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「あたしは神になるのよ」
たしかそれが最後の言葉だ。あの子は手を振って帰って行った。本当に天に昇って神様にでもなってしまいそうな笑顔だった。
小さい頃だから、俺は神様という職業には簡単に就けるものだと思っていた。別に、なりたいとは思わなかったが。あの子が「神様になる」と言ったのも、お気軽な動機だったのだろう。幼児というのは壮大な望みをさりげなく抱くものである。
あの子の望みが叶ったのかどうかは分からない。あの子と会ったのは、その日が最後だった。夏休みのある日、例によって俺達は行くなと言われている町外れの小川で魚を捕って遊んでいた。すると彼女は「今日は用事があるんだ」と言って早目に切り上げた。別れ際、例のセリフを口にしたのである。その日の夕方、彼女は父親の仕事の関係で県外へ越して行ったという。何日か経ってから俺の親に聞かされた話だ。夏休みは長かったので、俺は一人で小川に通うことになった。そのとき川で転んで三針縫った跡が俺の膝には残っている。
ほかに結婚式ごっこなどもやった。あの子は俺を嫌いじゃなかったと思うし、俺もあの子を嫌ってはいなかった。秘密基地の一つになっていた山のほら穴を教会に見立て、結婚式ごっこをした。その後、彼女の部屋で「結婚同意書」なるものを作成した。彼女は父親の書斎の法律書を読みかじっていたらしく、「二人は結婚に同意します」という文の下に俺達の名前が書かれてあり、俺達は書道で使う墨汁で拇印を押した。
大雑把な俺が持つと失くすからというわけで、同意書は彼女が保管することに決めた。あの紙は引越し先に持って行ったのか、それとも既に存在していないのかもしれない。時間が経ちすぎて、俺はあの子の名前も忘れてしまっている。いや、元から幼児には複雑な名前だったのだ。「太一」という俺の簡単な名前とは違っていた。結婚同意書に彼女が名前を書いただけで、俺は驚嘆したほどにね。というか、俺は付き合いの最初からあの子を「アイ」と呼んでいた。だから「アイ」というあだ名だけが記憶に残っている。
あの子のことを思い出したのは、本当に久し振りだ。「結婚式をしよう」と言ってきたり、「神になるの」と言ってみたり、今思えば変な子だったなあ。どうしているかねえ。
小川にかかる石の橋の上にて、俺は昔の思い出を他人事のように振り返っていた。
十六歳にもなっちまえば、五歳の自分なんて他人も同然だ。今日は偶然、あの子と遊んでいた小川に来てしまい、ふと珍しい記憶が立ち上がってきた。
この小川もすっかり変わっていて驚いた。しっかりと三面護岸工事がされてしまい、橋だけが時代錯誤みたいに残っていた。小石を投げてみると、底のコンクリに「カン」と弾む音がする。
偶然ここに来てしまったのは、いつものルートをかなり膨らませて下校したせいだった。なぜ膨らませたかというと、要は暇なのであった。今の俺は、二~三日後まで何もやることがない状況なのである。いや、何も手につかないと言った方がいいのか?
俺はついさっき、原乃街志穂子に告白を済ませてきた。今は返事を待っている。
昔は町の小川で魚捕りをしていた俺だが、今は好きな女の子に告白するような一般的高校生に育ったようだ。
といっても、一般的高校生の俺が、一年生の中でも飛び抜けて可愛い原乃街に告白していいのかという身分的問題はある。美人なだけじゃなくて、本当にいい子だからね。だとしても、身分違いの恋はきっと良いもんだ。どうせ断られるのは九割方分かっているが、もしかしたらという一割の期待を原乃街は持たせてくれた。それだけでも感謝しないではいられないね。地元っ子の俺は、町の外からも生徒が通うようになる入試制度を大絶賛する。原乃街を五高に通わせてくれてありがとう。あげくの果てに俺のような虫がたかってしまって申し訳ない。ともかく、人生最良の二~三日を与えられた俺は、その奇跡を楽しませてもらうことにするさ。
というわけで、見てるかねえ、「アイ」ちゃん。まあきみも俺のことなんか完全に忘れていると思うけどね。きみと「結婚式」なんか挙げていた俺は、いちおう真っ当に成長しているようですよ。俺は、空を見上げながら、そんな夢想を流した。俺の中で「アイ」ちゃんは幽霊や神のような存在に昇華してしまったらしい。二度と会わない幼馴染みなんて、幽霊と同類である。
その時、薄いパステルカラーのワンピースを着た日焼けした女の子の姿が浮かんだ。ぎらりと光る黒髪……。見覚えのある笑顔……。だが、ハッキリとした像になるには俺の記憶が足りなかった。
家に帰っても告白の余韻が抜けなかった。交換したばかりの原乃街の電話番号とアドレスを眺めていたら三時間も経った。なんという廃人。このまま死んでもあまり悔いは残らない気がする。
その時、チャイムが鳴った。下に誰か来たようだ。無粋にも程があるな。俺は携帯電話を置き、渋々下りて行った。
「はーい」
玄関は階段を下りてすぐだ。リビングに回り込みインターホンを取るのは面倒臭い。どうせ勧誘や宅配便という記号的人間が来たのだろう。断ったりサインしたりという記号的対応をすればいい。そのまま出よう。
「誰ですか?」
呼ばいながらサンダルに足を入れる。
すると、
「バラシマダ」
ん。そんな宅配便の会社あったか。引っ掛かったが、俺は既にドアの鍵をカチリと開けていた。その瞬間、台風に吹かれたような速さでドアが全開となり、俺は危うく転ぶところであった。な、なんだ? 強盗か? ハッと見上げるとドアを開けた本人が立っており、そいつは女だった。
「あ、ん、えーっと……?」
「バラシマダ」
「……?」
白と黒とグレーの三色でできているような女だった。くせの強い黒髪を束ねてツインテールにし、黒のTシャツとスカートを着用、黒のシースルーのブラウスを着ている。網目のシースルー生地と素肌が重なっている所はグレーに見える。白い細腕がドアを開け放している。
見覚えのない少女だった。整った顔立ちと全く無表情なところが目を引いた。クールとすら言えないほど、表情には感情が無かった。黒く濡れている瞳の輝きが、白いシャッターのような瞼でぬめぬめと分断される。
間がもたないので言ってみる。
「えーっと、どちらさんですか? すいませんけど、家を間違っているんじゃ」
「間違えてはいないよ」
女は抑揚のない声で日本語を喋った。外国人ではない。
じゃあ、「バラシマダ」っていうのは何だ? 何かの呪文なのか?
女は完全にドアを押し開けた。目をつむり、服の中に手を差し入れた。白いおなかが覗いた。おなかの上には、四角形の形の白い物体があった。女はその物体を差し出すようにし、俺の前に広げた。
それは、折り畳まれた紙だった。俺は何が書かれているのか読んでみた。
結婚同意書
二人は結婚に同意します
中元太一
茨島藍莉
名前の下には小さい拇印が押されていた。
「お久し振りだね。中元太一」
少女は俺の名前を呼んだ。なぜ名を知っているのかという愚問は言うまい。一方俺は、幼馴染みの名前を書面を見ても読めずにいるのだった。
「アイリ」
測ったようなタイミングで少女は言った。
「バラシマアイリ。アイのことは、アイと呼んでくれ。昔のようにね」
俺は色々なことを思い出していた。堰を切って昔の光景が溢れてきた。俺の脳がこんなに鮮明に記憶を保存していたとは、俺が一番驚いてしまった。この少女の来訪がトリガーになり、芋づる式に記憶が引き出されたのだろう。さっきは不完全だった「アイ」ちゃんの姿が、メガネでも掛けたみたいにハッキリ見えてきた。姿がハッキリすると、思い出の中の声や仕草も生命感を取り戻した。夏の空、小川の水、緑の山、すべてが刺すような光を放ち始めた。そうだ。俺はあの子のことをアイって呼んでいたし、あの子も自分のことをアイと言っていた。今も同じなのだ。懐かしい心地がした。
「お前、ほんとに、アイなのか?」
「本当」
だが、久々に現れたアイは、昔の姿とはかけ離れていた。
ものすごく美人になった。
ただ、原乃街のように華やかな可愛さというタイプではない。ていねいに作り込まれた工芸品のような整った感じだ。真っ白な顔にはホクロ一つない。
俺は自然に顔がほころんだ。願わくば、今の顔が、幼馴染みとの再会を純粋に喜ぶ少年のものでありますよう。まあ、かなりスケベ心の混ざったニヤニヤを浮かべていることは想像に難くない。
しかし、俺のニヤニヤはすぐに凍り付いた。
「君と同棲したい」
というアイの申し出によって。




