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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

花と火

作者: 高橋翔
掲載日:2026/01/16

 私は、この世界は腐っていると思っている。

 いや、正確にはもうとっくに腐り切っていて、私たちはその異臭に鼻を曲げながらも、過去という名の研磨剤で不都合な現在を磨き、美化し、どうにか正気を保っているだけなのだ。


 今を見失ってまで。


 西暦二千九百九十九年三月六日、第一次人類選別が執行された。

 増えすぎた家畜を間引くように、政府は十八歳から六十歳までの国民の五割を「削減対象」とした。

 私は、その時はまだ対象外の十七歳だった。さらに言えば、私は世界に対して徹底的に無関心だった。ニュースも、流言も、隣人の悲鳴さえも、耳を塞いでやり過ごしてきた。


 だから、六月六日にその「結果」を突きつけられた時、私はひどく狼狽した。死への恐怖。思考も、感情も、未来も、すべてが永遠の闇に沈むという概念。

 ……否。そんなことなど、どうでもよかったのだ。


※※

「はぁ、はぁ、……っ」

 肺が焼ける。心臓が肋骨を裏側から激しく叩き、視界がちかちかと明滅する。

 私は全力で自転車のペダルを回していた。背中には、言葉にできないほど異様な重みがのしかかっている。


 重い。とにかく重い。

 この重みは、私が背負ってしまった「未練」の質量だろうか。あるいは、逃げ出したはずの現実が形を成して、私を地面に引きずり込もうとしているのだろうか。


 黒髪で、平均的な背丈。外見にも中身にも色のない、透明人間のような男子高校生。それが私だ。普段の私なら、こんな風に必死に生きている実感を求めて疾走することなどないが、今は違う。


 今日、六月六日。第一次選別の結果が公表されたあの日。

 その事実を知った瞬間の、あの吐き気を催すような泥濘の感覚。世界から音が消え、ただ自分の血流の音だけが耳の奥で爆音を奏でる、あの深緑色の絶望。


 そのねっとりとした不快感を少しでも薄めるために、私は汗を流し、夜の静寂を切り裂いて走る。


「はぁ、そういえば、……ドア、開けっぱなしだったな」


 ふと、独り言が漏れる。親と離れ、古いアパートでの一人暮らし。情報は一滴も滴らないはずの乾いた部屋。だが、今は扉が開け放たれているので、冷たい風が入り込んでいるはずだ。


 六月の夜風にしては、妙に肌を刺すような寒さだった。


 アパートの部屋に残してきたテレビは、今も無機質に「落選者」の氏名を流し続けているだろう。


 私の父。母。兄。親戚。


 かつて私を形作っていたはずの繋がりのすべてが、今は画面の左下に表示された『遺体の回収はこちら』という文字の向こう側に吸い込まれていった。


 いずれ、私の名前もあそこに並ぶのだろうか。


 私は、兄との思い出の場所である河川敷へと自転車を向けた。

 砂浜にタイヤが取られ、私は自転車を止める。背中の「重み」を下ろすとき、その体温のなさに一瞬だけ脳が警鐘を鳴らした。

 だが、私はそれを「夜風のせいだ」と即座に上書きする。


「えっと、ライターは……」


 コンビニ袋から取り出した花火。愛用のライターで火をつける。


 巨大な月は雲に隠れ、砂浜の黄色い色彩を奪っていたが、代わりに手元の小さな灯火が、周囲を淡く、寂しく照らし出した。


「やっぱり、通知こねぇか……」


 スマホを見るが、画面は暗いままだ。家族から連絡が来るはずもないのに、私は指先を震わせて画面をなぞる。

 その時だった。


「ねえ、」


 川の方から、不意に声がした。

 そこには、一人の少女が立っていた。

 夜の闇の中でも鮮明に浮き上がる、桃色のツインテール。整った、けれどどこか現実味のない人形のような顔立ち。


「……ここ、いい?」


 私は振り向かず、ただ花火を見つめたまま答える。


「……ああ、いいけど」


(誰なんだ、こいつは。一人にしてくれよ)


 苛立ちと、正体不明の安堵が混ざり合う。彼女は躊躇なく私の隣に腰を下ろした。妙に距離が近い。彼女の身体から、冬の氷のような冷気が漂ってくる気がした。


「私も、花火していいかな?」


「……はい」


「ありがと」


 彼女は私の袋から花火を一本抜き取ると、私が持っている火に自分のそれを近づけた。

 火花が散り、彼女の横顔が赤く照らされる。


 いつからだろうか。こんな風に誰かと火を囲むのが、遠い昔の出来事のように感じられる。


 数ヶ月前まで、この河川敷は賑やかだった。家族連れやカップルの笑い声が絶えなかった。


 だが、今の外の世界は、夜風だけが死者の魂を運ぶように踊っている。


 選別の後も、この世界にはまだ数億の人類が残っているはずだ。だが、この時ふと私は思った。


 今この世界で花火をしているのは、私たち二人だけなのだろうな、と。



「……私、実はまだ選別されてないんだー」


 感情に浸っていたが、彼女が至って普通の声で終わせられる。


 少し息を整え、「……お前もか」と言葉を返す。


 十七歳。誕生日が遅ければ、第一次選別からは漏れる。だが、それは「生き残った」ことを意味しない。単なる死の先送りに過ぎない。


「そう。誕生日が遅くて、九月五日なの。だからね、九月六日に二次の選別を受けるんだー」


「………え」


 九月、五日。

 その日付を聞いた瞬間、私の心臓が奇妙な跳ね方をした。

 知っている。私はその日付を知っているはずだ。

 脳の奥底、固く閉ざしたはずの引き出しが、がたがたと音を立てて震え出す。


「だからさ、第二次選別が終わったら、またここに来てもいい? あなたと一緒に」


「なんで……俺なんだ?」


「他に誰もいないの。いいでしょ?」


 彼女は屈託なく笑い、「他もちょうだーい」と手を差し出す。


 私は黙って次の花火を渡した。

 生きたくない。誰とも関わりたくない。そう思っているはずなのに、私は彼女に火を分け与えることをやめられなかった。


「……あなたは、なんでここで花火をしてるの?」


「兄との……思い出の場所なんだ」


 私は嘘を吐いた。兄とここで花火をしたことなど、一度もない。

 兄は何度も私を誘ってくれた。引きこもりがちな私を、外の世界へ連れ出そうと、何度も、何度も。


 けれど、私はそのすべてを拒絶した。

 多忙な大企業勤めの兄が、なけなしの時間を割いて私にかけてくれた言葉。それをゴミ箱に捨て続けたのは、私だ。


「なんで、俺が生き残ってるんだ?」


 抑え込んでいた泥が、言葉となって溢れ出す。


「選別なら、俺を先に殺せよ。俺より、……兄貴の方が、生きてる価値がないって言うのか?」


 選別。価値。平等。

 そんな言葉が、私を嘲笑っている。


 刹那、私は自分の口を両手で覆った。初対面の、名前も知らない少女に何を言っているのか。なぜ「殺す」など、彼女に言えるのか。

 いや、それ以前に。


 なぜ私は、この少女にこれほどまでの「甘え」を感じているのか。

 私は自分を呪い、否定し、そして再び深い闇に沈もうとした。

 その時だ。


「人生の意味なんて、考えてるだけ無駄だよ」


 彼女の声が、先ほどまでとは違う、ひどく大人びたトーンで響いた。


「大事なのは、今なんのために生きるかだと思う。少なくとも私は、そう思いながら生きてる」


 私は息を呑み、ようやく彼女の顔を正視した。

 桃色の髪。整った顔立ち。

 ……そして、いつか、どこかで私に同じ言葉をかけた、大切な人の面影。


「まあ、赤の他人が何言ってんの? って話だけどねー。じゃあまたね。約束だよ?」


 彼女は立ち上がり、闇の中へと消えていった。

 私は、その場に崩れ落ちるように横たわった。

 疲労と、混乱と、そして懐かしい匂いに包まれながら、私は深い眠りに落ちた。


※※

 朝の光が、網膜を刺す。

 川面が白く反射し、まるで無数の宝石を散りばめたように輝いていた。


 ーーそして今日。

 六月七日などではない。十二月七日。

 第二次人類選別の結果発表が行われ、そして「遺体の受取」が開始された翌日だ。


 私はゆっくりと身体を起こした。

 身体が、凍りつくように冷え切っている。

 そして、私の目の前には、昨夜、共に花火を楽しんだ彼女が横たわっていた。


 桃色のツインテール。整った顔立ち。

 けれど、その瞳は二度と開くことはなく、肌は青白く、血の気は一滴も残っていない。

 彼女の胸元には、無機質な番号札が付けられている。


 第二次選別、落選者10536K。

 記憶が、濁流となって押し寄せる。


 高校時代、私が唯一、胸を焦がすように恋い慕っていた少女。


 九月五日生まれの少女。


「人生の意味なんて考えてるだけ無駄だよ」と、図書室の窓際で私に笑いかけた少女。


 あの日。私は、彼女の訃報を知った。

 絶望に耐えきれず、私は「第二次選別の受取所」へと走り、見苦しい混乱に乗じて彼女を盗み出したのだ。

 彼女を背負い、自転車を漕ぎ、この河川敷までやってきた。


 十二月の、凍えるような寒さの中。

 私は彼女の遺体を背負いながら、それを「未練の重さ」だと自分に言い聞かせた。

 彼女の冷たさを「夜風のせい」だと思い込み、脳内で彼女を蘇らせ、初めて会った他人のふりをして会話を交わした。


 昨日という一日を、私は彼女がまだ生きていた「六月」という幻想の中で過ごしていたのだ。今という地獄を見失うために。


「ああ、……全部、私の妄想だったのか」


 動かなくなった彼女の唇を見つめる。

 妄想の中の彼女は、私を救うための言葉を吐いてくれた。

 それは、私が忘れたふりをしていた、かつての彼女からの贈り物だった。


「……約束、果たせたよ」


 私は、彼女の冷たい頬に触れた。

 もう、彼女を温めることはできない。だが、彼女が残した言葉が、私の凍てついた心臓を微かに動かしているのを感じた。


「…ありがとう。俺……もう一度だけ、生きてみる。生きてみせる。」


 私は特徴のない、ただの引きこもりの生き残りだ。

 うまく生きられる自信など、どこにもない。

 明日にはまた、自分のことが嫌いになって、死にたくなるかもしれない。

 それでも


「あかり……」


 十二月の乾いた風が、私の頬を撫でた。

 私は、籠の中に残っていた花を一輪取り出し、彼女の胸元にそっと添えた。

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