第93話『闇の広間の囁き』
緋砂の迷宮・第一層“砂の回廊”を突破したレンたちは、闇の広間へと足を踏み入れる。
そこは光を呑み込み、心を惑わせる不気味な空間だった。
松明の灯りが、闇に飲み込まれるように揺れていた。
広間の天井は高く、壁は黒ずんだ石でできている。
足音がやけに響くが、その反響が少し遅れて返ってくるのが不気味だった。
「なんか……広い体育館にいるみたい」
リリィが小声でつぶやく。
ヴァレッタが剣を構えたまま首を振る。
「違う。反響の遅れ方が……普通じゃない」
ザハルが足を止め、振り返る。
「ここでは、自分の声すら信じるな。囁きが聞こえても、返事をするな」
「囁き?」
「ああ……お前らの大事な奴の声にそっくりな声が、暗闇から呼びかけてくる」
レンは思わず息を飲む。
その説明を聞く前から、すでに耳の奥で微かな声がしていた。
――レン。こっちだ。
「……今、聞こえたぞ」
ガルドが低く唸るように言う。
リリィは耳を押さえ、首を振った。
「やだ……お母さんの声がする……」
ヴァレッタはすぐさま肩を掴んで止める。
「行くな。幻だ」
「でも……すごく近くにいる気が――」
「違う!」
ヴァレッタの声は鋭く、そして必死だった。
足元の砂利がカラリと鳴る。
レンは耳を澄ます。
――こっちだ。こっちだ。
その声は確かに、亡くなった父の声だった。
胸が熱くなる。
だが同時に、背筋を冷たい汗が伝った。
ザハルの警告が頭の奥で響く。
「……くそ、惑わされるな」
レンは目をぎゅっと閉じ、呼吸を整えた。
それでも声は頭の中で繰り返される。
まるで、暗闇そのものが心に入り込んでくるかのように。
前を行くザハルは何事もないように歩き続けていたが、その手は松明を持つ手とは別に短剣を握っている。
この広間で声に従って離れた者は――二度と戻らないのだ。
やがて、広間の中央らしき場所に差し掛かったとき、足元の石板に奇妙な模様が刻まれているのに気づいた。
それは渦巻きのようで、目を凝らすとわずかに脈打っている。
「……これ、魔法陣か?」
ヴァレッタが低く言い、レンが頷く。
同時に、全員の耳に同じ声が響いた。
――“証”を求める者よ。血を捧げよ。
空気が冷たく張り詰める。
リリィが顔を青ざめさせ、レンに寄り添った。
「やだ……今度は全員に聞こえた……」
ザハルは松明を高く掲げ、険しい表情で告げる。
「構えろ。この広間の試練が始まった」
囁きが現実の声へと変わり、迷宮は牙を剥く。
仲間たちは、心を試す広間の罠と向き合わねばならなかった。




