ひまわりと、海3 再会
「どう、仕事慣れた? 飲みに行こうよ」
東京に来て仕事を始めてから二カ月がたった頃、なつみから連絡があった。
正直言って、外に出たくなかった。疲れていた。慣れない生活と、慣れない仕事。毎日夜遅くまで働き、帰って寝るだけの日々。彼女たちを探す気力すらもなかった。
「なんか、やっと社会人になったって感じだよね」なつみはそんな僕を見て笑った。
こんなふうに外で飲んだのはいつ以来だろう。彼女は慣れた様子で酒とつまみを注文し、嬉しそうにジョッキを手にしている。昔から、なつみは酒に強い。
「絵は描いてる?」「……いや」そんな余裕はなかった。こっちにきて、まだ一度も絵筆を握っていない。「さすがのハルでも、忙しくてそれどころじゃないか」彼女は笑った。
「ここらへんは海の絵は難しいけど、公園に行ってみたら? あそこなら、自然の中で絵が描けるんじゃない?」
今住んでいるところの近くには、都内でも有数の大きな公園があった。確かに、少しは頭を切り替えて考える時間が必要だ。「そうだね。週末にでも行ってみるよ」
週末の公園は多くの人がいた。親子連れや、カップルの姿も多い。紅葉の時期はもうそろそろ終わろうとしていた。木々のすき間から、柔らかい日差しが降り注ぐ。僕はなるべく人の少なそうな湖畔のベンチに腰掛け、スケッチブックを広げた。
描き始めると、不思議とすっと入り込めた。気持ちが集中する。まわりの喧騒が遠のいて、静かな中でただ手を動かしていた。ふと気づくと、後ろに誰かが立っていた。
「もしかして、ハルくん?」
名前を呼ばれて、振り返る。「やっぱり、ハルくんだ。どうしてここにいるの?」
風花だった。ずいぶん大きくなっていた。声も以前とは違い、大人っぽくなっている。
この近くに住んでいて、今日は小学校の友達と遊びに来たんだという。まさか、こんな近くにいたなんて。「絵を見て、すぐにハルくんってわかったんだよ」
いろいろ聞きたいことがあった。何から聞いたらいいのか。頭が混乱したまま戸惑っていると、風花は「友達が待ってるから」とその場を離れようとした。
「待って。来週もここで絵を描いてるから、来てくれる?」
それだけ言った。風花は、「わかった。約束ね」笑顔で手を振った。
それからの一週間は、ひどく長かった。心の中がざわざわして、何も手につかなかった。先週と同じベンチに腰掛けて待っていると、約束通り、風花がやって来た。一人だ。
「風花、大きくなったね。今何年生?」
「二年生」「学校は、楽しい?」「うん」「友達できた?」肝心なことが、聞けない。
ママは元気にしてる? 仕事は? どんな生活してるの? ――恋人は、いる?
「ハルくんは、ママのこと、聞かないの?」
風花は不思議そうな顔をして僕の顔を覗き込んだ。「ママのこと、好きじゃないの?」
女の子は、こちらが思うより大人だ。「ママはね、今、社長さんのお世話をしてるの」
風花の話によると、アヤカさんはある会社の社長の家で家政婦のような仕事をしているらしい。社長の家の敷地内にある離れに親子で身を寄せ、家事などをしているという。
「そう。社長さんって、どんな人?」思わず聞いた。「何歳くらい? 奥さんはいるの?」
「たぶん四十歳くらい。社長さんの奥さんはすごく忙しい人で、あんまり家にいないんだって。だから、ママが代わりにご飯を作ってあげてるの。ママは料理が上手だから」
少し自慢げにそう言った。
「今日、僕に会うこと、ママは知ってるの?」すると、風花は困ったような顔をした。
「ママには言えなかった……言ったほうがよかった?」うつむいて、何かを考えている。
「ハルくんに会ったら、ママ、泣いちゃうかもしれない」
「泣いちゃうの?」風花は何か言いたそうだった。でもそれが何か、よくわからなかった。
「ママね、ときどき、すごく悲しそうな顔するの。社長さんに怒られちゃうんだって」
「怒られる?」
「うん。社長さんのおうちから帰ってきて、悲しい顔してるから、どうしたのって聞いたら、怒られちゃったのって」
気難しい相手なんだろうか。不安になった。アヤカさんは今、幸せなんだろうか。
「……僕がママに会いたいって言ったら、ママ、嫌がるかな」
すると風花は、首を傾げて少し考えていた。そして、顔を上げた。
「聞いてみる。ママも、たぶんハルくんのこと好きだから。会いたいって言うと思う」
次の週末。僕は同じベンチで二人を待った。心臓が飛び出しそうなほど、緊張していた。
「ハルくん」風花の声に、振り返った。「ママも来たよ」
アヤカさんが、僕を見て微笑んでいた。落ち着いた佇まい。あの頃と変わっていない。
「あ、私ね、友達の家に行く約束してるから。じゃあ、行くね」
風花は精いっぱい気を遣ったんだろう。僕とアヤカさんを置いて、すぐに姿を消した。
「……ハルくん」アヤカさんが、僕の隣に座った。「どうして、東京に来たの?」
その口調は、ほんの少し、僕を責めるような響きに感じた。胸に痛みが走った。