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第九章

彼が部屋に入ってきた時の顔を見て、三人とも誰も何も訊かなかった。


たぶん、それこそが、彼らのあいだに積み重なってきたものの、いちばんはっきりした印だったのだろう。信頼、というには少し柔らかすぎる。戦争や傷や、他人の命令や、自分で引き受けてしまった選択のあとに生まれるものは、もっと硬い。たぶんこれは知っているということだった。彼女たちは、彼がどういう時に言葉を必要とせず、どういう時に言葉がただ邪魔になるかを、もう十分に知っていた。彼もまた、彼女たちの沈黙を慎重さや遠慮と取り違えるほど、彼女たちを知らないわけではなかった。


カイラは寝台の端に腰かけていた。片脚を抱え込むようにして、彼が入ってくる直前まで何かを早口で言っていたらしい。おそらく、彼がエドランと話したあとの空気そのものに苛立っていたのだろう。彼の姿を見ると、最初に黙ったのは彼女だった。戸惑ったからではない。むしろ逆で、その顔を見た瞬間に、今はいつもの自分の怒りを押し出す場ではないと分かったのだ。


リラはゆっくり立ち上がった。


いつものように、急がず、慌てず。動きで何かを救おうともしない。そういうところが彼女にはあった。前へ飛び出すのではなく、近づいていける場所になる。人が、そこへ入っていっても自分を傷つけないですむように。


アヤノは、まったく動かなかった。窓辺にいたまま、ただ彼のほうへ顔を向けただけだ。けれどその目だけは変わった。深く、注意深くなった。哀れみでも、やわらかさでもなく、ただ本当にそこにいる相手として見てくる目だった。


彼は扉を閉めた。


そのまま、しばらく取っ手に手をかけたまま立っていた。まるで、自分に最後の一度だけ、これ以上進まなくてもいい理由を与えてやるみたいに。やがて手を離した。


そして、話したくないのだと分かった。


何も。


なにもかも、言葉にしたくなかった。


言うことがないのではない。ありすぎた。エドランとのあの静かな、そして醜い会話のあとでは、頭の中があまりに澄みすぎていて、その澄み方そのものがもう汚かった。人と肩を並べて立てるはずの相手が、自分にはもう到底“許容できる”と呼べない代価を、平然と飲み込めてしまう。そんな話をしたあとで、言葉は人を片づけるだけで、少しも救わない。


彼に必要なのは別のものだった。


身体だった。彼女たちの身体。熱。呼吸。皮膚。言い換えも、正当化も、国家の論理への還元もきかないもの。


逃避ではない。


慰めでもない。


もっと悪く、もっと正直なものだ。自分をもう一度一つのものとして繋ぎ直すための手段。思考と怒りと嫌悪でばらばらになりそうなものを、肉と熱で縫い留めるためのもの。


最初に近づいたのはリラだった。


すぐ目の前で止まり、彼が先に触れるまで何もしなかった。そのまま見上げている。彼がようやく手を上げて、少し荒く肩を掴んだ時も、彼女はそれをやわらげて受け直したりはしなかった。ただ、そのまま入ってきた。いつも通りに。全部で。恥もなく、気取ることもなく、いま起きていることを“もっときれいなもの”へ言い換えようともしないままで。


彼は、いきなり彼女に口づけた。


貪るように。


始まりを作るための口づけではなかった。ずっと歯を食いしばっていた人間が、ようやく生きているものへ口から噛みつくみたいな、そういう口づけだった。リラはすぐに応えた。従順でもなく、慎重でもなく、ただ開いた。唇も、舌も、すでに服の下へ滑り込んでくる手も、いまは形を保たなくていいのだと、そのまま認めていた。


彼は自分の上着を乱暴に脱ぎ捨てた。どうやって落としたのか、ほとんど覚えていない。リラの服も、それにつづいて床へ落ちた。布が消え、掌の下に残ったのが彼女のむき出しの温かい肌になった瞬間、そこでようやく、ほんとうに身体が追いついた。


リラは、いつも温かい。


体温という意味だけではない。もっと質の違う熱だ。彼女には、ほかの人間より少しだけ多く生が入っているように思えることがある。そのせいで、彼女に触れると、どんな触れ方もたちまち“動作”ではなく“入口”になる。彼はそのまま背中を撫で、さらに下へ手を滑らせ、思ったより強く尻を掴んだ。リラは鋭く息を呑んだが、身を引かなかった。むしろもっと強く身体を重ねてきた。胸と胸、腹と腹、腿と腿。ほとんど隙間がなくなるほどに。彼はその密着の中で、彼女の呼吸がもう十分に速く、深くなっているのを感じた。


「そうして」


リラが、彼の口元で小さく言った。


「今は考えないで」


カイラは、その頃にはもう立ち上がっていた。


彼は、視線を向ける前から彼女の気配を感じていた。カイラには、リラのようなやわらかな受容はない。彼女はいつも、ぶつかるように近づいてくる。だが、それこそが彼女の正しさでもあった。彼女は癒すのではない。絡まったところから引きずり戻す。包むのではない。頭の奥へ沈みすぎた時に、肉体へ叩き返してくる。


彼女は近づいてきて、確かめもせず、彼の後頭部へ手を置いた。リラからいったん顔を離させるように。


「今ここで、頭の中に逃げるな」


彼女は低く言った。


「私たちを欲しがるなら、ちゃんとここにいなさい」


そう言って、今度は彼女自身が彼に口づけた。


リラよりも硬く。


乱暴に。


“美しい”という意味では、けっして上手くない。だがそれがカイラだった。彼女には丸みがない。欲望と行為のあいだに一枚も布を挟まない。口も、歯も、もう腹からさらに下へ伸びてくる指も、同じことを告げていた。ここで“それ以上のもの”になろうとするな。ここにいる限り、お前はただ生きた身体だ。なら最後までそうしろ、と。


アヤノは、そのあいだずっと動かなかった。


ようやく彼は彼女を見た。


そのこと自体にも、すでに意味がありすぎた。以前の彼女なら、こういう場にいること自体が内側の断裂だったはずだ。どこへ目を置くか。自分の身体をどこへ置くか。それを決めるだけでいっぱいになっていただろう。今は違う。今の彼女は、まっすぐ見ていた。欲望に濡れた目でも、怯えた目でもない。彼女がいちばん大切な時にいつもそうするように、集中して見ていた。そこで何かを決める時の目で。


「こっちへ来い」


彼が言うと、アヤノは来た。


ゆっくりと。だがためらわずに。


彼は手を伸ばし、彼女のうなじへ指を入れた。握り込むのではなく、ただ髪の生え際と、その下の温かい皮膚を確かめるように。そしてキスした。


それは、リラともカイラとも違った。


アヤノは、すぐには開かない。


彼女はいつもそうだ。


最初は、ごくわずかな緊張だけが唇にある。そのあとで、ゆっくり、ほとんど頑ななほどに受け入れ、そこからさらに深いところへ入ってくる。だからこそ、彼女が応える時はいつも“全部”だった。おためしでも、半端でもなく。そこが彼女の厄介なほど誠実なところだった。


背中にリラが密着してきた。胸が肩甲骨へ当たり、両手が腹から下へ回る。彼に、自分の身体の輪郭を思い出させるように。カイラは、彼の残りの服をもうほとんど苛立ったような手つきで脱がせながら、自分の服も同じように捨てていた。見せるために脱ぐのではない。邪魔だから消す、という脱ぎ方だった。


気づけば彼は、三人の裸のあいだにいた。


温かく、密で、もう思考の入る隙のない距離の中に。


リラが彼の肩越しにキスを落とし、背骨のあたりまで唇を滑らせる。それだけのことで、彼の中の何かが決定的にずれた。カイラはもう片手で彼を掴んでいた。短く、確かめるように。反応を見たいのではなく、そこにいるのかどうかを知るために。アヤノはなお彼の正面にいて、その顔を両手で包み、今度はもっと深く彼に口づけた。彼がまた頭へ逃げようとするなら、それを口ごと止めるつもりみたいに。


彼は三人をまとめて寝台へ引きずるようにした。誰かの上に誰かが重なり、腕と膝と髪と呼吸がほどけずに絡まる。裸の身体がこうして密着している時、人はどんな“美しさ”より正直になる。今もそうだった。リラはやわらかく、明るく、乳房にも腹にも彼女らしい生の温度があって、その熱が触れていない場所にまで伝わる。カイラは鋭くしなやかで、全身が神経と意地でできているみたいで、それでも、その強さごとしっかり触れられることをどこかで欲している。アヤノは、裸になってなお形が残る。身体にも、目にも、節度と鍛えられた線がある。だからこそ、そこから崩れる瞬間は毎回ひどく生々しい。


彼はリラの脚のあいだへ手を滑らせた。ゆっくりと。彼女の身体をもう長く知っている手つきで。焦らせるのではなく、最初からそこにある湿りと熱を確かめるように。リラはすぐに背を反らし、小さく、しかし深く喘いだ。音を出そうと決めて出した声ではない。身体のほうが勝手に先に反応したのだ。


その横で、カイラが乳首を口に含んだ。下から彼を見上げながら。あの目つきにはいつも、愛撫より少し多く挑発が混じる。リラは息を詰まらせ、彼の腕を強く掴んだ。その身体は、もう隠す気もなく開いていく。指の動きも、カイラの口も、それを止めなかった。


アヤノは指示を待たなかった。


そこが、たぶんいちばん強かった。


彼女は自分から手を伸ばしてきた。彼の胸を下り、腹を越え、さらに下へ。彼を握る。表面的な上手さではなく、いつも通りの、あの注意深さで。見せるためではなく、感じるための手つきだった。彼がどんなふうに呼吸を乱すか、どこで力が入るか、何を“本当に”求めているかを、自分の手で確かめるような。


彼が彼女を見ると、アヤノは視線を逸らさなかった。そのまま手を密着させ、だんだん強く、確かに彼を扱い、それから身を屈めた。口に含む動きも、そうだった。まっすぐで、余計な演技がない。彼と重い話をする時と同じように、ただそのままそこへ行く。


それだけで、彼の中の何かが一気に崩れた。


射精ではない。


もっと前の、身体全体が“もう離れない”と決めてしまう感覚だった。彼の指の下でリラはすでに十分に濡れていて、腿は自分からもっと開いていく。考えているわけではない。ただ、ここへ来る波を失いたくなくて。カイラはリラの胸を口から離し、そのまま腹へ、さらに下へとキスを落としていく。リラはそのたびに息を乱し、カイラの舌がもっと深く入ってきたところで、堪えきれず声を漏らした。彼の指はその中で、彼女のいちばん敏感なところを逃がさず掴んでいた。リラの身体が大きく跳ね、腿が震え、その波が抜けていくのが彼にも手の中ではっきり分かった。


アヤノは一瞬だけ口を離した。息が重い。


彼はすぐに引き寄せて口づけた。自分の味が彼女の唇に残っている。それを彼女が嫌がらないどころか、むしろそこからさらに深く彼へ入ってくることが、妙に直截に響いた。


それから彼はアヤノを仰向けに倒し、自分はそのあいだへ入った。しばらく、本当に一瞬だけ、動かずに見た。アヤノにはいつも、こういう瞬間にも残るものがある。裸でも、すでに熱を帯びていても、目の奥が暗く濡れていても、なお彼女は彼女の形を持っている。閉じているわけでも、恥じているわけでもない。ただ、形がある。だからこそ、彼女がその形ごと身体に飲まれていく様子は、毎回ひどく強く見える。


「俺を見ろ」


彼は言った。


アヤノは見た。


そのまま、彼が彼女の中へ入っていく時も。


急にではなく、だが最後まではっきりと入っていく。その時、彼女の顔はほんの少しだけ崩れた。痛みではない。あまりに生々しい充たされ方に、呼吸が一瞬だけ普段の形をやめる時の崩れ方だった。彼は最初はゆっくり動いた。彼女を知っている身体で。アヤノはすぐに両脚を彼の腰に巻きつけ、もっと近くへ引いた。“いい”ではなく、“止まるな”という身体だった。


後ろから、カイラがもう彼へ密着していた。胸を背に押しつけ、肩を噛む。痛いくらいに。わざとだ。彼がまた考えに逃げようとするなら、それを肉体のほうから止めるために。彼女の手はさらに下り、彼とアヤノのあいだの、すでにもう充分すぎるくらい熱く、きつく、濡れている場所へ入り込んできた。


彼は思わず息を乱した。


彼の中にある熱。アヤノの中の締めつけ。そこにさらに別の指が加わる。身体がそれを“多すぎる”と感じる一歩手前のところを、カイラは意地悪く正確になぞってくる。


彼女は彼の首筋で低く笑った。


「そう。やっと戻ってきた」


リラは、一度大きく震えて波を越えたあと、まだ完全には戻っていなかった。それでも肘をつき、彼のほうへ手を伸ばしてきた。彼はアヤノの中にいたまま上体を寄せ、リラに口づける。リラはそのまま、彼の口の中へ小さく甘い吐息をこぼした。彼女の手はアヤノの頬へ、もう片方はカイラの腿へ伸びた。


それが、リラだった。


この人だけが、親密さを“二人ずつ”に分けずに持てる。嫉妬で割らず、形で整理せず、ただ熱のあるもの全部を一つの場にしてしまう。


彼はアヤノの中で、もう少し深く、もう少し自由に動いた。彼女は完全に応え始めていた。腰を合わせ、肩を掴み、呼吸はどんどん荒くなっていく。声を隠そうともしない。カイラはその横で、今度はリラを自分のほうへ向けて深く口づけた。リラはそのまま喘ぎを彼女の口の中へ落としながら、なお片手をカイラの脚のあいだへ伸ばす。リラにしかできない触れ方だった。やわらかいのに、遠慮がない。自分がいま崩れそうであっても、ちゃんと他人の身体に届く。


カイラが先に堕ちた。


上体を起こし、思わず口元を手で覆う。声を押さえようとしたのだろう。だがすぐ自分でその仕草に苛立って、手を離した。喉から漏れた声は荒く、少し怒っているみたいで、そのくせどうしようもなく気持ちよさそうだった。裸で、髪が乱れて、目は濡れていて、それでも表情だけはいつも通り少し悪くて、そこがまた、彼にはほとんど反則みたいに生々しかった。


リラが彼の下で達したのは、そのあとだった。全身の細かい震えと、目尻に浮かんだ涙と、どうしようもなくほどけていく呼吸とともに。彼女はいつも、荒さではなく、幸せが大きすぎる時に溶ける。彼はしばらくそのまま、すぐには抜かずにリラを抱いた。彼女の身体がまだ震え続け、指先が意味もなく彼の背を撫でている。その“意味のなさ”が、かえって本物だった。


それから、彼らは熱のなかで絡まったまま横たわった。


カイラは斜めに転がり、頭をリラの腹に乗せていた。少し不機嫌そうなまま満たされていて、そのせいでいっそう黙っている。アヤノは彼の腕の中で、頬を肩につけていた。もう呼吸は落ち着いているが、まだ身体の熱が引ききっていない。リラは二人のあいだで半ば崩れるように横になり、近さのあとにしか見せない、あの静かな明るさを顔に残していた。何も証明する必要がない時の、彼女の顔だった。

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