チャンス
周囲の絶叫を最後にオレの意識は途絶えた――。
「2番がよォ見えるなァ」
横に立つ初老の男は、櫛ひとつ入れていない乱れた頭を赤ペンでかきむしっていた。
オレはそれを不思議な思いで眺めた。
手に持った競馬新聞に視線を落とす。
2番の馬名とその他の出走馬を見てオレは混乱した。
オレは間違いなくこのレースを経験している。
オレの記憶が確かならば、このレースは2―10―3の順に入る。3連単の払い戻しは8万円を超える万馬券だったはずだ。
オレは外れたが、隣の男が特券(1000円)を持っていて、ゴール前狂わんばかりに絶叫していたのを覚えている。
しかし――。
そんなことはあり得ない。
だとすれば――夢か。
混乱するオレをよそに時間は過ぎてゆく。締め切り五分前を告げるアナウンスが場内に響く。
オレは現実味を帯びた夢だっただけに、それに賭けてみようという気になった。普段200円づつの5点買いしてるところを2―10―3の一点買いで勝負することにした。
ゲートが開き、十頭の馬が一斉にスタートする。
各馬ゴール付近にいるオレの前を砂煙をあげて通り過ぎ、第1コーナーへ突入してゆく。
2―3―10の順に第1コーナーを周る。
やはり見覚えのある展開だ。
レースは坦々と進み、最後の直線に向かうまで上位三頭の順位は変わらない。四頭目以降は差をつけられている。
もう、これは夢ではない。やはりオレはこのレースを見ている。
呆然としているオレの前を三頭の馬が駆け抜けた。
歓声と悲鳴。
「ちくしょうめ! やっぱり2番だったか!」
初老の男が顔を紅潮させて悔しがっていた。どうやら予想を変更したようだ。
だとしたら――。
やはりオレの記憶は夢だったのだろうか?
しばらくしてレース結果が場内に流れた。オレは呆然としていて気づかなかったが、最後の直線で10番と3番が入れ替わっていたようだ。
払い戻しに場内がどよめいた。三連単2―10―3で84500円の高配当。
オレは思わぬ大金を手にすることに気づいて、我が身に起きた不可思議な現象などもはやどうでもよくなっていた。
財布に収まりきらないほどの金を得たオレは、意気揚々と競馬場を後にした。笑いをこらえながら家路を急いだ。
地下鉄のホームで電車を待ちながらなにを買おうか考えた。財布に入りきらなかったポケットの札束の感触を何度も確かめた。
ホームに列車が入ってくるアナウンスが流れた。乗車位置に足を進めようとしてはッとした。隣の乗車位置に立っている白いブラウスの女性を見た瞬間、記憶が呼び起こされた。
ホームから落下する彼女。
それに気づいたオレは、一瞬の躊躇もなく彼女の救出に向かった。
オレは彼女を抱き上げ、反対側のホームに走り抜けるか、救助を手伝う連中に彼女を預けるか迷った。
結局預けるほうを選択した。
そして、彼女のカラダが引き上げられたのを確認し、ホームに上がろうとして周囲の絶叫が耳に響いたところでオレの記憶は途切れた。
まさか――。
しかし、競馬場での一件がある。もし、今の記憶がこれから起きることならば大変なことになる。そう思ったオレは彼女が倒れる前になんとかしよう、と行動を起こそうとしたが一歩遅かった。彼女は糸の切れた操り人形のように前方に崩れ、ホームから落下した。
オレは瞬時に反対側のホームに駆け抜けてやる、と飛び出したが、すぐに思いとどまった。
オレでなくても――。
誰かがホーム下に飛び下りるのを冷静に見ていた。
かかしのように立っているオレを押しのけて次々と救助に駆けつける人・人・人。
誰かのカラダが肘に当たり、札束を握り締めていた手をポケットから札束ごと引き出された。
札束は手を放れバラバラになって宙を舞う。
「バカヤロー!」
オレ掴み取ろうと足を踏み出す。しかし、支えるべき地面はそこにはなくホームから落下した。
腰を強く打った。だが、弱音を吐く暇はない。逃げなければならない。
オレは列車が進入してくる方向に目を向けた。落下した女を抱えた男が反対側のホームに向かって走り出す姿が見えた。
その先の暗闇の奥からヘッドライトを光らせた列車が、ブレーキ音を激しく鳴らしながらオレに迫ってきた。
そして――。
周囲の絶叫を最後にオレの意識は途絶えた――。