「底辺の姉ちゃん、俺の借金払っといて」ニート弟と毒親にATM扱いされたので絶縁します〜直後に超大手企業の若きCEOが高級車でお迎えに。手のひらを返す家族を切り捨て、最高のパートナーと幸せになります〜
実の家族から「引きこもりの社会不適合者」「底辺」と見下され、都合のいい金づる(ATM)として搾取され続けてきた主人公が、理不尽な毒家族とスッパリ縁を切り、最高の幸せを掴む大逆転&スカッとストーリーです。
自称エリート(実は大学を強制除籍&借金まみれ)の弟と、彼を溺愛して主人公に多額の尻拭いを押し付けてくる両親。限界を迎えた主人公の前に、彼女を誰よりも高く評価するハイスペックな若きイケメンCEOが高級車でお迎えにやってきて……?
実は「業界トップクラスの凄腕エンジニアにしてIT企業の社長」だった主人公の痛快なざまぁ(手のひら返し&自滅)展開と、完璧に見えて実は少し不器用なヒーローとの、クスッと笑える甘いハッピーエンドをお楽しみください。
「お前みたいなどこにも就職できずに部屋に引きこもってる社会不適合者と違って、翔太は本来なら一流企業に入る人間なんだ。せめて引っ越しの雑用くらい手伝って役に立て」
父の大声が、狭いワンルームに響いた。
私——白石結衣は無言で、床に散乱したゴミを拾い集める。
丸められたティッシュ。
茶色く変色したペットボトル。
カビの生えたコンビニ弁当の容器。
脱ぎ捨てられたままの衣服。
悪臭が漂うこの部屋は、弟の翔太のアパートだ。
「そうよ結衣。あんたは毎日パソコンで遊んでるだけなんだから、時間くらいあるでしょ」
母が、翔太のブランド物のスニーカーを丁寧に箱に詰めながら言った。
「姉ちゃんは底辺なんだからさ。エリートの俺に尽くすのが当然っしょ」
翔太はベッドに寝転がっている。
スマートフォンから目を離さない。
私は手に持っていたゴミ袋の口を、きつく縛る。
翔太は、両親の期待を一身に集めて育った。
高い学費を払って都内の私立大学に入学した。
毎月、十分すぎるほどの仕送りを与えられていた。
だが、現実は違った。
翔太はろくに授業にも出ず、家で遊び呆けていた。
留年を繰り返し、先週、強制的に除籍処分となった。
両親には「就職活動をしている」と言っていたそうだが、すべて嘘だった。
毎日スマホゲームに明け暮れていて、どこにもエントリーすらしていない。
内定などあるはずがない。
あるのは高レアのキャラクタが詰まったゲームだけだ。
事実を知った父は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
翔太を田舎の実家に連れ戻すと言い渡した。
そこまではいい。自業自得だ。
だが、なぜか都内で一人暮らしをしている私に、引っ越しの手伝いの命令が下った。
「お前は暇なんだから、手伝いに来い」
「レンタカーも手配しておけ」
昨夜の父からの電話は、一方的な命令だった。
私はフリーランスのシステムエンジニアだ。
在宅で仕事をしている。
ただそれだけで、両親は私を社会不適合者と認定している。
私が実家を出て独立してからも、両親はしばしば私に電話してきた。
翔太の学費が足りない。翔太の就活費用がいる。
育ててもらった恩という言葉に縛られていた私は、都度都度、結構な金額を送金してきた。
だが、その金はすべて、このゴミ部屋の家賃と翔太の遊び代に消えていたのだ。
「おい、聞いてるのか結衣!」
父が私の肩を強く小突いた。
「さっさと段ボールに詰めろ。午後には管理会社の立ち会いがあるんだ」
私は深く息を吐いて、新しい段ボールを組み立てた。
ガムテープを引き出す音が、部屋に空しく響く。
クローゼットの奥から、古い雑誌の束を引っ張り出した、その時だった。
雑誌の間に挟まっていた赤い封筒が、床に落ちた。
差出人は、消費者金融の会社名。宛名は、白石翔太。
「……何これ」
私が呟く。
翔太が弾かれたように顔を上げた。
「おい! 勝手に見るな!」
翔太が慌てて立ち上がる。
私は素早く封筒を拾い上げ、中身を引き抜いた。
督促状だった。
借入残高、三百万円。
「翔太」
父の声が、低く震えた。
「これは、なんだ」
「ち、違うんだ父さん! それは友達に名義を貸しただけで……!」
「嘘をつくな!」
父が翔太の胸倉を掴んだ。
「あなた、やめて! 翔太が可哀想でしょ!」
母が泣き叫びながら止めに入る。
就活浪人どころか、多額の借金まで作っていた弟。
それを信じ込んでいた両親。
滑稽な光景だった。
午後になり、管理会社の担当者がやってきた。
スーツ姿の若い男性だ。
彼は部屋の惨状を見るなり、顔を引きつらせた。
「これは……ひどいですね」
壁には、殴って開けたような大きな穴。
フローリングは広範囲に腐食している。
タバコのヤニで、壁紙は本来の色を失っていた。
担当者は電卓を叩く。
一枚の見積書を父に差し出した。
「敷金は全額償却となります。それに加えて、壁の修繕費用、床の張り替え費用。特殊清掃費用。
合わせて八十万円のご請求となります」
提示された金額を見て、父が目を剥いた。
「は、八十万円だと!? ふざけるな! こんなボロアパートに!」
「お客様の過失による汚損および破損ですので。契約書にも記載されております」
担当者は冷静に言い放った。
父は額に青筋を立てて、部屋の中を歩き回る。
そして、ピタリと私の前で足を止めた。
「結衣」
嫌な予感がした。
「お前、立て替えろ」
「は?」
「聞こえなかったのか。お前が立て替えるんだよ!」
父は悪びれもせず言い放った。
「お前、たいした金も使わずに一人で暮らしてるんだろう? これまでの親への恩返しだ」
「どうして私が、翔太の尻拭いをしなきゃいけないの」
「お姉ちゃんなんだから当然でしょ!」
母が横から口を挟んだ。
「あんたみたいな独り身のフリーター、どうせ自分にしかお金使ってないんでしょ。
弟が困ってる時に助けないなんて、人間としておかしいわよ!」
「そうだよ姉ちゃん」
翔太がベッドから起き上がり、へらへらと笑う。
「俺はこれから田舎でエリートとして復活するんだからさ。
底辺の姉ちゃんからの投資だと思って、八十万くらいポンと出せよ。
あ、ついでに俺の借金三百万も頼むわ」
翔太が、私の足元にあった鞄を軽く蹴った。
中から、私の仕事用のノートパソコンが滑り出る。
床に落ちた空き缶の上に勢いよく倒れて、鈍い音がした。
「あっ」
翔太がわざとらしく声を上げた。
「わりぃ。そこに置いておくのが悪いんじゃん」
天板に深い傷が入っていた。
「何してるの!」
「うるさい! どうせろくな仕事してないくせに!」
父が再び怒鳴った。
「いいからさっさと金を出せ! 社会不適合者の分際で親に口答えするな!」
胸の奥が、急速に冷えた。
エプロンのポケットで、スマートフォンが振動した。
私は三人から視線を外す。
画面を見た。
着信。
相手は、高遠さん。大手IT企業の、若きCEOだ。
私は家族を無視して、通話ボタンを押した。
「はい、結衣です」
『あ、結衣さん。休日にお電話してすみません』
低く、落ち着いた声。
高遠さんは私より三つ年上で、私のエンジニアとしての腕を一番に買ってくれた人だ。
「いえ、大丈夫です。ちょうど時間ができたところなので」
『よかったです。実は、次回の大型プロジェクトの件で、開発の中核を結衣さんにお願いできないかと思いまして』
「私に、ですか?」
『はい。結衣さんの技術力と問題解決能力の高さは、うちの社内でも非常に評価が高いんです。ぜひ、専属に近い形でお願いしたい』
高遠さんの言葉に、私は立ち止まった。
『それに、個人的にも、もっと結衣さんと一緒に仕事をしたいと思っています』
彼の声が、少しだけ弾んでいた。
「ありがとうございます。喜んでお受けします」
『よかった。契約金は現在の三倍で稟議を通しました。
……ただ、一つ気になりまして。今、弟さんの引っ越しの手伝いをしていると言っていましたね』
「ええ。今、まさにその最中です」
『あなたのような日本のトップエンジニアに、荷物運びをさせる家族がいることに驚きを隠せません』
高遠さんの声が、微かに低くなった。
彼は私の境遇を知っている。
『今から迎えに行きます。場所は、以前伺ったあたりですよね?』
「遠いですよ。わざわざ来てもらわなくても」
『俺が行きたいんです。
結衣さんを、これ以上そんな場所に置いておきたくない』
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
私を出来損ないと呼ぶ家族。
私を不可欠な存在と呼んでくれる人。
選ぶべき道は、一つしかなかった。
「……わかりました。お待ちしています」
通話を切り、私はスマートフォンをポケットにしまった。
「誰だ今の電話! 男か!」
父が顔に青筋を立てて怒鳴る。
「借金取りじゃないでしょうね!? あんたまで借金作ってるんじゃないでしょうね!?」
母が甲高い声で叫んだ。
私は深く息を吐き出した。
「私、帰るから」
「あ?」
父が間の抜けた声を出す。
「引っ越しの手伝いはもうしない。レンタカーの鍵は置いていくから、自分たちで運転して帰って」
私はバッグを拾い上げ、玄関に向かって歩き出した。
「おい待て! 借金はどうするんだ! 退去費用は! お前が払うんだろ!」
父が私の腕を掴もうとする。
私はその手を冷たく払い除けた。
「社会不適合者の私に、エリート様の借金を肩代わりする能力はありません」
父が絶句した。
「それから実家への送金、今月でストップするから」
「は……?」
母の顔から血の気が引いた。
「何度も送金したよね。あれ、おばあちゃんの遺産だっていうのは、嘘。あれ、私の仕事の報酬だから」
「あ、ありえないわ! あんたみたいな引きこもりに、あんな大金稼げるわけないじゃない!」
「信じなくてもいい。でも、来月から一円も振り込まれない事実だけは受け入れて」
私はドアノブに手をかけた。
「おい結衣! ふざけるな! 今ここを出て行ったら、二度と実家の敷居は跨がせないからな!」
父の怒声が背中に突き刺さる。
「一生、跨がない」
私はドアを開け、外に出た。
* * *
アパートの外に出ると、初夏の陽射しが眩しかった。
大きく深呼吸をする。
肺いっぱいに新鮮な空気が入り込んでくる。
道路の脇に、黒光りする高級セダンが滑り込んできた。
音もなくエンジンが止まる。
運転席のドアが開いて、高遠さんが降りてきた。
長身。
オーダーメイドのスーツ。
洗練された身のこなし。
この寂れた住宅街には不釣り合いなほど目立っていた。
「お迎えに上がりました、結衣さん」
高遠さんが私の前で立ち止まって、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。本当に、来てくださったんですね」
「当然です。
僕の最も大切なパートナーを、こんな埃っぽい場所に放置しておくわけにはいきませんから」
高遠さんの視線が、私の手元のバッグに移った。
「……それ、天板が割れていませんか」
「ちょっとしたアクシデントです。データは無事なので」
「新しいものを手配させてください。今の結衣さんの仕事道具としては、傷物では困る」
有無を言わさぬ口調。こうなったらこの人は頑固だ。
私は小さく頷いた。私も、彼と一緒にPCのオーダー画面を見るのは、そんなに嫌いではない。
高遠さんは助手席のドアを開けてくれた。
私が車に乗り込もうとした、その時。
「結衣! 待ちなさい!」
アパートの階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。
父。
母。
翔太。
彼らは高遠さんの車を見る。
雷に打たれたように足を止めた。
「な、なんだその車は……」
父が震える声で呟く。
高遠さんはスッと私の前に立つと、私の家族を冷ややかな目で見据えた。
「結衣さんのご家族ですね。
私は株式会社ブライトリンクの代表を務めております、高遠と申します」
高遠さんが名乗った企業名。
翔太の目が丸くなった。
就職活動を一切していなかった翔太でさえ知っている。日本を代表するIT企業だ。
「結衣さんには、弊社の基幹システム開発において、多大なるご尽力をいただいております」
「は? 開発? こいつはただのフリーターで……」
父が目を白黒させて言う。
「フリーター? とんでもない」
高遠さんは首を傾げた。
「結衣さんは、システム開発会社の代表取締役ですよ。
日本のIT業界で、彼女の名前を知らない人間はモグリです」
静寂が落ちた。
母の顔が、歪んでいく。
翔太は口を半開きにしたまま、呆然と私を見ている。
「しゃ、社長……?」
母が掠れた声で呟いた。
「結衣さんがこれまで、どれほどの重圧と責任の中で結果を出してきたか。
あなた方はご存知ないのでしょうね」
高遠さんの声は静かだった。
しかし圧倒的な威圧感があった。
「これ以上、彼女の貴重な時間を奪うことは許しません。行きますよ、結衣さん」
「はい」
私は高遠さんに促され、助手席に乗り込んだ。
「待て! 結衣! 姉ちゃん!」
翔太が慌てて車に駆け寄ろうとする。
高遠さんは運転席に乗り込むと、ドアをロックした。
車の窓越しに、父が何かを叫んでいるのが見える。
母は顔をくしゃくしゃにして窓ガラスを叩こうとしていた。
車は静かに発進した。
バックミラーの中で、家族の姿がどんどん小さくなっていく。
私は、一度も振り返らなかった。
* * *
それから三ヶ月が経った。
私の会社は高遠さんの企業との大型契約を無事に完了させた。
業績は過去最高を記録した。
雇っている社員が保育園の抽選に漏れて困っていたので、オフィスを都内に買って、託児施設を併設した。
せっかくなので私も在宅をやめ、代わりにオフィスが入っているビルの上階を自宅にした。
穏やかな日々が、つつがなく進む。
スマートフォンを取り出す。
私はあの日、彼らと別れた直後にすべての送金設定を解除した。
家族の連絡先もブロックした。
物理的にも、デジタル上でも、完全に縁を切った。
でも親戚からのメールで、実家の惨状は耳に入ってきた。
翔太の借金の取り立てが実家に押し寄せた。
母が父に内緒でつまんでいたマチ金の取り立ても一緒に来たらしい。
父の退職金はすべてそれに消えた。
翔太は田舎で働き口を見つけることもできなかった。
毎日部屋に引きこもってゲームをしているそうだ。
そのスマホも、借金のカタに売り払われたと聞いた。
私が担っていた無償の経済的支援。
それがなくなった瞬間、彼らの生活は音を立てて崩壊したのだ。
ある日の午後。
私が新しいオフィスでコーヒーを飲んでいると、受付の社員が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「社長。
エントランスに、ご家族と名乗る方々がいらっしゃっているのですが」
私はコーヒーカップを置いて、静かに立ち上がった。
「私が対応します。警備員を呼んでおいてください」
エントランスに降りると、そこには見すぼらしい姿の三人がいた。
父は頬がこけ、着ている服はヨレヨレだった。
母は化粧もせず、白髪が目立つ。
翔太は虚ろな目で、床を見つめている。
「結衣!」
私を見つけるなり、父が駆け寄ってきた。
「探したんだぞ! なんで電話に出ないんだ!」
私は一歩下がり、冷たい視線を向けた。
「何か用ですか」
「用ですかじゃない!
お前、どういうつもりだ!」
父の怒声がエントランスに響く。
「翔太の借金で、家は火の車なの!
お母さんもパートに出てるのに、全然足りないのよ!」
母がすがりついてきた。
「お願い、結衣。あんた社長なんでしょう? お金を貸して!!」
私は表情を変えずに彼らを見下ろした。
仮に貸したとしても、そのお金が帰ってこないことは、あまりにも自明だ。
「社会不適合者の私に、お金を無心するんですか」
父が言葉に詰まった。
「お、お前は……! 家族だろ!
家族が困っているのに見捨てる気か!」
「ええ。見捨てます」
短く、断言した。
「姉ちゃん、頼むよ。俺、田舎で仕事見つからなくてさ……
へへ、小遣いくれよ」
翔太がヘラヘラと笑いながら手を伸ばしてくる。
私はその手を、冷たく払い除けた。
「自分で働けば」
「は? 冷たっ! お前、それでも姉貴かよ!」
「お前こそ、それでもエリートコースを歩む人間なの」
翔太が一歩後ずさった。
「お父さん。お母さん。よく聞いてください」
私ははっきりと、周囲にも聞こえる声で言った。
「私は今まで、あなたたちのために時間もお金も使ってきました。
でも、あなたたちは私をせいぜい都合のいい金づるとしか見ていなかった」
「そ、そんなことは……!」
「私が社長だとわかった途端にすり寄ってくるだなんて。気持ち悪い」
母が床にへたり込んだ。
父は顔を真っ赤にして、拳を握りしめた。
「ふざけるな! 親に向かってなんて口の利き方だ!」
父が私に向かって腕を振り上げた。
その瞬間。
「そこまでにしてください」
低い声と共に、高遠さんが私の前に立ち塞がった。そのまま、父の腕をがっちりと掴む。
「な、なんだお前は!」
「私は彼女のビジネスパートナーです」
高遠さんは父の腕を乱暴に振り払った。
「これ以上、彼女に近づくなら警察を呼びます。
すでに警備員に録画させていますから、暴行未遂として被害届を出しますよ」
高遠さんの低い声に、父の顔から血の気が引いた。
「う、あ……」
父は後ずさりした。
私は高遠さんの背中越しに、彼らに最後通告を突きつけた。
「二度と、私の前に現れないでください」
父は震える手で私を指差したけれど、もう、何も言えなかった。
母は床に座り込んで泣き続ける。
翔太はただおどおどと周囲を見ているだけだった。
「お帰りください」
高遠さんが警備員に合図を送る。
三人は、警備員に追い立てられるようにして、這うようにエントランスから出て行った。
回転扉の向こうに消えていく彼らの背中を、私はただ静かに、見送った。
胸のつかえが、完全に消え去っていた。
* * *
一年後。
都内の高級ホテルの最上階にあるレストラン。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
「結衣さん」
向かいの席に座る高遠さんが、私の名前を呼んだ。
「はい」
「今回のプロジェクトも無事完了、本当にお疲れ様でした」
彼はシャンパングラスを持ち上げた。
私もグラスを合わせる。
「高遠さんこそ。素晴らしいディレクションでした」
乾杯の後、高遠さんは真剣な眼差しで私を見つめた。
そして突然、自分の両手で、自分の頬を叩く。
「すまない、驚かせてしまったと思うけど……
その、なんだ……ええい、しっかりしろ、俺!」
彼は背筋をただすと、意を決したかのように、口を開いた。
「これからの僕の仕事だけじゃなく、僕の人生にも、君が必要だ。
ビジネスパートナーとしてだけじゃない。僕の隣で、ずっと一緒に歩んでほしい」
一呼吸でそこまで言い切る。
「僕と、結婚してくれませんか」
高遠さんがスーツの内ポケットに手を入れ……そして、ピタリと動きを止めた。
彼の顔から、スッと血の気が引いていくのがわかった。
「……あれ?」
間抜けな声が漏れた。
彼が右のポケット、左のポケットと次々に探り始める。
端正な額に、じんわりと汗が浮かんでいた。
「どうしたんですか?」
「ない。家に、置いてきた……」
高遠さんが両手で顔を覆った。
「嘘だろ。一生に一度の場面で、こんなミスを。
僕としたことが、緊張しすぎて……。
今から取りに戻って……いや、それじゃ雰囲気が……」
激しくうろたえ、早口でまくし立てる。
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかない。
私の口から、思わず笑い声がこぼれた。
「結衣さん?」
彼は驚いたように顔を上げた。
「ごめんなさい。でも、なんだかおかしくて」
完璧な高遠さんの、人間らしい隙。
私のために、そこまで余裕をなくしてくれた不器用な失敗。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
私は席を立って、テーブル越しに身を乗り出した。
なおもうろたえる高遠さんの頬に、手を添える。
「結衣さん……?」
身をかがめて、彼の唇に、自分から軽くキスをした。
高遠さんの体が、一瞬ビクッと強張る。
すぐに柔らかく解けた。
唇を離す。
彼は顔を真っ赤にして、呆然と私を見つめていた。
「指輪は、また今度。喜んで、お受けしますから」
「……はい」
高遠さんが、私の手をぎゅっと握り返す。
「次は、絶対に失敗しませんから」
理不尽な抑圧に耐える日々は、もう終わった。
私を正当に評価し、不器用なほど愛してくれる人がここにいる。
窓の外の夜景が、私たちの新しい人生を祝福するように輝いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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