「君を愛することはない」と言い切る前に陥落していた旦那様と、実務第一の公爵令嬢~偽装戦死した元婚約者が今更すり寄ってきても、私達の罠に嵌まるだけですが~
「君を愛することは無い」
乙女が夢を見るはずの初夜、私は結婚したばかりの旦那様にそう言われ、左様ですか、と応えようとした、瞬間。
「―…とは、言い切れない。」
「…はい?」
悔しそうに顔をしかめ、私の頭など掴めてしまいそうなほど大きく、血管が浮いた男らしい手で、情けなくも顔を隠いながら、旦那様は続けてこう告げた。
「なんならもうすでに好きになってしまっている……!」
「え、ええ……?」
天蓋のカーテンがゆらりと揺らめく最中、私はシーツの海ではなく、困惑の最中に居た。
私の2倍はあろうかと思うくらいの巨躯をぐっと曲げ、耳まで真っ赤に染め、切れ長の黒い瞳を熱で潤ませる旦那様は、帝国の英雄とは思えぬほど情けなく、なんだか胸の内をぎゅうと握られたかのような感覚さえする。
そもそも、この婚姻は、皇命によって結ばれたものだった。
サラ帝国の戦争の英雄である、リヴェル・ジェード―…目の前の旦那様の名である…―は、この度、第二皇子の元婚約者である私、シロン・アルケリカ公爵令嬢との婚姻を余儀なくされた。
元々第二皇子の地位を確立するための婚約であったとはいえ、第二皇子が先の戦争で戦死してしまったことにより、20歳という貴族の結婚市場ではほぼ行き遅れ状態の私をそのままにしておくわけにはいかず、かといって半端な爵位では公爵という我が家の爵位に見合わぬ、ということで選ばれたのが、彼だった。
10年にも及ぶ戦争に終止符を打った英雄。平民にして、類まれなる才と力で将軍の地位を得た男。
黒い切れ長の瞳は知性を宿し、同じく黒檀のような髪は戦火の火花のように煌く。鼻梁は真っ直ぐ定規で線を引いたようで、薄い唇は真一文字にきつく締めつけられている、そんな絵姿を結婚前、一度だけ見たきり、婚姻がトントン拍子に決まった。
私としては正直、どうでもよかった。第二皇子の婚約者であった時もそうだが、私は自分の結婚に周囲ほど悲観していなかったし、むしろ平民になるのもいいかもしれない、と考えていた。公爵家の跡取りとしては優秀過ぎる弟がいるし、皇族との強固な関係を結ぶなら、妹たちでもいいわけで。
公爵家の長女だからと、義務は果たすべきだと思っていた。だからこそ、戦争の英雄との婚姻が決まった時もハイハイと二つ返事で承ったし、彼に好いた女性が居ると噂で聞いたときも、特に驚きはしなかった。
実際の初の顔合わせは結婚式だった。それ以外はほぼ代理人との会話ばっかりだったし、挨拶も形式的なものだったし、結婚式でまじまじと実際の顔を見て、当たり前だけど、絵姿にそっくりだと思いながら、一つ二つの会話を行って、流れるままに初夜である今夜を迎えた。
実は彼には好いた女性が居ると聞いていたので、まあ抱けないとか言われてもそれはそれで……一応用意しておいたものもあるし、問題ないかと思っていたのだが、まさか「愛する気はないと言い切れない」と言われるのは予想外だった。
しかも、すでに少し好き、とは、その。
「……失礼ながら、閣下。チョロいと言われたことはありませんか?」
「分かっているんだ、自分が惚れっぽいことは……!」
「自覚はおありなんですね……。」
「勘違いしてほしくないのは、おれは女好きで惚れっぽいとかじゃないんだ。ただ、その、……いいな、と思うと、少しだけ好意を抱いてしまって、それが風船のように膨れるのが早いだけで……。」
「……ちなみにどこがいい、と思ったのですか?」
「存外ぐいぐい来るな、きみ……。……その、きみの、姿勢、とか、横顔、とか、……声も、女性にしては少しばかり低いのが、いいな、と……。」
ぼそぼそと告げてくる言葉と共に、段々と彼の赤い顔がもっと赤くなっていく。恥ずかしいのは恥ずかしいが、聞いたら答えてくれるあたり、誠実な性格であるということは間違いないらしい。
ただ、惚れっぽいという自覚があるということは、と少し懸念が浮かぶ。
「好いた女性が居ると聞きましたが。」
「え。ああ……おれは、その、こうだから、そういう事を言っておけば、女性が寄ってこなくなるだろう?あ、あ、もちろん、いいな、素敵だな、好きだな、と思ったって、気持ちを押し付けられるのは気持ち悪いだろう?ちゃんと自分で消化させているから、二心を持ったりすることは無いよ。」
「浮気することがないと、言い切れますか?」
「無いよ。おれが骨の髄まで惚れていいなら、それが許されるのであれば、おれはその女性を生涯愛する気でいる。だから、その……君にうっすら惚れているこの気持ちも、どうにか消化するから、気にしないで欲しい。」
「はい?なぜですか。構いませんよ、惚れこんでいただいても。」
「えっ。」
私が首をかしげると、彼は目を丸くした。存外幼く見えるその表情がやっぱり、随分可愛らしい。
惚れっぽい=浮気性というわけではなく、骨の髄まで惚れていいなら生涯愛するのがその一人だけというのであれば、特に否やを言う気はないし、その惚れた気持ちを消化させる理由が一向に分からない。
一応、夫婦になったのだし、体面的には問題もないはずだ。
「君は第二皇子の元婚約者だろう。」
「ええ、一応、肩書としてはそうですね。傷物ではないかと心配されてらっしゃるんですか?」
「まさか!そんな不躾なことは思わないよ。ただ、その。……第二皇子を好いていたのでは?」
「いいえ、そんなわけないでしょう。」
「えっ。」
私の返答が理解できないのか、次は彼が困惑の表情を浮かべる番だった。確か、彼は平民から爵位を賜ったものであるから、貴族のルールというか、貴族的感覚が理解できないのかもしれない。生まれながらの貴族である私でもたまに首をひねることがあるのだから、彼が理解できなくてもおかしくはないのだが。
「私は第二皇子を好いていません。貴族の結婚とは、そういうものの方が多いですよ。私の場合は、特に政略結婚でしたし。」
「だが、1週間に一度君から手紙を送っていただろう。あの方も喜んでいたし、君が自分を好きだと自信満々だった。」
「私も貴族女性の一端でございますから。婚約者への義務を果たしていたまでです。」
「……不躾な話ですまないが、第二皇子のことが嫌いだったのか?」
「確かに、我儘で、自己中心的で、不可解な自信に満ち溢れた方ではございましたが、公爵令嬢とはいえ、一国の皇子を嫌うなど、とても。」
「……末恐ろしいひとだ。」
「幻滅されましたか?」
幻滅されるのも、いいかもしれないなあ、と思う。私のこれまでの生涯は、恐らく目の前の男にとって、不気味さそのものだろう。彼のことは好ましいが、だからと言って、別に私でなくともいいとも思う。別に愛する女性が居るのであれば、私は女主人として家守をするだけで良い。冷え切った家庭もまた、貴族にはよくあることだ。
彼は少しだけ考えこんで、やがて真っ直ぐと私を見つめ返した。
「おれは、君のような、貴族の考え方はできない。当然、意見が合わないこともあるだろう。それでも、尊重したいと思う。」
「……それはとてもありがたいのですが、よろしいのですか。」
「確認なんだが、君に好いた男が居ないのであれば、おれが惚れ抜いても構わないということか?」
「ええ、まあ、そう、ですね?」
「それは、よかった。」
見つめ返す彼の瞳が、じっくりと細められる。少しだけ熱を持ったようなその視線に、何故か居心地が悪くなるような気がした。見定められるような視線に似ているそれは、少しばかり、私の背筋を寒くさせた。
「触れても?」
「……え、っと、はい。あの、……する、のでしょうか?」
「流石に性急すぎるだろう。ただ、手に触れたいだけだ。…駄目か?」
眉が申し訳なさそうに寄せられ、先ほどと打って変わって、仔犬のような可愛らしい笑みを浮かべる。またもや胸がぎゅっと掴まれたような心地を感じながら、私は指先をそっと差し出した。嬉しそうに微笑んだ彼が、指先に触れ、手の甲に口づけを落とす。伏せた瞼が開かれ、黒い瞳が覗いた瞬間、とてつもなく逃げたい衝動にかられ、指先を引こうとすると、少しだけ握りこまれて、途端に逃げられなくなった。
「はは、可愛らしいな。」
「……意地悪な人。」
指先が絡められて、汗ばんだ箇所がどちらとも分からない脈動を伝える。ゆっくりと絡められていく指先と手の大きさの差異、指の皮の厚さに少しだけ悪戯心が沸き上がり、自分で指先を動かすと、彼の眉が少し跳ねた。
自分から持ち出しておいて、あまり女に慣れていないのだろうか。手のひらをぴたりとくっつけると、彼の耳が赤く染まっていることに気づいた。かちこちと鳴る時計の針の音に少しだけ視線をずらせば、大分夜も深くなっていたみたいだった。
「では、寝ましょうか。」
「あ―…ああ。じゃあ、おれは別の部屋で、」
「いえ、今夜は一緒に寝てください。」
「……あの、おれは確かにきみに惚れ抜く気でいるんだが、理性を試すのはやめてくれないか?」
「人の口に戸は立てられぬものです。初夜からそうそう、新妻を放置して出ていく夫なんて、不能を疑われましてよ?」
「い、いや。だからといって、その、」
「つべこべ言わず、横になってくださいまし。ほら。」
「うっ……おれを引っ張る力がか弱いのに強引なところが可愛いすぎる……!」
何を感極まったように声に出しているんだ、と横になった彼の肩を叩くと、彼は一瞬目を見開いて、か弱すぎる、ともう一度呟いた。そりゃ、軍人からすれば、素人の私なんてさぞか弱いに違いないだろうが、なんだか癪に障る。もう一度叩くと、彼は喉奥でくつくつと笑った。
非常に癪にさわったので、私は彼の横に寝そべり、太い腕に抱き着く。石のように彼は固まり、油を差していない人形のように首を動かして私を見た。
「きみ、悪魔か?」
「いいえ、貴方の妻でしてよ。」
「おれの妻がしたたかで可愛くて柔らかくていい匂いがする、しんどい。」
「瞼を瞑ってさっさと寝てくださいまし。」
少し硬めの抱き枕だと思うことにして、私は瞼を閉じる。とろとろと睡魔が私を襲ってきて、私の意識はすぐに刈り取られてしまった。結婚式から何から、忙しかったのもあっただろう。
目を覚ますと、隣に彼は居らず、一枚の書置きがあった。仕事があるから、先に出るとの言付けだった。
一応は新婚夫婦とはいえ、仕事は待ってくれないらしい。周囲から形式的なものだと思われている可能性は確かにあると小さく頷く。
内容を確認したとばかりに伏せると、紙の裏に小さく、迷ったような、小さな文章が書かれていた。
「君の寝顔に口付けをしてしまった。許してくれ。」
瞬間、熱が顔に集まるのを感じる。枕に頭を沈めて、私はゆっくりと息を吐く。
「とんでもない男と結婚したみたい……。」
仔犬のようだと思ったら、野獣のような瞳をして、遠慮がちに触れるかと思えば、いきなり踏み込んでくる。心臓が休まる暇を少しは寄越すべきだ。
とはいえ、今はいないものに文句を言ってもしょうがない。しばらくベッドで頭を抱えながら、やがて身体を起こした。
とにもかくにも、女主人としての仕事を開始しよう。少しだけでも忙しくすれば、きっとこの不毛な思考もおさまるだろう。そう覚悟を決めて、私はベッドの横の呼び鈴を鳴らしたのだった。
それからしばらく、彼と顔を合わせることは無かった。目を開ければ手紙とも言えぬ書置きが一通。帝国の英雄に対して、騎士団の長としての肩書を急ごしらえで誂えたために弊害が出ているのだろう。私としても、屋敷の管理の他、帝国から与えられた領地の管理人を揃えたり、収支の確認をしたりと、非常に忙しくなった。夜遅くまで仕事すればあわよくば顔を合わせることがあろうかと思ったが、着いてきてくれた乳母であるモナに笑顔で駄目ですとベッドに連行されたのは記憶に新しい。
「お嬢様はすぐ無理をなさる。駄目です。」
「あの、あと一枚、一枚だけでいいから……。」
「悪い癖が出てますねえ、駄目です。はい、ぽんぽんして差し上げますからね。ぽーん、ぽーん。」
その後の記憶はない。モナのあの手つきだけは母になったとしても培える気がしない。流石は老練の乳母、弟妹も私にモナを連れて行かないでと泣いて懇願するわけである。
閑話休題。
とにかく、久しぶりに会った旦那様は、部屋に入るなり近づいてきたかと思うと、私に両腕を伸ばそうとして、ぴたりと止まって、2,3歩下がったかと思うと跪き、スカートの裾に口づけた。
「えっまっ、旦那様!?」
「今帰った。済まない、暫く水も浴びていないので、挨拶はこれで許してほしい。」
「いえ許すとかそういうことではなく、あの、王妃殿下にするかのような挨拶を妻にするのはおやめになってください、立ってください。」
「君はこの家の妃だ、問題ない。おれが主人と呼ばれることの方が恐れ多い。君こそが主人であるとおれは胸を張って言える。」
「胸を張って言うことではありません!も、モナ!モナ!」
跪いたまま曇りなき眼で告げる彼にまずいことになっていると直感し、思わず大きな声でモナを呼ぶと、少しの間と共に、ノックの音が響く。許可を出せば、モナが数人の男の使用人を連れてやってきた。本当にこの乳母は優秀である。
「旦那様、奥様とお話をなさりたいのであれば、まずはその身を整えるところからではありませんか?みっともない姿で奥様の前に出るなど、無礼千万です。」
「モナ?私そんなこと思ってなくてよ?モナ??」
「……!……確かにその通りだ。シロン、みっともない姿を見せた、不快にさせて済まない。すぐに湯あみに行ってくる。」
「えっあ、あの?気にしてませ、早いっ!?」
一礼をして颯爽と去っていった後ろ姿を引き止める間もなかった。しれっとした表情のモナを見上げれば、モナは微笑んで私を見た。
「旦那様も随分可愛らしい方ですわね。帰ってきて誰も引き止める間もなくお嬢様に会いに行かれましたもの。」
「いや、まあ、そうでしょうけど。言い方というものがあるでしょう?」
「旦那様にはあのくらいの方が効くのですよ。お嬢様のことを随分好いているようですし、問題ございません。」
「え、ええ……?そうかしら……?」
「ええ、そうですわ。……ま、慌てていないとお嬢様の名前を呼べないあたり、まだまだ矯正が必要な気も致しますが。」
「……え?」
モナが怪訝そうな表情をする。
「名前。呼ばれていましたでしょ?」
「……そう、いえば。」
「遅くに帰ってくるたびに、お嬢様の寝顔を見ながら名を呼ぶ練習をしていた甲斐がございましたね。」
「何それ知らな、知らなくってよ?」
「寝てる人間が知っていたら魂が抜けていることになりますから、ちゃんと安眠なすっているみたいで安心いたしました。」
多分そういうことじゃないなあ!と大声を出して言いたい気持ちになった。でもここで言ったらモナに言葉遣い、と笑顔で叱られることは必至である。しかも全部言うじゃん、とか絶対に言えない。モナは怒ったらとんでもなく怖いのだ。父より母よりよっぽど恐ろしい。弟妹達もモナを怒らせたときは私を頼っていたものだ。勿論首を横に振って応えた。大人しく怒られていた方が早く済むので。
閑話休題。旦那様が私の名を呼ぶ練習をしていたとは、しかも私が寝たあとに帰ってくるとは、騎士団の長というものはそんなに多忙でいいのか。私が寝たあとに帰ってきて、私が起きる前に出ていくのであれば、ろくに休めもしていないだろう。手元の書類を一枚、見分を終わらせてサインを済ませ、私は立ち上がる。
「モナ、今日はもう用事は無かったわよね?」
「ええ、お嬢様。私が把握している限りでは無いかと。ジョバンニに確認致しましょうか?」
「いいえ、大丈夫。旦那様に直接聞くわ。」
「……では、湯あみが終わってからに致しましょうか?」
「そう―……いいえ、構わないわ。あの人、私を何日も放っておいたんだもの。どうせ夫婦なのだし、構わないでしょう。怒られたら待つわ。」
「あらあら、まあまあ。」
お嬢様も立派になって、といった雰囲気を薄っすらと感じる。夫の湯あみ中に侵入する妻なんてそう居ないだろうし、モナにとっては幼い頃を思い返して懐かしんでいそうだった。そんな雰囲気を無視して、私は浴場へと向かう。モナが先に人払いをして、シェードの向こう、明かりの揺らぎと共に影が揺れ動く。一息、深いため息の声がした。
「すまない、布巾を水で濡らして、持ってきてくれ。」
シェード向こうの私の影を彼は見ていないのか、そのように声をかけてきた。私は布巾を水で濡らし、シェードを超える。浴槽の縁に背を預け、黒い髪を掻きあげて瞼を閉じる彼の顔は、精巧な彫刻像のように美しかった。
「ああ、ありが―……え、ぁ?」
「ごきげんよう、旦那様……では、なくて、……その、リヴェル、様。目は覚めまして?」
「……っは?あ?え、何……?えっ、な、なんでっ、君が此処にっ?」
「あら、先ほどは私の名前を呼べましたのに。」
「さっきは疲れててどうかして、いや、え?ま、待ってくれ、どうしてここに?」
思い切り身体を起こして、ぱしゃりと浴室の床にお湯が零れる。スカートが濡れそうだと少しだけ後ずさると、彼は大きなはずの浴槽の中で身体を隠すかのように身を縮こまらせた。
「リヴェル様とお話がしたくて参りましたの。湯あみ中に入ったのは申し訳ないとは思っておりますが、半月も留守にされてらっしゃったら、今度いつお会いするかもわかりませんし、致し方なく強硬手段を取らせていただきました。」
「その、一応夫婦とはいえ、男と女なのだから、もう少し、こう……」
「慎みを持って会話をする段階は過ぎ去ったと思いますけれど?」
「あの、まあ、確かに……ジョバンニから君が話をしたいという要望は聞いていたんだが……。すまない……。」
髪から滴り落ちる水滴が湯船へと落ちる。冷静に考え出して落ち着いたのだろう。彼は身を縮こまらせたままではあるが、話を聞いてくれる気になったようだった。
「……取り乱した。それで、その。話とはなんだろうか?」
「最近王都で流れている噂はご存知でしょうから、その真実を知りたいのです。」
湯船が揺れる。一瞬目を見開いたかと思うと、少しだけ視線を彷徨わせてから、彼はゆっくりと口を開いた。
「その、噂というのは……。」
「ええ。戦場で死んだはずの第二皇子が”生きて”戻ってきた、という噂ですわ。」
―…そう。つい数日前より、戦場より遠く離れた北部より流れてきたその噂は、みるみるうちに王都へと広がった。特に、私は第二皇子の元婚約者であっただけあって、噂が辿り着くのも早かった。その日の夜から、彼についている従者宛てに会話の打診を図っていたのだが、多忙で家に帰ることが出来ないという点から、会話をすることが今日まで難しかったのである。
一応私の方でも、噂の収集は行った。曰く、第二皇子が死んだというのは虚言である。死体の山々に潰されかけていたところを何とか抜け出したが、すでに両軍は撤退した後。地図一つ持たず彷徨い歩くうち、自分の姿を整えることも出来ず、浮浪者同然の人間を誰も皇子だとは思わない。何とか辿り着いた北部で親切な人間に手を貸してもらい、身を整えれば、其処から高貴な人間が現れたものだから平民たちはびっくり仰天。この放浪の間に人が変わったかのように誠実になり、今後は父、ひいては第一皇子である兄の治世を支えていきたいと王都へ帰還しようとしている、というのが、モナがまとめてくれた噂である。
所詮噂は噂だと笑い飛ばせるほどに気楽な性分ではない私は、戦死を報告した張本人―…つまりは、目の前で何を言うべきか言いよどんでいる旦那様に聞くべきだと直感した。
「取り繕った言葉は必要ありません。真実……いいえ、事実を教えて頂ければ結構です。」
「……分かった。だが、その前に。」
一つため息を吐いて、彼は温まりすぎたのか、少し胡乱な視線を私に向ける。力ない笑顔が、ぎらと歯を剝いたようだった。
「…のぼせそうだから、上がってからでも構わないか?」
「すぐに使用人を呼びます。水も持たせますから、しっかりとお飲みください。」
「ああ、ありがとう。助かるよ。」
手に持っていた濡れ布巾は既にぬるくなっていた。使用人を呼び、世話を頼んでから、寝室へと戻る。言伝も頼んだし、問題はないだろう。
暫くして、彼は寝間着姿で寝室へと入ってくると、ソファに座っている私を見つめ、同じ高さにあるソファではなく、床に跪いた。その姿に、頭痛がした。
「リヴェル様、ソファにお座りください。」
「いや、このままで、」
「お座りくださいと、申し上げております。貴方は私の臣下ではなく、夫なのですよ。」
「だが、」
「同じことを繰り返し言う暇が惜しいのです。命を下される方が楽なら、そうしましょうか?座りなさい、と。」
「…………すまない。」
すぐに謝る彼に、深くため息が漏れる。いけない。こんな風に不満をあらわにするべきではないのに。
ソファに座った彼は、唇を何度か開けて、そのたびに声を出そうか迷っているようだった。
「まず、私は、第二皇子について特別な感情を抱いたことは一度もありません。公爵家に生まれたものとして、皇族と縁を繋ぐことは誉でありましょうが、私には何の意思も、決定権もないため、従っていただけです。」
「……おれは平民上がりだから、貴族のそういう……情緒というものは、よくわからないが、皆そういうものなのか?」
「皆ではありません。政略とは言え愛し合うことはあるでしょう。ただ、私達は愛し合うということはありませんでした。あの方は私のようなつまらない女より、愛嬌のある女の方がいいと常々紳士間で話していましたし、そんな男を愛するなど、出来るはずがないでしょう。」
私の第二皇子への悪態に、彼は少しだけ肩の力が抜けたようだった。ただ、愛嬌のある女のくだりを告げた時の、一瞬の指の震えを、私は見逃さなかった。
「先ほど、事実を聞きたいと言いましたが、言いにくいのであれば、構いません。当て推量にはなりますが、どうせ戦場の息抜きで遊んで娼婦に良いように持ち上げられて、駆け落ちしようといったところで、戦死の報告を貴方に強要したのではなくて?」
「本当に当てずっぽうか?おれが確認した噂の中ではそのようなことは出ていなかったはず……。」
「あら、ではおおむね事実ということですね。」
「ああ……。洞察力が高くて賢くて美しい妻を持てて心底幸せ者だと思う。」
「一旦惚気るのやめて頂けます?いよいよ照れましてよ?」
「それは大分見たいな。」
一瞬気が緩んだのか、頬を緩ませる。その姿に私も少しだけ気が緩んで微笑むと、彼は湿った髪を鬱陶しそうに掻きあげ、ソファに凭れながら、うんざりと声色で伝わるほどの話を続けた。
「ジョシュア殿下は、おれ達の上司だった。とはいえ、戦場の指揮はほとんどおれと、他の将軍たちと相談して話し合っていた。言い方は悪いが、飾りの頭といったところか。いつも退屈そうにしていて、突飛な作戦を思いついたかと思えば、現実的でないと否定されて拗ねて、何をどうすればあんなにタチの悪い子供のように成長するのかと思ったものだ。」
第二皇子であるジョシュア皇子は、皇后陛下の子ではなく、第一皇妃殿下の子だ。第一皇妃殿下は皇帝陛下から寵愛を強く受けていたため、その子供であるジョシュア皇子をそれはもう砂糖とシロップで煮詰めたのではないかと思うほど甘やかして育てられていた。
そのため、平民上がりの兵士や、軍部たたき上げの将校たちからはそのような評価になるのもうなずける。そしてないがしろにされた彼は、癒しを求めて娼婦街に赴くようになった。酒と女、享楽に耽るようになれば、戦場に寄り付かなくなる。
「最初はそれでいいかと思ったんだ。決定権が一人減るだけで、特に問題がなかったし。ただ、そのうち殿下が、一人の娼婦に入れ込み始めて、駆け落ちをしようと思うと、おれが相談相手に選ばれた。まあ、他は老獪な将軍たちだったりするから、否定されるかと思ったんだろうな。」
「貴方は否定しなかったのですか?」
「まあ、一応聞かされた娼婦の名前に心当たりが、あ、いや!おれは利用してない。娼婦街に行く金なんてなかったし、自分の性分を死ぬほど分かっているから、なるだけ女に近づかないようにしていたので、心当たりがあっただけだ、信じてくれ。」
「こうなる前のことですし、私は特に気にしませんが……。」
「君に誤解されたくないんだ。」
「大丈夫ですったら。」
そもそも結婚するなんて考えても居なかっただろう以前のことを咎めるつもりはない、と首を横に振ると、彼は心底安心したように微笑んで続けた。
「良かった。……まあ、とにかく、その娼婦が北部産まれだということしかおれは知らなくて、娼婦の身の上話なんて同情と一緒に部屋に連れ込むための常套句だから、話半分に殿下から聞いていた。婚約者がいるということは知っていたから、どうするのかと聞くと、あまり思い出したくないことを言われて……まあ、好きにしたらいいんじゃないかと言った。大きな作戦のあとで、頭が回らなかったんだろうな。それで、肯定したと思われて、戦死したことにして抜け出す気でいるから協力しろ、と……。」
「それで、協力をしたんですか?」
「そうだ。協力しなければ、権限を使って、俺の所属している軍部だけに食料や医薬品の給付をやめさせると言ってきた。おれがどうなろうと構わないが、……命を懸けて戦っている部下たちに、この程度のことで……死ねと言っているようなものだと思った。」
実直そうな彼が、戦死したと虚偽の報告をするというのも信じがたかったし、素直に協力したのもおかしいと思っていた謎が解けたと同時に、同情した。
私が知っている限りのジョシュア皇子の性格上、脅迫はするが、実行はしないだろう。そもそも、権限を使ったところで食料や医薬品の配当を崩すことはできない。ただ、戦場という限界化しやすい秩序であればこそ、その脅迫は身に染みて彼を怯えさせたのだろう。
だが、彼は一つため息を吐いたかと思うと、歯を見せて凶悪そうに笑った。
「……作戦も控えていたので、協力する手はずを整えて……何かあった時のために、他の将軍たちにも事情を説明した。皆呆れかえっていたが、もとより居なくなっても困らない人だったのもあって、何かあった時は擁護に入るということで、殿下を戦死したことにした。書状で皇帝陛下にお伝えするときに、戦死については虚偽の報告であることを前提に、事情も説明した。」
「……えっ?」
「協力するとは言ったが、バラすなとは言われてないからな。」
しれっ、と抜かした彼は、私を見つめて、片眉を上げながら、触れても?と呟くように問うた。戸惑いながらも、私は頷く。指先に伸ばされた彼の武骨な指は、湯上りがすっかり冷めたにも関わらず、自分よりも体温が高かった。
「皇帝陛下に書状を送ったのはおれだけじゃなく、他の将軍たちも戦争中の第二皇子の行為について陳情していた。皇帝陛下はそれでも切り捨てられなかったそうだが、皇后陛下と、第一皇子殿下が廃嫡すべきと声をあげたらしい。国民が汗と血を流して戦っている戦場で、娼婦なぞにうつつを抜かし、挙句の果てに戦死したとあたかも名誉ある死を遂げたかのように偽装するなど、ナメているとしか思えないからだろうな。」
「ええ、まあ、仰る通りではありますね。第一皇子殿下は王位継承権争いをしなくて済むでしょうし、皇后陛下も第一皇妃殿下を黙らせることができますもの。」
「そういうわけで、噂に関する事実はおおむねこの通りで、裏で手回しも済んでいるわけなんだが、北部の連中が出張ってきていて、それに時間を割かれていて今の今まで、時間が取れなかったんだ。」
「では、暫くはゆっくりできる、と?」
少しの期待を乗せて問うと、彼は乾いた笑いを浮かべて遠い目をした。少しだけ首を横に振ったのに、またどこかに行くのかと思わず彼の手を指先で握ると、彼は目を見開いて、頬を赤く染めた。
「違うんですの?」
「あっ、の…その、ジョシュア皇子が!おれを訪ねてくるかもしれなくてっ…!君は領地に一足先に避難をしていてもらおうと、そういう話をっ!」
「嫌です。」
「嫌です!?」
「むしろ迎え撃ちます。来たら憲兵隊を呼んで構いませんこと?」
「え、ああ、勿論。それは、むしろ呼んで欲しいんだが、その、恐らくだが秘密裏に処理されると思うが大丈夫か?」
「知ったことではありません。そんなことより、あなたの噂の改善のためにも、私と共にいた方がいいかと思います。」
「おれの噂?新妻をほったらかしにしているクソ男、の他に?」
そこまで把握していて何故改善しないのですか、と私は笑顔で圧をかける。大きな体躯が萎んでいくのを見ながら、少しだけ溜飲が下がった。今私が話題にしたい噂は、それではないからだ。
「第二皇子から婚約者を寝取ったクソ男、だそうですよ。」
「おれと君の結婚は戦争が終わってから決まったことなのに?そもそも顔合わせしたのも結婚式が初めてなのに??」
「実際はどうあれ、噂はそう、というだけです。」
この噂を聞いたとき、私は鼻で笑った。寝取ったも何も、結婚するまで彼との接点は無く、皇命でなければ繋がることも無かった縁をそのように表現するなど、第二皇子でなくとも、北部の貴族がやりそうな一手ではあると思ったからだ。
ともあれ、民衆は噂に踊らされるもの。戦争の英雄の醜聞など、口さがない者たちには格好の餌だろう。
くだんの本人は、少しだけ悩んだ後、指をゆっくりと絡めながら私を見つめた。
「とりあえずジョシュア元第二皇子の排除が第一目標として、噂を潰すためにも、おれたちが愛し合っているという風に見せかけた方がいいか?」
「それではまず、お名前を呼び合うところから慣れていきませんとね、リヴェル様?」
名前を呼び合えない夫婦など、聞いたことがない。微笑みの圧をかけると、彼はしどろもどろに口を開いた。
「威力が強すぎる……!ますます惚れてしまう!」
「何か問題がございますか?」
「むしろ何も問題がないことが怖い。こんなに美しく可憐な人がおれの妻だなんて、いつかバチが当たりそ、うっ……!」
「私が鞭達者になるのとどちらが先でしょうか。さ、お名前を呼べるよう頑張ってくださいまし。」
手の甲をつまむように痛めつけながら笑みを浮かべたままでいると、彼はソファに置かれていたクッションを掴んで自分の顔に押し当てた。
「好きだ!!」
「声が抑えきれてな……いやこれ抑えきれてる方かしら?」
戦場で培ったであろう肺活量のせいで、クッション越しでも熱い気持ちが伝わってくる告白に、そういうことは言えるのに名を呼べない不器用さが、少しだけ可愛らしくて。つい、私は指を解いて、クッションに顔を埋めたまま俯いた彼の頭に手を伸ばした。
存外柔らかい髪だと思いながら、頭皮を滑るように髪を弄んでいれば、髪の隙間から見える耳が赤く染まっていく。分かりやすく照れている様に思わず笑みが漏れてしまえば、クッションの隙間から、熱で潤んだような瞳が私を少しだけ恨めし気に見つめていた。
「本当に好きだ……。」
「このようなことで惚れていただけるなら、いくらでもそう致します。」
「……見返りを求めてしまいそうで嫌だ……。」
返ってこない愛は虚しいもの。声をかけても返事が無ければ、無いのと一緒。そう慣れてしまった彼が、私が愛すなら愛せばいいとそう言ったことで、愛の見返りを求めたくなる程度にはそれが膨らんでいるのだとしたら。
「……まさか、私がなんとも思っていない男に触れるとでも?」
「えっ」
「弟の頭を撫でたこともありませんのに。」
「えっ、えっ?ほ、ほんとうに?」
「妹達にはありますけれどね。……信じられないなら口付けでも致します?」
私の提案に、身体を思い切り起こした彼は、顔を真っ赤にしたまま、口を開いたり、閉じたり、呼吸がうまくいっているのか心配になる程狼狽していて、少し難易度を上げすぎたかと心の中で独り言ちる。
「無理なら、」
「無理じゃっ、ない!いや、あのっ、ダメだ!」
「どっちですの?」
「無理じゃないんだ、ただ、その……っ、いいのか?」
「ええ。」
この様子だと、本当に女性経験も薄そうだと、そう考えた瞬間、熱い指先が頬を滑って、顎を撫でる。くん、と持ち上げられた視線が近く、けぶるようなまつ毛が眼前にあった。
柔らかな感触は少しだけ乾燥しているようで、熱い吐息が隙間から触れる。ぬめらかな熱が唇を一瞬、撫でたかと思うと、割り入れられた隙間から、私の舌を掬う熱が、歯列をも蹂躙するかのように撫でる。
「ん、んぅ、っ!?」
舌を奪われた衝撃と、知らない快楽が背筋をなでる。腰に触れたらしい彼の手が、ゆっくりと背骨を這うように撫でて、思わず逃げようと顎を引こうとして、後頭部に触れた手が、ぐ、と深く唇を沈めた。
「逃げンな、」
鼓膜を震わせた低く甘い声は、常に丁寧だった彼からは予想もできないほど乱雑で、衝撃をもって私の動きを止めた。舌を絡ませて、奪って、吸って。好きなように堪能した彼が唇を離した時には、銀色の糸が私たちの口を繋いで、私は足りない酸素を求めるように息を吸っていた。
「……はは、油断したな?」
「…………あなたってひとは……!」
「おっと、そう怒らないでくれ。平民上がりのおれが、ただ剣を振ってるだけでこんな地位に就けるわけないだろ?」
悔しさにぐうの音も出ない。男は狼だと、さんざんモナにも言われていたのに、すっかり油断していた。私の髪飾りを指先だけでほどいて、髪をなでる男の顔は先ほどまでと違って色っぽい。悔しくて睨みつけていたら、指先がするりと私の唇をなでた。
「……そんな目で見られたら、もう一度を期待しているみたいだが?」
「……しませんっ!」
「そいつは残念。では、おれの女王陛下のご機嫌が良くなったころにでも、もう一度させてくれ。今日はもう寝よう。……一緒に?」
「寝ませんっ!」
「ははは!」
大声をあげて笑う旦那様―…リヴェルの姿は悔しいほど、余裕綽々で。頬にそっと口づけて、逃げるようにその場を離れれば、目をまぁるくした彼が扉の向こうで間抜けに口を開いていた。
「おやすみなさいませ、……リヴェル。」
扉を閉めて、廊下を去ろうとした瞬間。
「好きだが!!!??!?!!!?!」
響いた大声に、思わず笑ってしまった。
◇◆◇
「本当にすまなかった、シロン!」
頭を下げて謝罪の言葉を紡げば、目の前の女―…シロン・アルケリカ元公爵令嬢、現リヴェル侯爵夫人は、目を細めて俺を見つめた。首を傾ければ、涼やかな水色の髪が、開かれた胸元にすとりと落ちる。ごくりと喉を鳴らしそうになった俺に、シロンは艶やかな唇を開いた。
「……すまなかった、とはどういうことでしょうか?」
「それはもちろん、お前をあんな蛮族へと嫁がせてしまったことだ!聞いてくれ、俺はあいつに騙されたんだ!」
「あいつ、……とは、どなたですか?」
「決まっている、あの平民……リヴェルだ!」
「まぁあ……そう、でしたの?」
「お前は騙されているのだ、いいか、俺は……」
リヴェルのクソ野郎、平民上がりの一兵卒だったくせに、たかだか戦場で敵の首を切った数が多いというだけで将軍まで成り上がり、俺の命令を素直に聞いたかと思えば、俺をハメやがった。
確かに、グリンダはいい女だった。特に身体の具合が。それに、顔はシロンとは違って無邪気に笑うその表情は可愛らしくて、俺のエスコートがなくてもまっすぐ前を向いて立っているシロンと違い、俺にしなだれかかる華奢な可憐さに俺がつられてしまったのは仕方がないことだろう。しかし、グリンダはその分金遣いが荒かったうえ、俺がグリンダのために戦死を装って迎えに来た、といったのを喜んだかと思えば、その日の夜に俺から金品類を盗んで逃げやがった!
おかげで俺は不味い飯を食うことになり、必死に愚か者共に媚びねばならなかった!この屈辱を果たすためにも、グリンダを北部の人間に探させたが、一向に見つからない。そのうえ、俺は戦死したものとされているから、王家におめおめと顔を出せるはずもない。
だが!シロンならば違う!シロンは俺を慮った手紙を何度も送ってきたし、今だって胸元の開いたドレスで俺を温かく迎え入れ、邪魔をしないようにと俺とシロン、それから気弱そうなババアのメイドが一人……これは完全に誘っているだろう!
やはりあの平民ではシロンにふさわしくない、俺のような王家の黄金の血が流れている者こそがふさわしい。象牙色のきめ細やかな肌、白い首……何より、以前まではきびきびとした話し方だったのに、まるで俺といる時間をしっかりと楽しみたいかと言うように、ゆったりと話すようになって、表情も柔らかくなった。以前からそうしていれば、俺だってあんなに冷たくは接さなかったが、やはり俺と分かたれて、俺を恋しく思ったからこその変化だろう。なんともいじらしいじゃないか。
それに、今は侯爵夫人に格落ちしたとはいえ、もとは公爵令嬢だ。社交界での発言力は馬鹿にできないし、彼女さえ俺を認めれば、王家の一員には戻れずとも、シロンを手に悠々自適に過ごせるだろう。そうなれば、あのクソ野郎もグリンダも、俺を馬鹿にした罪をあがなうことになる……!
「……というわけなんだ。俺は北部の民に感謝している。確かに争いはしたが、彼らだって彼らの土地を守ろうとしただけなんだ、わかるだろう?」
「ええ……ですが、やはり……長年、争い続けてきたことがございますから……北部の方たちは、ゆるしてくれるのでしょうか?」
「問題ない、この俺が直々に、王陛下代理として印璽を押してやった。グリンダ……ああ、リヴェルがグルだった娼婦の名なのだが、さすがにこれには手を出さなかったようでな!」
俺は中指に光る印璽の指輪をシロンに見せつける。この指輪があればこそ、俺は軍でも一目置かれていた。この指輪が王陛下の代理であるという証明で、俺が第二王子であるという証明になる。
シロンが一瞬目を見開いた後、すぐに眉を寄せ、ちら、と老メイドを見た。
「どうした?」
「……その、印璽なのですが……ねえ、モナ。持ってきてくれる?」
「かしこまりました。」
そう言って老メイドが持ってきたのは、俺の指輪にはまっている指輪と同じ指輪。
「……どういうことだ!」
「第二王子殿下が死んだ証明として、ある女性が持ってきてくれたのです。私とて、第二王子殿下が死んだとは到底信じられず……!」
「何を言っている、こんなものは偽造だ!その証拠に、俺はこの指輪を外したことなど―…!」
……ある。まだ戦場にいたとき、グリンダと共寝をした夜はいつも、指に嵌まっている指輪が痛いと言われたから外してやっていたのだ。まさか、その時に……?いや、確かに……だが、グリンダがわざわざ偽造をしてまで、シロンに……?
俺の疑問を認識したのか、シロンは俺を見つめ、ハンカチで口元をそっと覆って瞼を閉じた。
「……私も、戦場のうわさは聞いておりました。その中に、……殿下が、娼婦に懸想しているとの噂も……。」
「シロン、誤解だ!」
「ええ、ええ、わかっております。まさか、娼婦の戯言を真実と思う者などおらぬでしょう。」
心臓が跳ねる。
「……ですから、第二王子殿下が死んだと聞いてすぐ、懸想をしていたと噂の娼婦に連絡を取ったのです、そうしましたら、こちらを差し出してきて……謝礼にと、公爵家から1千万、王家からも褒賞を与えたはずです。まさか、第二王子殿下の印璽を複製しようとする愚か者などいるわけがおりませんので……ろくに確かめもしませんでしたが、……本当に、貴方は第二王子殿下なのですか?」
「な、シロン、俺を疑っているのか!?」
思わず声を荒げると、シロンは肩を思いきり跳ねさせ、自身の身体を抱きしめるように前で腕を組んだ。開かれた胸元から寄せられた胸がしっかりとした深い谷間を作る。ごくりと喉が鳴った。北部の民の女の身体つきは鍛えすぎて食指が動かないばかりか、グリンダのように可愛らしくも、シロンのように美しくもない。女日照りとなることはなかった己に、シロンの姿はまさしく毒だった。
「……では、その身体に教えてやろう!」
「きゃっ!な、なにを……おやめください!モナ、助け、」
「お嬢さ、ギャアッ!」
「ええい、やかましい!」
老メイドを振り払えば、思いのほか軽い体が壁へと打ち付けられる。シロンが慌てたようにモナ、と老メイドの名を呼んだのを煩わしく、思いきり頬を張ると、赤らんだ頬と薄らと涙が移った美しい目が俺を映した。
「貴方は……っ!」
「証拠だの偽造だの、鬱陶しい……!貴様は元は俺のものだったんだ!それをあんな平民なんかに尻を振って……!高貴な種をくれてやろうというのだ、ありがたく股を開いたらどうなんだ!!ええ!?」
「っつ゛、ぅ……―……ふ。」
もう一度頬を張れば、シロンの口元が一瞬緩んで、息を抜いたかのような笑みが漏れた。思わず押し倒していた身体と、ドレスの胸元にかけていた指先の力が抜ける。
「本当、貴方って愚かなのね。残念だわ。」
「何?」
「―……キャアアァアアアアアア!!!!」
絹を裂くような悲鳴が、シロンの口から響く。身体を離そうとした瞬間、扉が開く。憲兵団の制服を着た者たちの真ん中で、忌々しい男が俺を見下ろし、そのまま俺に近づいてくるかと思えば、俺の襟首を掴んだ。
「シロン、後で覚えとけよ。」
「あら。……私より、モナは大丈夫かしら?」
「お嬢様、後で私からも説教がございます。覚悟してくださいまし。」
「あっ、はい……。」
「おれよりモナが叱ったほうが効きそうだな。」
俺の眼下で、和やかな会話が繰り広げられる。襟首を掴まれたおかげで、息が苦しい。じたばたと見苦しくも手足を動かして逃れようとした瞬間、リヴェルは化け物みたいな力で俺を憲兵団へと投げた。
「王族偽称、詐欺、貴族への暴力罪で逮捕する。留置場へと連れていけ。」
「ま、待てっ!俺、俺は第二王子だぞ!この国のっ!」
「第二王子殿下は戦場で名誉の戦死を遂げられた。この指輪が証拠だ。」
「貴様ッ…!リヴェル!謀ったな!シロン、アバズレめ、そんなに平民のモノが良かったのか!?貴様のようなつまらぬ女を抱いてやれる男など、っぐあ゛っ!」
「罪状に、侮辱罪も連ねておけ。」
鳩尾めがけて打ち込まれたこぶしに、胃液が喉の奥からあふれ出す。シロンが老メイドから差し出されたストールを巻き、俺を見つめてそっとリヴェルの肩からのぞいたかと思うと、耳元でささやいた。
「やっと、棺の中身が揃うようで。きっと両陛下も安心なされますよ。」
その言葉にシロンを見つめれば、シロンはにこりと笑みを浮かべ、リヴェルの腕に抱きついた。頬を撫でるリヴェルに少し眉を寄せながらも、その手にすり寄って幸せそうに微笑む姿は、俺の見たことのない姿で。手を伸ばそうとしても、俺の手は憲兵の手によって捕縛され、後ろ手に回されて。足を向けようとしても、何倍も強い力で引きずられて。
俺はその幸せそうな姿を、扉の向こうに見送ることしかできなかった。
◇◆◇
モナの説教、こわい。もう二度と受けたくないと思ったそれを、まさかこの歳になっても受けることになろうとは。しかも、言い縋ろうとしても、隣のリヴェル様がもっと言ってやれ、と援護射撃を繰り出すものだから、モナの口が乗りに乗っていた。ジョバンニが止めてくれなければ夜明けまで続いていた可能性がある。食事と湯あみを済ませ、寝室の扉を開くと、リヴェル様がぶすくれた顔で椅子に座っているのを見て、そっと添えられた寝酒用のワインに手を伸ばした。その手首をリヴェル様が掴んで、彼の胸へと引き寄せられ、私は彼の膝の上に座ることになった。
「……リヴェル様。」
「……おれ以外の男に、傷つけられンな。」
「あら。……いつもの上品な仮面はどうなさったの?」
「置いてきた。”そっち”がお好みなら、取りに行ってくる。」
「いいえ。どちらも等しく貴方ですもの。」
未だぶすくれた表情のリヴェル様のもみあげから指先を滑らせて、そっと頭を撫でてやる。やらかい髪が、湿り気を帯びている。椅子にかかっていたタオルに指先を伸ばすと、思いのほか密着した体勢になって、目線がかちあう。
「……好きだ。」
「……ええ。はい。存じております。ですが、」
「お前に、おれと同じモノは求めてねえ。それでも、いい。」
指先が、うなじを撫でる。熱い温度に、指先から溶けてしまいそうだった。彼の愛の言葉を伝えられても、なお、私はそっけない言葉を返してしまった。
だって、どうしたって私は、彼の重たい愛や、執着と同じものを返せる気がしなかった。
それでも。表情をころころ変えながらも、熱っぽい瞳で見つめられて。私に何かするときは、必ず私を尊重してくれて、私が囮作戦を実行できたのも、彼の忍耐があったからといえる。二言、三言と添えられた手紙が一日でくしゃくしゃになるほどに、彼の言葉はうれしい。彼のことをもっと知りたい。
このまま彼の胸へ溶けて消えていけたら、どれだけ楽だろう。そう願うほどには、私は彼を。
「……私は、貴方に恋をしたばかりです。」
「ああ。」
「貴方と同じものは、一生返せません。それでもよろしいのでしょうか。」
「構わねえ。もうおれ達は夫婦なんだし、これから今までの倍、人生もあるだろ。」
「気の長いこと。」
「そうでもねえと、作戦なんて立てられないだろ。」
ふ、と息が漏れるような笑みを浮かべて、リヴェルはうなじに伸ばした指先を、そっと私の唇へと触れさせる。
「……なあ、いいか?」
「……する、のでしょうか?」
「おれの女王陛下のお望みのままに。」
「…………意地の悪い人。」
「誉め言葉だ。……で?」
ろうそくの光が揺れる。彼の黒い瞳が、らんらんと光る。許可を出してしまえば、きっと。
「…………構いません。お好きになさって、リヴェル。あなたの、望みのままに。」
「…………好きだ、シロン。」
息を奪うような口づけと共に、ろうそくが消えた。
月明かりだけが部屋を照らす。シーツの海の中、私は何度も彼の名を呼び、応えるように彼が私の名を呼ぶ。降るような愛の言葉におぼれそうになりながら、私は息継ぎを求めるように彼の唇に触れた。
願わくば、この恋が、愛に代わるまで、すぐでありますように。
祈るように、指先が絡まった。




