8、コメットの覚醒
「……嘘だろ」
ジジの頬を、砕けた魔道具がかすめ、血がにじむ。ジジはより強くコメットを抱き寄せ、水の膜で彼女をガードした。壁に掛けられていた年代物の羅針盤型魔道具は、——希少な初期型だった。青い水晶は、貴重な鉱石からできたものだった。
「こんなにも美しくて、完璧だったのに……」
声がかすれている。コメットは強風のなか薄目を開けて、右上を見上げた。冷徹と称される王子の顔に、抑えきれない哀しみの色が浮かんでいた。
コメットはその顔を見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。ジジの目に涙が滲みかけているのがわかった。どんなに冷たい表情をしていても、本当はこんなにも魔道具を愛しているのだと、改めて思い知らされた。
——そのときだった。
作業机の上でまだ無事でいる鏡が、微かに震え、青白く発光した。
今度は、コメットしか気が付いていないようだった。
「……え?」
その光の中から、低く穏やかな声が聞こえてくる。
優しげだけど、強い芯を感じる声。
<やあ。久しぶりだね。私は、人の手が誰かを救う道具を作った。道具は、毒にも薬にもなる。うまく使いなさい>
それは、まるで夢の中のように柔らかく、そして確かに響く声だった。
「……救う、道具……?」
コメットの胸の奥で、何かが強く脈打った。
——ジジが悲しんでいる。
——私は、その顔をもう見たくない。
——ならば、何かできるはず。
「止まれ! 止まれ!」
ゴルゾ―は青ざめた顔で魔力の流れを無理やり逆流させようとするが、風はさらに勢いを増し、店の奥に積まれていた古代魔道具の辞典までが風に舞い、ページをばさばさと翻していく。
「ジジ! 鏡が!」
近くの柱につかまっていたモルガは、飛ばされて宙に浮いている『対の鏡』を指さした。
その一言にジジはとっさに鏡をキャッチしようと手を伸ばすが、間に合いそうになく、顔から血の気が引く。
「マズイ、マズイ、マズイ!!!あれはクロウ・モルガンの――――」
その瞬間、コメットは両手を胸の前で握り、祈った。
鏡が急にピタッと落下を止めた。鏡の表面が、波紋のように揺れ、まるで深い水面のようにゆらいでいる。
「転移させます……魔術を、鏡を通して……!」
「コメット、何を――」
無意識に、コメットは鏡に向かって手をかざした。
——次の瞬間、鏡の表面がまばゆい青い光を放ち、波紋が幾重にも広がる。
すると、光が風を吸い寄せるように、店内を暴れまわっていた風魔法の奔流が、ぎゅるん、と逆巻くような渦を巻きながら鏡に引き寄せられていく。
「……えっ」ジジが驚愕の声を漏らす。棚をなぎ倒し、魔道具たちを吹き飛ばしていた風が、今や一本の帯のようになって鏡の中へと吸い込まれている。
鏡の表面は激しく揺れながらも、深い湖の水面のように冷たく、美しく光っていた。暴風が触れた瞬間、水面のような鏡がふっと沈み込む。まるで風そのものを、もう一つの世界に飲み込むように。
そして——
*****
遠く、広場の中央に設置されたままだった『対の鏡』が、突如として唸りを上げた。鏡が青白く光り、直後、突風が鏡の向こうから流れ込み、露店が並ぶ広場の上空へと吹き抜けた。鏡は器用にも、破片は鏡を通さずに、風だけを転移させていた。
街ゆく人々が突然の強風に驚いた。まるで春一番の風のように、紙や葉が舞い、旗が千切れそうになる。そういえば寒さも和らいできた、と人々は春の訪れを喜んだ。
鏡を見守っていた白狼は、その風を見届けたあと、雑木林へ、元の住処へと戻っていった。
*****
その瞬間、店内は静まり返った。
ガラリと音を立てて転がっていた木箱が止まり、飛んでいた紙束が床に落ち、残っていた風がふっと消える。氷で足元を固められていたゴルゾーとその手下たちは、風の勢いで気絶し床に頭を垂れていた。
コメットは鏡に向けた手をゆっくりと下ろし、肩で息をしていた。鏡の光は徐々に収まり、平らで静かな光沢だけを残して、波紋の揺れも消えていく。
「……できちゃった」コメットが小さく呟いた。
ジジはすでに立ち上がり、鏡とコメットのあいだに歩み寄っていた。風一つ吹かない店内に立ちすくみながら、彼は静かに言った。
「まさか、本当に……鏡が、魔術の通路になるとは」
モルガもまた、信じられないものを見るように呆然としながら言った。
「『対の鏡』が……全部の風を吸ったってのか……? あんな芸当、誰が……いや、あんたが……」
コメットは少し俯き、けれど静かに笑った。
「鏡が導いてくれたんです……」
(声のことは、また今度、王子とモルガさんに相談しよう…)
店内には、壊れた什器と落ちた魔道具の残骸、そして静けさだけが残っていた。だが、その中心で立つコメットの瞳には、新しい力の光が、確かに灯っていた。