10、家族への復讐
「——まあ! あんた、どこほっつき歩いてたのよ!!」
義母の甲高い声がダイニングの奥から飛んできた。
無視するわけにもいかず、コメットはダイニングの戸を開け、中に入った。ぎこちなく微笑むと、そこには金糸を巻いたテーブルクロスの上で、ティーセットを囲み、上品な紅茶を楽しむ三人の姿があった。義母のローズ、義妹のアリアナ、そしてコメットの元婚約者である騎士、リズモンドが揃っていた。
アリアナがカップを置き、椅子を軋ませながら立ち上がった。
「夕食の支度もしないで、一体どこに行ってたのよ!おかげで侍女がひとりで大変そうに、夕食の支度をしていたわよ?」
リズモンドは優雅にカップを回しながら、コメットをちらりと見る。
「やあ、今朝のことがあったから、心配していたんだよ」
(婚約破棄のショックで、私が自死でもしていたら、評判が立たないものね——)
「リズモンド様にご心配をおかけするようなことはしていません」
コメットは唇を噛みながら、静かに答える。
だがその隣で、ローズがカツンとカップを置いて言い放った。
「口答えはいいのよ。私たちの生活を乱さないでちょうだい。あんたみたいな子がこの家にいること自体、恥ずかしいのよ」
アリアナがうんざりした顔で溜息をつく。
「ねえお母様、この家、コメットがいなくても何も困らないって気づいたの。むしろ、ちょっと静かになって助かってたのよ。……帰ってきちゃったけど、またどこか行けば?誰も歓迎してないのに、よく居座れるわよね。私だったら、いたたまれなくて、とっくに出て行ってる」
(……なんで、わたしが出ていかなきゃいけないのよ)
心の中で、こぼれるように呟く。コメットは静かにうつむいたまま、アリアナの言葉を黙って聞いていた。口元はかすかに引き結ばれ、手が小さく震える。
胸の奥がじんと痛む。
けれど、それを顔に出すことだけは、絶対にしたくなかった。
(この家は、私の実家なのに。大好きなお父様、お母様の記憶があちこちに残っている、私の家よ)
(あとから入ってきたのは、この人たちのほうなのに)
(王子は、私の力は特別だって——人を救うための……)
心の中で、何度も何度も繰り返す。
あの日、母が亡くなってすぐに、父はローズを迎えた。アリアナが生まれ、ほどなくして父が亡くなった。
コメットは、何も変わっていないこの家の中で、すべてが変わってしまった自分の居場所を、じっと噛みしめるように立っていた。
「申し訳ございません…」コメットは声を絞り出した。
すると——————
「コホン」
咳払いがひとつ、静寂を切り裂いた。
「……ちょっと、失礼するよ」
その声は、やわらかくも威圧を孕んでいた。
家族たちがコメットの後ろに目をやると、ダイニングの入り口に立っていたのは、一人の青年だった。漆黒の肩までの髪、端正に整った顔立ち、冷たく凛とした佇まい。まるで王宮の絵画から抜け出してきたかのような風貌に、空気が一瞬で変わる。
「……誰……?」
ローズが声をひそめるように呟く。リズモンドは立ち上がる素振りも見せず、カップを持ったまま青年を見つめ、目を細めた。「……不審者か?」と鼻で笑いながら言ったが、その声には確かな焦りがにじんでいた。騎士の称号を持つはずの彼は、まるで石のように席を動かなかった。
アリアナはというと、目を見開いたまま、ぽかんと口を開けていた。
「……なに、なにこの人……めちゃくちゃカッコいいんだけど……」
頬がほんのり赤くなっていく。
だが次の瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「まさか……ジジ第一王子!?」
その声があがった瞬間、ローズとリズモンドの顔色がさっと変わった。
「ジジ……王子!?」ローズが椅子を引いて立ち上がり、引きつった笑みを浮かべながら言った。「ど、どうしてこちらへ……?」
ジジは誰の問いにも答えなかった。静かに歩を進め、コメットのもとへまっすぐに向かった。
そして——迷いなく、その肩を抱き寄せた。
「よかったまた会えた」
低く、けれどどこか安堵の混じった声。
コメットは驚きで息を呑んだ。けれど、その腕の感触があまりに自然で、拒むことも、何かを言うこともできなかった。
「先ほどの会話は、大体聞かせてもらった」
ジジはコメットの肩にそっと手を置いたまま、テーブル越しに家族たちを見渡した。その瞳は冷え切っているのに、どこか静かな怒気を含んでいた。
「……なるほど、勉強になったよ。マルミーレ領では、家族にそんな言葉を投げつけるのが普通なのか?」
声は低く、皮肉の刃を丁寧に研ぎ澄ましたような口調だった。
「“この家にいらない”だの、“勝手に帰ってきた”だの……なかなか、情操教育に富んでいる」
ジジの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。それは笑顔とは呼べない、冷笑に近いものだった。
「それとも、君たちが特別に品性が乏しいだけなのか?」
その一言に、ローズの顔がひきつり、アリアナは口をパクパクと動かして何も言い返せなかった。リズモンドはついに立ち上がったものの、何かを言おうとして、ジジと目が合った瞬間、舌を噛んだように沈黙した。ジジは視線をコメットに向け、肩を抱く手の力を強める。
「なあ、コメット。これはひとつの提案なんだけど——
君を、このまま俺の妻に迎えるっていうのは、どうかな?」
コメットは、まるで時が止まったように、ジジの顔を見つめた。
「……え?」
その言葉が現実だと気づくのに、数秒かかった。
心臓が跳ねる。顔が熱くなる。喉の奥がぎゅっとつまる。
ジジは変わらぬ落ち着いた表情で、まっすぐこちらを見つめている。けれどその瞳には、確かな真剣さと、あたたかな光が宿っていた。冷たいと噂されるけれど、本当はずっと——誰よりも誠実で、優しい人。
「……い、今のって、冗談じゃないですよね……?」
声は少し震えていた。でも、笑っていた。胸の奥から、ふわっと込み上げてくる嬉しさが止まらなかった。ジジは、ごく自然に頷いた。
「冗談じゃないさ。俺、君に惹かれちゃったんだよ」
その言葉に、コメットの頬が熱くなる。目元がじんと滲んでいくのを、こらえきれなかった。
——ああ、好きだ。
その気持ちを、もう隠す理由なんてなかった。
ジジの言葉は、深く、コメットの胸に静かに沁み込み、心を急激に温めた。
ローズとアリアナは言葉を失い、リズモンドは額に汗を浮かべたまま、座るタイミングを逸していた。静かに、しかし確実に、場の主導権はジジの手に握られていた。
「返事を聞いてもいい?」
「……はい」
コメットはスカートの裾をぎゅっと握りしめ、涙を浮かべながら、しっかりと頷いた。
「あのお、それってどういう意味かしら?」ローズが恐る恐るジジに尋ねる。
「言葉通りの意味さ、コメットは俺の元へ嫁ぐ。今しがた決まったばかりだけど……」
ローズが椅子から身を乗り出すようにして、ジジに笑顔を向けた。だがその笑みには下心が透けて見えていた。
「まあまあ、王子様とコメットが一緒になるなんて、めでたいことですわ! 王家とのご縁ですもの、当然、婚姻に際して何らかの“祝い金”や“持参金”のようなものが発生するのではなくて?」
ジジはその言葉に、ゆっくりとまばたきを一つ。
「……ふむ」
低く抑えた声で口を開くと、その場の空気がひやりと引き締まった。
「まず、念のために確認しておこう」
ジジは立ち上がるでもなく、静かにローズへと視線を向けた。
「コメットの父——つまり、貴女の夫にあたる男は、すでに故人」
「そして貴女は、その再婚によってコメット嬢の継母になった。ただの“姻族”に過ぎない」
「彼女と血縁関係はなく、王家の婚姻によっても“継承権”も“財産権”も生じない。言うなれば、完全な部外者という立ち位置だ」
ローズの笑顔が引きつっていく。
ジジは淡々と続けた。
「さらに言えば、王室の財政は明確に仕分けられており、“縁戚だから”という理由で資産が流れることはあり得ない。祝い金が渡される場合、その対象は“婚姻当事者”と“直系親族”のみ。つまり——両親か、または祖父母。伯父伯母、ましてや継母などという立場には、一銭たりとも渡らない」
最後の一言には、薄く笑みすら含まれていた。
「以上が、制度上の整理だ。まあケースによっては、継母に財産を喜んで渡したいと言う令嬢も一定数いるが…そのような関係性は築けていないように見受けられる。……これで、何か得られると期待していたなら、それはまったくの見当違いだ」
ローズは目をぱちぱちとさせて、言葉を探すように口を開いたが、声にならなかった。
ジジはそれ以上何も言わず、コメットの隣にそっと目を向けた。その姿は、言葉以上に彼女への“保護”を明確に示していた。そして、ゆっくりと口を開く。
「今日はもう遅いし、荷造りもあるだろう。3日後、迎えにくるよ。こんどは馬車を用意して、ね」
いたずらっ子のような表情で、ジジはコメットに笑いかけた。
*****
屋根裏の自室で、簡易的なベッドにコメットは横になった。
吹雪はもう、やんでいた。
(不思議な一日だった——)
(ジジ……王子——私、交際0日で、結婚しちゃった)
この長い1日は、コメットの不遇な人生を、まるっきり変える特別な日となった。
昨日のコメットにもし今日のことを伝えたら、驚くだろう。
いきなりのことに、まだコメット自身も戸惑ってるが、不思議と今までのような不安感はなくなっていた。自分自身の力を、認めてあげられたということが、コメットにとって大きな成長だった。
そう考えているうちに、コメットはうとうとと眠りについた。