第三九話 夢に向かえ
暗闇の扉が閉まる。彫像のように動かないドラゴンの背中は、徐々に暗闇の中へと落ちていく。カインは黙ってそれを見送っていたが、やがて扉が大きな響きを上げながら閉じてしまうと、静かに背後に立っていた三人の方へ振り返った。
「ごめん。みんなにも願い事はあったかもしれないけど……勝手にあんな事を言っちゃって」
カインは真っ直ぐ頭を下げる。それを見た三人は、それぞれ目配せする。肩をすくめると、リリーはカインの頭を撫でた。カインはおもむろに頭を持ち上げ、リリーの笑顔を窺った。
「いいよ。願い事がどうこう言われて、一瞬私も考えたんだけど、別に何もないもん。他人に恋人をつくってもらっても、お金を貰っても、ましてや私を美人にしてもらったって、そんなのつまらないと思う。ぜぇんぶ、自分で掴み取るから意味のあるものになるんじゃない? かな?」
ロナンもリリーの方を向いて頷いた。シャープも息を深く吐き出し、肩をすとんと落とす。
「ああ。自分で手に入れられないものを手に入れたって、持て余すだけさ」
カインは胸の奥が震えるのを感じながら、笑みを浮かべて頷いた。
「ああ。本当にそう。本当にそうさ……」
リリーは母親のような眼差しをして、しきりに鼻をすするカインの事を眺めていたが、ほっと息をついた瞬間に顔が幼いものに戻った。
「よぉし。そうと決まったんなら、さっさと次の部屋に行こうよ! ドラゴンだって待ってるんだから!」
シャープは次の部屋へと通じる扉を見つめた。やけにつややかな、漆の発色豊かな黒い壁だ。目をさらにその上へと向ける。
我を見失うな
祖父の杖を旅嚢にしまっていた縄で背中に固定しながら、カインは首を傾げた。意味深な言葉に、四人は緊張する。この先にはドラゴンより恐ろしいものが待っているかもしれないと思うと、怖くないとは言えなかった。だが、もう進むと決めたのだ。ドラゴンは狡猾だったが、口先の嘘はつかなかった。今さら、自分達が言ったことを嘘には出来ない。
「よし。開けるぞ……」
カインは扉を押し開けた。そこに広がる光景に、四人はただただ目を丸くする。
「なんだよこれ。鏡?」
カイン達はゆっくりと真昼のように明るい部屋の中へと足を踏み入れた。高い足音が部屋中を満たす。扉がひとりでに閉まる音を聞きながら、四人はそれぞれ周囲を見回した。前も、横も、下も。全てが鏡なのだ。どこを見ようが、いつでも自分がこちらを向いている。その後ろでは自分が背中を向けている。さらに自分がその奥からこちらを向いている。リリーは酔ったような気分になってきた。下を見れば、自分は自分の靴裏に立っており、周りは何も存在しない。底へ向かって逆立ちをしたカインと正立したカインが縦に連なっている光景を見ていると、奈落へと落ち込んでしまう気がした。
「気持ち悪い。早くこの部屋を抜けだそうよ。何だか気味が悪い」
シャープは頷きがちに、自分の目の前に手を伸ばす。当然、目の前の虚像と手が触れ合う。カインは目の前の鏡を叩いた。自分がこちらの拳をたたき返してくる。それを見ていたシャープは溜め息をついた。
「多分、ここは迷路なんだろうけど、霧の迷路よりも大変だ。まず、一目じゃどこが壁かどうかさえも分からないんだよ。さすがにぶつかっちゃうことはないだろうけど……」
大きな音がした。その方を振り向けば、ロナンがその鼻を押さえていた。シャープがこっそりと呟く。
「居た」
「なあシャープ。壁は俺達がどれだけ近づいたかでわかるんじゃないか? どうせ鏡の中の俺達は出てこられないんだからさ」
カインはシャープに話しかけたつもりだったが、シャープから見れば、彼はあらぬ方向を向いていた。シャープはカインの頭を叩く。
「どっちを向いてるんだい?」
カインは目を瞬かせるばかりだ。ぼんやりした顔つきながらも、今までこちらを向いて話を聞いていたと思ったシャープが、いきなり明後日の方向に歩き出し、次の瞬間には頭に衝撃を受けたのだから。
「ごめん。でも、見分けも付きにくいんだよ」
シャープは溜め息をついた。
「まあ、分からないわけでもないけどね。それに、カインの言う通りでもあるよね。ちょっと進んでみようか」
リリーは何度も首を振った。
「そうそう。早く行こうよ! 何だかどんどん気分が悪くなってくる……」
鏡の配置の見分け方さえ何とかわかれば、難しい迷路ではなかった。自分達が分からなくならないよう、シャープを先頭にして縦隊を組み、肩に手を置きながら歩いた。二十分ほど歩いたかと思うと、何やら不自然に切れ目の入った鏡が見つかった。
「ねえ。ここになにかあるんじゃない?」
リリーが自分の髪を整えながら、こつこつ鏡を叩く。ロナンがリリーにどくよう手で促した。手には戦士の手袋がはめられている。
「とりあえずは、押すか引くかだろ?」
ロナンは手を鏡に押し当て、渾身の力で鏡を押した。ガラスを引っ掻いたように耳障りな音が響いたかと思うと、鏡はその奥にある空間に向かって倒された。その奥を見たリリーは、思わず飛び跳ねながら空間の中に躍り込んだ。
「やったあ! 普通の部屋だ!」
立方体型の部屋の奥が鏡になっている部屋など到底普通ではないのだが、今まで前後不覚の世界に放り込まれていたリリーにとっては十分普通だった。三人もほっと息をつき、彼女の後に従った。ロナンはふと顔を上げ、鏡を見つめる。彼の視線は一点に注がれた。自分の虚像があるべき場所にいたのは、黒い鎧を身にまとった騎士だった。