9、王子は口説きたい
「王子、ご無事でしょうか!?」
荒れた店内を見て、衛兵が慌てて王子に駆け寄る。
「ああ、ゴルゾーの魔術が暴走した。身柄を確保してくれ」
風でめちゃくちゃになった店内に、王都の衛兵が数人派遣された。ゴルゾー一味は、器物破損、王族への反逆罪、金利法の違反など…複数の罪状で拘束された。
店主のモルガは、手錠をつけられ連行されるゴルゾ―たちを横目で見た。コメットとジジは、愛する店が半壊状態になってしまったモルガの心境を想うと、胸が痛んだ。
モルガは、店内の惨状を見回しながら、がっくりと膝に手をついた。棚は倒れ、魔道具は床に散乱し、試作品の鍋型爆音器は真っ二つになって煙を上げている。店の天井からは木屑がひらひらと落ちてきていた。
「……ああ……奴の言う通り、今日で閉店だな……」
うなだれた声で、床に崩れ落ちそうになったそのとき、ふと、モルガの額に光が差したような表情が浮かんだ。
「……ま、待てよ……たしか……これ……」
モルガはがさがさと作業机の裏の鉄製の金庫を開けて、くしゃくしゃになった羊皮紙の束を取り出した。それを勢いよく広げ、目を皿のようにして読み込む。
「……火災・爆発・自然災害・暴走魔術による設備損壊……対象内……!!」
そして次の瞬間、モルガの顔がぱあっと明るくなった。
「入ってたぁぁああ! 保険、入ってた!!!」
バッと立ち上がり、両手を天に掲げるモルガ。くるりとその場で一回転し、壊れた棚の間を駆け抜けながら叫んだ。
堅物そうな印象だったモルガだが、あまりの喜びに少年のように喜びをあらわにした。
その様子を見たコメットとジジは、お互いの顔を見合わせて声を上げて笑う。
「おおおおお! ありがとう、過去の俺ー!! 未来の子どもたちのためって、無理して保険料払っといてよかったー!!!」
ジジとコメットは呆気にとられてその様子を見守っていた。さっきまで頭を抱えていた男が、今やぐるぐる回りながら喜びの舞を踊っている。
「保険って、大事ね」
コメットがぽつりと呟く。
「なんとかなりそうだな」ジジは腕を組んで小さく頷いた。
モルガは、壊れたカウンターの上に片足を乗せ、拳を高く突き上げながら叫んだ。
「よしッ!! 見積もり取ってゴルゾーに損害賠償請求も追加でぶちかましてやる!! 借金した額より被害総額のほうが間違いなく高いぞ!これで店を改装できる! いや、それどころか魔道具展示室も増設できるかも……いや、むしろ地下にショールームを——!」
目の前の残骸を前に、モルガの妄想はどこまでも広がっていくのだった。
すると、ジジがコメットに話しかけた。
「なあ、コメットはこの後、どうするんだ?……よかったら、王宮でしばらく、匿うこともできるよ」
願ってもみないジジの提案だったが、コメットの考えはすでに決まっていた。
「家に帰ろうと思います。私、今まで自分の能力が、気味の悪いものだって言われ続けて、今朝、婚約者にも捨てられて、どん底だったんです。でも、王子のおかげで、私の力は、救うための力だって…自分を信じることができました。だから、今の私なら、家に帰っても、なんとか生きていけるような気がするんです」
「そんな酷い扱いを、受けていたのか?」
「ええ。でも、なんとか生きていけるような気がします」
ジジは、コメットが何気なく言った一言から、彼女の不幸に思いをはせた。
すると、コメットの声が、静かに店内に響いた。
「王子、お会いできて光栄でした。さようなら」
その言葉に、ジジは一瞬、まばたきを忘れた。
いつもの冷静な顔を保とうとしていたが、彼の瞳の奥がわずかに揺れる。唇がかすかに動いたが、すぐには言葉にならなかった。
コメットは微笑んで一礼し、ゆっくりと背を向ける。ジジはただ、その後ろ姿を黙って見つめていた。
コメットの前に、『対の鏡』が現れた。
空中にぽっかりと銀縁の鏡面が浮かび上がる。淡い蒼光が走り、光を放つ。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、鏡面に指先を触れた。
*****
「……さようなら、だと」
小さく、息のように漏れた言葉。氷のような王子の声には、滲むような熱があった。
その背を呼び止めたい衝動が、胸の奥で波打っていた。けれど、それを声にすることはできなかった。ジジは、彼女の意思を最も尊重したかった。
ジジはゆっくりと拳を握りしめた。
いつかまた、出会える保証などどこにもない。
彼の瞳はまっすぐ『対の鏡』を見つめていた。
*****
足元に木のきしむ音が戻ってきた。
屋根裏の床。見慣れたベッドに、ほこりっぽい匂い。窓の外は真っ暗で、すっかり夜が姿を見せている。
コメットは、いつもの場所に立っていた。
「……ただいま、私の屋根裏」
呆然と呟いたその声だけが、屋根裏の静寂にぽつんと響いた。
喉が渇いたコメットは、水が飲みたいと思った。
コメットは屋根裏の扉をそっと開け、きしむ音に肩をすくめながら階段を下りた。魔力の転移で体の奥まで乾いていた。喉が焼けるように渇いていて、今はただ、一口の水がほしかった。
キッチンの水差しのある棚を目指して、静かに廊下歩いていくが、半開きのダイニングの戸の前を通った時、不運にもコメットは家族に見つかってしまった。