第83話『霧の中の厨房』
鐘が止まり現れた“番人”の追跡をかわしながら、
レンは霧の奥に漂う料理の匂いを頼りに街の奥へと向かった――。
霧の街路は、音を吸い込んだように静かだった。
ただ、背後からは確かに鉄鎖を引きずる音がゆっくりと迫ってくる。
番人の足音は重く、一定のリズムを刻んでいる。
レンは壁沿いを走り抜け、崩れかけた建物の角を曲がった。
――そこで、ふいに視界が開けた。
広場の中央に、小さな石造りの建物がぽつんと立っている。
煙突からは細く白い煙が上がり、
扉の隙間から、ふわりと甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
「……間違いない、ここだ」
扉をそっと開けると、そこは――厨房だった。
古びたオーブンがいくつも並び、鉄鍋や木杓子が壁に掛けられている。
そして奥の調理台には、腰の曲がった老人が立っていた。
白い髭を胸まで伸ばし、手元で何やら生地をこねている。
その手つきは驚くほど滑らかで、
生地は柔らかな光を放ち、まるで生きているようだった。
「……あんた、外から来たな」
老人が振り向き、穏やかだが鋭い目でレンを見た。
「どうして分かるんです?」
「この島に残る者は、もうわし一人だ。外の匂いはすぐ分かる」
老人は手を止めずに続ける。
「番人に追われながら、ここまで来たのか。
なら、あんたは……“あの味”を求めてるんだろう?」
レンは息を整えながら頷いた。
「そうです。星の麦を手に入れてから、
どこかでこの香りと同じものを感じて……」
老人は薄く笑い、オーブンの扉を開けた。
中から現れたのは――黄金色のピザだった。
生地はふんわりと膨らみ、チーズがとろりと流れ、
表面には月の泉を思わせる白銀のハーブが散らされている。
「この島は昔、星の麦を使った料理で栄えていた。
だが、外の欲深い者たちがそれを奪おうとした結果……
島は呪われ、霧と番人に閉ざされた」
老人はピザを切り分け、レンに差し出した。
「食え。番人は“心を満たした者”には手を出さん」
レンは迷わず口に運んだ。
――一口で、胸の奥が温かく満たされていく。
それは星の麦ピザに似ているが、もっと深く、静かで優しい味だった。
背後の路地から、番人の鈴の音が近づいてくる。
だが不思議なことに、その音は徐々に遠ざかっていった。
「ほらな。満たされたろう」
老人はそう言って、再び生地をこね始めた。
「……あんたがこの味を外に持ち出せば、島は少しずつ変わるかもしれん」
レンは深く頷いた。
「必ず……約束します」
霧の島の厨房で出会った老人と、消えかけた伝統の味。
レンはその味を胸に刻み、次の一手を考える――。




