第四十話 心を熱く
「なあ。おかしくないか?」
カインは鏡を指差した。その先には、鎧をまとった黒騎士が立っている。ロナンはうろたえ、自分の手袋を見つめる。それと同じくして、黒騎士が自分の黒い篭手を見つめた。ロナンは足を持ち上げて靴を見つめる。堂々とした風貌で、足を見つめる黒騎士は、どこか滑稽だった。リリーはくすりと笑いそうになったが、急に笑顔を吹き消した。
「ねえ、おかしくない?」
リリーの言う通りだった。合わせ鏡でもないのに、四人の姿がたくさん鏡の中に映り込み、まるで鏡の中で生活しているかのように動き回っている。心の中に影が差し、カインは身震いする。
「俺、こういうの苦手なのに……」
「あっ!」
シャープが鏡を震える手つきで指差した。鏡に映る虚像が、目の前で次々と消し炭のように黒くなっていき、墓場に現れるという、腐敗した怪物のような鈍重な動きを見せ始めた。
リリーが絹を裂くような悲鳴を上げる。三人が慌てて彼女の方に振り向くと、不自然に右手を前方に差し出したリリーが右足を突っ張って踏ん張り、倒れんばかりに仰け反っていた。しかし、その姿勢は何らかの引力で維持されている。三人はリリーのそばに駆け寄る。
「どうしたんだよ!」カインが尋ねた。
「助けて! 何かに引っ張られてるの!」
リリーの細い腕の中ほどが、何かに掴まれているように肌が白くなっていた。とっさにカインが鏡の方へ目をやると、リリーを黒い影が取り囲んでいる。自分の虚像にも影が重なりこんでいた。カインはリリーの腕の辺りで煙を払うように手をばたつかせるが、何にもぶつからない。カインは声を裏返らせた。
「どうして! どうしたらいいんだよ!」
悲鳴と共に、リリーの体が仰向けにされて宙に浮く。鏡を見ると、リリーは四体の影に持ち上げられてしまっているところだった。ロナンは目を見開いて鏡を見つめる。リリーが影に連れ去られようとしている横で、黒騎士が真っ直ぐロナンを見据えて立ち尽くしている。
――戦え。お前は私に見初められた。
ロナンの頭にささやくような声が響く。右手を持ち上げ、ロナンは戦士の手袋に嵌めこまれた黒い石を見つめる。黒騎士の視線を、そこから感じた。ロナンは一度深呼吸をすると、一気に息を詰めて運ばれていくリリーに迫った。
「リリーを放せぇッ!」
リリーのそばまで駆け寄ったロナンは、その拳を当てずっぽうに振り抜く。粘土をついたような固く重い感触を感じるとともに、リリーの体勢が崩れた。鏡の中では、腹部を大きく変形させた一体の影が地に倒れ、床に吸い込まれていくところだった。さらにロナンは拳をもう一度振り抜く。黒騎士が影の頭を吹き飛ばし、消滅させた。支えを完全に失ったリリーは、横ざまに投げ出された。ロナンは慌ててそれを受け止める。肩で浅く息をし、リリーは震える瞳でロナンを何とか見つめた。
「あ、ありがとう」
「ああ。鏡を見ながら何とか逃げてくれ」
ロナンがそう言ったのも束の間、今度はカイン達が黒い影に連れ去られようとする番だった。必死に抵抗するが、振り払うことの出来ない相手に抵抗できるわけもない。すぐにすくい上げられてしまった。ロナンは全速力で駆け出し、影に向かって蹴りを見舞った。鏡の中の影は腰から飴細工のように折れ曲がり、そのまま消え去る。影を素早く蹴り倒し、カインを解放すると、ロナンは逃げまわるリリーの方を指差した。
「何とか一箇所に固まってくれ。あんまり散らばると、俺も辛い」
「わかった。急ぐよ」
リリーの方へと一直線に駆けるカインを見送り、既に鏡のそばまで引きずられているシャープの方へと再び全力で駆け寄っていく。鏡に漆黒の穴が開き、シャープはそこへと放り込まれようとしていた。
「俺の友達に手を出すなぁ!」
ロナンの意志と一体化した黒騎士は、ロナンに槍を与えた。闇がロナンの手元に集まり、黒い槍を生み出す。雄叫びを上げ、ロナンは槍をシャープの横に突き出す。串刺しになった二体の影は、ロナンの目の前で霧散した。地面に放り出されたシャープは、息を荒らげながらロナンを見上げる。
「ありがとう。ロナン……」
「礼はいいよ。それよりも早くリリー達と合流するんだ」
言った瞬間、ロナンは頭の後ろを殴られた。鈍い痛みを感じるとともに、開いていた漆黒の穴にロナンは放りこまれる。リリーの甲高い悲鳴が部屋を満たした。
「嫌ああああッ!」
ロナンは、鏡の奥の世界へと投げ出された。