのみである。

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