第四八話 勇気がないのね
気が付くと、リリーは馴染みのある景色に囲まれ座っていた。温かい立ち並びの家々。風にそよぐ芝生。黄土色のあぜ道。日々を暮らしている村の風景だった。ただ一つの違いといえば、いつもは静かな教会の前がやたらと賑わっていることだった。リリーは膝を払いながら立ち上がる。
「また変な事になってるのかなあ? きっと幻かな……」
リリーはそう独り言を呟くものの、やはり目の前で起きている出来事には関心を抱かざるを得なかった。リリーは背伸びしたり人の隙間から奥を見通しながら、その人だかりの方へと近づいていく。近づくごとに、口笛や拍手、喝采の声が大きくなる。教会で大勢に祝われるような出来事といえば、リリーには一つしか思い浮かばなかった。
……結婚式? 誰の?
リリーは飛んだり跳ねたりを繰り返すが、自分の身長では大人達を乗り越えその先を眺めることなど出来なかった。リリーは意を決し、わずかに空いた隙間を縫って人だかりの最前列に躍り出た。そして教会の入口の方へ目を向ける。ほぼ同時に白いものが目に飛び込み、リリーは慌ててそれを受け止めた。花嫁が投げるブーケだった。目を上げ、その投げ手を見る。
「あれ。どこかで……」
そもそも、村の人々達で会って名がわからない人はいない。しかし、今ブーケを投げた花嫁には見覚えがなかった。だが完全にというわけではない。確かに目の前の女性は見たことがなかったが、毎日会っているような気もする顔でもあった。その笑顔は白百合のように慎ましいものだったが、それは照れているせいだとリリーにはわかった。その目はヒマワリのように光を映し、朗らかな人柄が透いて見えたからだ。女性と目が合った。
「小さなリリー。これがあなたの望みよね?」
突然話しかけられ、リリーは戸惑い目を泳がす。気付くと、周囲でやかましいくらいの喝采を送っていた人々がいなくなっていた。再び女性の方に目を向ければ、その女性はいつの間にか白いブラウスに若草色のスカート、リリーが好んで着ている普段着の姿になっていた。我を失いそうになり、唇をわなわな震わせ、リリーは声を絞り出すのが精一杯になってしまった。
「嘘……あなたは、私?」
女性は柔和に微笑み、教会の階段を一段一段降りてくる。
「そう。正確には、五年後あるべき存在。あなたが十六歳に望む私」
リリーは戸惑いのあまり、思わず後ずさりを始めてしまった。
「そんな。一体どういう事?」
リリーが怯えているのもお構いなしに近づき、女性はそよ風に乗せて静かに尋ねる。
「リリー。あなたの夢は何?」
リリーは立ち止まった。うつむき、視線の先で人差し指を突き合わせながら呟くように答える。
「大きくなったら……お嫁さんになること」
女性は首を振った。その目は困ったような表情をしている。もう一歩近づいて、女性は過去の自分の頭を撫で始めた。艶やかな、しかし旅で乱れてしまったその薄茶色の髪をくしけずるように。そして、彼女らしく子供っぽい声色で話し始めた。
「あらら? ちょっと大人になって、こずるくなったんじゃない? あなたは大切な部分を引っこ抜いて答えたわ。そんなんじゃだめよ。ちゃんと答えなきゃ。『大きくなったら、カ――」
「わあ! わああ! ダメ!」
リリーは耳まで真っ赤になり、大声を上げて女性の口を塞いだ。目の前の自分はいかにも不機嫌そうな表情をしている。そのうちに腕を掴まれ、簡単に引き剥がされてしまった。
「それじゃあだめなんだってば。きちんと自分の想いが伝えられないまんまだったら、ずっとカインとはお友達のまんまだよ? 所詮私はあなたの望み。読まなかったの? 願う者は海を眺めるだけ。眺めているだけじゃ、海を得ることは出来ないわ。溺れるかも知れないけど、思い切って飛び込まないと」
「思い切って……飛び込む?」
リリーは女性の瞳を見つめた。目の前の自分は小さくガッツポーズをしてみせ、笑顔を返した。
「そう。五年後、私がいるかどうかは今のあなたにかかってるのよ?」
リリーは昔の自分を思い出す。昔から一つ年上のカインのことは好きだった。初めは単に年の近いお兄ちゃんのような存在として。ままごとを覚えだしてからはカインと自分に両親の姿を投影していた。『お嫁さん』『お婿さん』が意味するところははっきり分からなかったが。そして今は、近付いているのは気恥ずかしい、遠ざかっていては空しい、何だかもどかしい距離感を感じていた。このままではいけないのは分かっていた。しかし、勇気がなかった。下手なくっつき方をして、拒絶されたらどうしよう。そんな思いが大きな一歩を邪魔していた。だが、もう迷わないことに決めた。
……眺めているだけじゃ得られない。思い切って飛び込む……
リリーは真っ直ぐ女性に笑顔を向けた。
「わかった。私、やってみる!」
女性は頷いた。
「うん。いい! それでこそ私。カインもこの空間にいるみたいだから、探してみなよ。今なら二人きりだからさ」
「ありがとう!」
リリーは未来の自分の脇を横切り、走り始めた。