第98話『黒い海の来訪者』
漂流船とともに港へ迫る、黒い水煙のような怪物。
それは迷宮の闇とは異質な、海の底から這い上がった脅威だった――。
港の波止場は混乱に包まれていた。
黒い水煙はゆらゆらと揺れながら、確実に岸へ近づいてくる。
その足跡のように、海水が濁り、魚が浮かび上がっていく。
「生き物……なのか?」
リリィが恐る恐る呟く。
ザハルは即座に首を横に振った。
「違う。あれは“呪い”だ。海に巣食う悪意そのもの……」
漂流船が波止場に衝突した瞬間、黒い煙は形を変えた。
それは長い腕と脚を持ち、顔のない人型に変貌する。
全身は海藻と泥のようなもので覆われ、動くたびに海水が滴った。
「……上陸するぞ!」
ガルドが斧を構えるが、その巨体に似合わぬ速さで影は波止場へ飛び上がる。
石畳が砕け、周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ惑った。
ヴァレッタが剣で斬りつけるが、刃は黒い粘液を裂くだけで手応えがない。
「効かない!?」
ザハルが短剣を構え、後退しながら叫ぶ。
「物理は通らん! 炎か光で焼き払え!」
「炎なら……ある!」
レンはポータブル窯を前に出し、燃料を全開にした。
轟、と赤い炎が吹き出し、影はその場で動きを止める。
しかし完全には消えず、炎を避けるように後ずさった。
「効いてる! でも弱い!」
リリィが叫ぶ。
レンは即座に具材を掴み、生地に並べながら説明する。
「海の魔物には“香り”だ。漁師町で聞いたろ? 強烈な香草や柑橘の香りを嫌うって!」
彼は大量のハーブとレモンを乗せた特製ピザを窯に滑り込ませた。
焼き上がる香りが港に広がると、黒い影はまるで煙に巻かれたように痙攣する。
「今だ!」
ヴァレッタが再び突進し、剣を振り抜く。
炎と香りが後押しし、黒い体は悲鳴のような音を立てて裂けていった。
ザハルとガルドも加わり、港の石畳を火花と飛沫が走る。
やがて影は形を保てなくなり、黒い水となって地面に流れ落ちた。
残ったのは、ひときわ濃い闇色の結晶。
「……これが核か」
ザハルが拾い上げ、掌に載せる。
結晶は氷のように冷たく、じわじわと不快な気配を放っていた。
「おそらく……これで終わりじゃない」
ヴァレッタが港の沖を見やる。
そこには、同じ黒い円がいくつも揺れていた。
港を襲った黒い影を退けたレンたち。
しかし、海の向こうではさらに多くの“闇の渦”が生まれ始めていた。




