第104話『黒い霧の町』
黒い霧の漂う海域をなんとか越え、南端の港町サリオスに辿り着いたレンたち。
しかしそこには、まるで死んだ町のような不気味な静けさが漂っていた――。
アウロラ号が港に接岸しても、迎える者は誰一人いなかった。
「……ここ、港町……だよね?」
リリィが船のへりから覗き込み、首をかしげる。
港の倉庫群には、かつての賑わいを思わせる設備が残っていたが、
そのどれもが埃をかぶり、ロープは朽ちて風に揺れていた。
「完全に……止まってるな、時間が」
レンは静かに呟き、足を踏み出す。
ヴァレッタが眉をひそめて言った。
「おかしいわ。これだけの規模の港なら、交易船がひっきりなしに来るはずよ」
「黒い霧の影響か……もしくは、それ以前から何かあったか」
一行が町へと足を踏み入れると、まず気づいたのは空気の重さだった。
海風が吹いているはずなのに、空気がぬるく、どこか“籠もって”いる。
そして、ところどころの壁や地面に、黒くこびりついた染み。
それはまるで、あの海で見た“黒い霧の粒子”が凝固したような……。
「ねぇ、あれ……」
リリィが指差した先――そこには、ひっそりと開いている食堂の扉があった。
他の建物がすべて閉ざされている中で、唯一灯りの見える場所だった。
扉を開けると、中には痩せこけた老夫婦が座っていた。
カウンターに並ぶ食器は古び、料理の気配はほとんどない。
「……あんたたち、旅の商人かい?」
老婆が細い声で尋ねる。
「はい、ピザ屋です。港で営業を……」
「ピザ……?」
老夫婦は目を見開いた。
「食べられるものを……焼くのかい?」
老人が前のめりになる。
その目は、干からびていたはずの瞳に、一瞬の輝きを宿していた。
「この町……黒い霧の影響で、物資が届かなくなってるんですね?」
レンの問いに、老婆は頷く。
「最初はね、ただの潮霧だったのよ。けれど、船乗りが次々と倒れ始めて……」
「市場も閉じて、商船も寄らなくなった。みんな北の町へ逃げていったわい」
「残ったのは……ここが故郷で、離れられなかった年寄りと、病で動けなくなった人たちばかりさ」
ヴァレッタが息を呑む。
「それに、食べ物が……」
老婆がかすれる声で言った。
「作っても、味がしないの。全部、土の味みたいで……なぜか、腐るのも早いのよ」
「それって……この霧のせいなんじゃ」
リリィがぽつりと言う。
「もしかしたら、“匂い”とか“風味”を、黒い粒子が奪ってるんじゃないかしら」
ヴァレッタが分析的に言う。
「だったら……」
レンは一歩、前に出た。
「俺たちのピザを、試してみませんか?」
数分後、アウロラ号の窯に火が入り、ピザ作りが始まった。
使用するのは、船内に積んであった保存用トマトソース、燻製チーズ、ベーコン。
それに、リリィが干していたバジルとオレガノ。
生地をのばし、具材をのせて、窯へ。
パリッと焼き上がるピザの香ばしい匂いが、港の空気を押し返すように立ちのぼる。
「……すごい匂いだ」
老婆が震える声を出した。
レンがピザを切り分け、二人の前に置く。
「どうぞ。あついので気をつけて」
一口……。
老夫婦の目に、涙が浮かんだ。
「……味がする……」
「……トマトの……甘さ……」
「これは……本物の……食べ物だ……」
周囲に集まってきた町人たちも、徐々に香りに引き寄せられてきていた。
誰もが驚きと戸惑いを浮かべながら、しかし確実に、希望の匂いを嗅ぎ取っていた。
ピザは瞬く間に売り切れ、町にはひさびさの笑い声が戻った。
レンたちはその夜、老夫婦の食堂に泊まることになった。
小さな蝋燭の明かりのもと、レンは手帳を開く。
「この霧……ただの自然現象じゃないな。やっぱり“何か”が、霧を使って町を蝕んでる」
ヴァレッタも頷く。
「黒い粒子の性質を調べたいわ。明日、町の南側にある旧灯台へ行ってみましょう」
再び光を灯し始めたサリオス。だが、黒い霧の原因は未だ解明されていない。
レンたちは真実を探るべく、旧灯台へと足を踏み入れる――。




