第72話『嵐を呼ぶ航路』
女海賊ヴァレッタの誘いを受け、レンたちは黒牙号に同乗し未知の海原へ。
しかし、新たな航路には天候も人も恐れる“大嵐の海域”が待っていた――。
夜明けの海は、異様な静けさに包まれていた。
水平線の向こう、鉛色の雲が渦を巻きながら広がっている。
その中心から、雷光がまるで獣の咆哮のように閃く。
「……嫌な海だな」
ガルドが呟き、船縁に手をかける。
ヴァレッタは逆に笑っていた。
「これが“大嵐の航路”さ。ここを抜ければ、海の果ての市場に着く」
黒牙号はゆっくりと進み始めた。
風は次第に強まり、波が船体を打ち付ける。
マストが軋み、ロープが悲鳴を上げる。
「おいレン、こんな時まで料理の準備か?」
リリィが呆れた声を上げる。
「嵐の時こそ腹ごしらえだ。力を出さなきゃ波に負ける」
レンはしっかりと腰をロープで固定し、厨房で鍋を振っていた。
その時、空が裂けるような轟音。
巨大な波が船首を飲み込もうと迫る。
「全員、しがみつけ!」
ヴァレッタの声が轟き、船員たちは必死にロープを握った。
波が甲板をさらい、樽や木箱が海へと流されていく。
レンが抱えていた材料の一部も海へ消えた。
「チッ……霧の王の燻製が……!」
レンは悔しそうに海を見たが、すぐに顔を上げた。
「まだ海の黄金はある。これを使えば――」
しかし次の瞬間、マストの先が稲光に包まれ、船体が激しく揺れた。
リリィが声を上げる。
「レン、厨房が水浸しになってる!」
嵐の中心部へ差し掛かった頃、海はもはや山のように盛り上がり、
空からは横殴りの雨と氷混じりの雹が降り注いだ。
そんな中、ヴァレッタが甲板中央で立ち上がり、雷鳴に負けぬ声を張り上げる。
「この嵐は“海の守り手”だ! 通り抜ける者を試す魔物だぞ!」
言葉と同時に、波間から黒い影が立ち上がった。
それは海そのものが形を成したような巨大な水の怪物――
渦巻く海水が腕となり、雷を背負った姿はまさに嵐の化身だった。
「……あれを倒さなきゃ、進めねぇ」
ガルドが剣を握るが、レンは厨房を振り返った。
「いや……倒すんじゃなく、満足させるんだ」
海の黄金を急いで石窯に入れ、
船の揺れに合わせて生地を回転させる。
焼き上がった黄金のピザは、雨にも負けず甘く芳ばしい香りを放った。
レンは大波の合間を縫い、怪物の口元めがけてピザを投げ入れた。
怪物は一瞬動きを止め、ピザを噛み砕くと――
その姿を崩し、霧と波に溶けて消えていった。
嵐は嘘のように静まり、雲間から光が差し込む。
ヴァレッタが呆然とレンを見て笑った。
「……あんた、嵐まで料理で黙らせるのか」
大嵐と海の守り手を、料理で退けたレン。
だが、その先に待つ市場は――海の裏社会そのものだった。




