第84話『霧の島の約束』
霧の中の厨房で、レンは老人から星の麦を使った伝統のピザを教わった。
その味と、島の過去を胸に刻み――レンは約束を交わす。
厨房の窓から差し込む光は、霧越しでも柔らかく温かかった。
レンは皿に残った最後のひとかけをゆっくり口に運ぶ。
その味は、胃ではなく心を満たす不思議な力を持っていた。
「……この味、絶対に忘れません」
そう告げると、老人は微かに笑った。
「忘れるな。味は心と一緒にある。心を曲げれば、同じ材料でも別物になる」
背後から足音。
振り返ると、リリィとガルド、ヴァレッタが霧の中から現れた。
「レン! 無事だったか!」
「こっちは……何だ、そのいい匂い」
ガルドは鼻をひくつかせる。
レンは皆を中へ招き入れ、老人の焼いたピザを一切れずつ渡した。
口にした瞬間、全員の表情が和らいだ。
「番人は……?」
ヴァレッタが問うと、老人はゆっくり答えた。
「満たされた者には興味を示さぬ。あの鈴の音が遠ざかったのも、それだ」
ガルドは驚き、リリィは小声で「食いしん坊で助かったね」と笑った。
老人は続ける。
「ただし……島を出るには、一度鐘を鳴らさねばならん」
鐘――あの不気味な音。
しかし老人は首を振る。
「あれは本来、旅立つ者を見送るための音だった。
呪いのせいで“番人の目覚めの合図”になってしまったが……
方法さえ守れば、外に出る道を開けられる」
レンは真剣に聞き入る。
「どうすれば?」
「鐘を鳴らしたら、霧が晴れるまで決して振り返らぬことだ」
翌朝。
港の鐘楼の前で、レンたちは老人と向き合った。
少年もそこにいた。昨日逃げろと言ったあの少年だ。
「じいちゃん……本当に行っちゃうの?」
老人は頷き、優しく頭を撫でた。
「この人たちは島の外で“あの味”を広める。わしらの誇りを、な」
レンが鐘の綱を握る。
霧の中に深く重い音が響き渡った。
その瞬間、港の空気が震え、霧がゆっくりと動き出す。
「走れ!」
老人の声に押され、レンたちは黒牙号へ駆け出した。
背後からは鈴の音が微かに聞こえたが、決して振り返らなかった。
甲板に飛び乗り、帆が風を受ける。
やがて霧が切れ、広い青い海が姿を現した。
港の鐘の音が、遠くでかすかに響く。
レンは振り返らず、小さく呟いた。
「必ず……この味を届けます」
霧の島を後にし、レンたちは再び航海へ。
老人との約束は、星の麦ピザに新たな使命を与えた。
次は、約束を胸に未知の港を目指す。




