1、厳冬の婚約破棄
「コメット、違うんだこれは……!」
早朝、雪かきで身体を冷やしたコメット。
一刻も早く湯あみをしようとしたが、そこには先客が2人もいた。
「リズモンド様…? それに……アリアナ。どういうことなの……」
バスタブの中には、コメットの婚約者であるリズモンドと、義妹のアリアナがいた。
2人とも生まれたままの姿で。アリアナの胸元にくっきりと浮かんだ複数の痣は、そういった経験のないコメットでも二人の関係を物語るのに十分な証拠に思えた。
「お義姉さま、リズモンド様は名のある騎士様なのですのよ。なのに、気味の悪いあなたが、どうして結婚できると思うの?」
「そっ……そうだ! アリアナのためにも、いつかビシッと言ってやろうと思ってたんだ……! お前とは、もう終わりにすべきだって。これは、僕がずっと前から考えてたことで……いや、アリアナに言われたからじゃなくて、僕自身の決断で……! だから、お前との婚約は——破棄する。これは、決定事項だ!」
(婚約……破棄――)
怒りではなく、深い悲しみがコメットの身体に駆け巡った。指先は冷たいのに、身体の奥底ではぐるぐると熱がこもる。コメットは自分の手が小刻みに震えているのに気づき、涙が零れ落ちる前に、自身の部屋へ引き返した。
*****
自室に戻る途中、義母のローズに呼び止められた。どうやら、吹雪が寒すぎて部屋の温度が上がらないため、暖炉の薪を足してほしいらしい。コメットはこの家の正当な後継者であるはずが、両親の死後、完全に義母と義妹に家を乗っ取られ、雑用のためこき使われていた。
コメットの涙のにじむ赤い目に気がつき、プッと笑った。
「そのブサイクな顔!気持ち悪いのは能力だけじゃなくて、あなた自身もね。見てられないわあ…ああ、いやだいやだ」
気持ち悪い能力――ここトリアニス王国では、魔術を学ぶ貴族が多く、彼らは水・火・土・風・木の属性魔法のいずれか1種類を使いこなしている。5属性以外に特筆すべきは光魔法で、癒やしの力である光魔法を持つものはとても少ない。強い光魔法を持つものは聖女とも呼ばれる。
しかしコメットの魔術は何の属性にも当てはまらなかった。
ある時は傷を癒し、ある時は土粘土の人形を操り、ある時は遠くの灯篭の火をつけた……ある程度教養のある義母だったが、よくわからない能力をたいそう気味悪がっていた。
「はい。薪を追加しておきます。お義母さま」
うつむきながら、コメットは義母の要求に答えた。
*****
コメットは屋根裏の自室で寝転んだ。
共用の部屋をあたため、昼食の片付けを終えたコメットは、やっと屋根裏の自室で一息つくことができた。ベッドというには少しお粗末な、布と藁でできた寝具へ仰向けに寝転ぶと、今日のお風呂場での出来事が嫌でも思い出された。
リズモンドを愛していたコメットに悲しみはあれど、驚きはさほどなかった。コメットはリズモンドの視線が日に日に義妹に向いていくことに気が付いていた。
3年ほどまえから、リズモンドとコメットは婚約関係にあった。
リズモンドの一目ぼれで、男爵令嬢のコメットに求婚した。コメットもリズモンドの優しい愛情に惹かれ、2人は相思相愛となった。
しかし半年前、アリアナとリズモンドはコメットの誕生日祝いのプレゼントを探すために、2人きりで町に出かけた。その辺りからリズモンドはアリアナの虜になり、コメットに冷ややかな目線を送ることが多くなった。
屋敷の住民がコメットをさんざん見下し、侍女同然の扱いをしているため、リズモンドもコメットは婚約者として自身のレベルに釣り合わないと判断を下したのだろう。この屋敷に住む者はコメットと義妹と義母しかおらず、あとは侍女を1人雇っていた。
(この部屋って、ほんとうに寒すぎるわ…)
コメットは薄い毛布と身体に隙間ができないようにくるまった。
ここはトリアニス王国の地方に位置する、マルミーレ領。
普段温厚な地域だが、今日の冬の寒さは別格だった。重たい雪が吹雪き、窓を叩いている。
暖かい部屋で令嬢教育を受けていたのはかなり昔のように感じる。
コメットの両親は優しく、愛情のある人だった。コメットの不思議な能力も、気味悪がることなく、才能だと褒めてくれた。
コメットの母が病死し、父はぽっかり空いた穴を埋めるように、新しい奥さんを屋敷に招いた。その時、ちょうど義母はアリアナを妊娠していた。アリアナが生まれ、しばらくして父も戦で亡くなった。
(ここから居なくなりたい。私の両親と過ごした大好きなお屋敷だけど、もう限界かもしれないわ――)
コメットは悪い思考を断ち切るように、藁のベッドから身を起こした。
(……それにしても……寒い、寒いわ。)
(このままじゃ凍え死んでしまう!)
コメットの身体は雪で濡れており、湯浴みもしそびれてしまったのだから仕方がない。防寒具が薄い布一枚しか与えられていない上に、この屋根裏は隙間風がピューと吹き込んでくる。吹雪は強くなる一方で、さらに冷え込みが増している。
コメットは少しでも体を動かそうと、屋根裏部屋の中を歩き始めた。部屋のランプに火を付け、小さな蝋燭の前に手をかざす。しかし、この小さなランプで温めるには、コメットは凍えすぎていた。
両手を胸の前で合わせ、祈るしかなかった。
“ここではない、どこかへーー私を連れて行って”
ビュウ、と急に吹いた突風が窓を叩く。
……なんてひどい吹雪なの。大丈夫かしら、とコメットが窓を一瞥した。
外はまだ昼なのに薄暗く、真っ白な吹雪が窓をゴウゴウと叩きつけていた。
ピュウピュウ、と隙間風がコメットを突き刺す。
コメットは強く目を瞑った。
お父様、お母様…
一瞬、吹雪の音が止み、部屋に静寂が訪れた。
繋いだ手をほどき、目を開けると―…
「鏡?」
ベッドの反対側の壁に、青白い光を微かに放つ楕円の鏡が現れた。銀色の額縁の中の鏡が、蝋燭の火の揺らぎを映している。コメットは思わず立ち上がり、火の揺らぎに誘われ、その鏡面に手を置いた。
「きゃっ!」
鏡面に置いたはずの手が、あるはずのない“奥"へ沈む。腕がドロリとした感触に包まれたと思った時にはもう、この屋根裏にコメットの姿はなかった。近くに置いていた、小さなランプの光も消えた。
*****
粘性の高い水の中でゆっくり落ち続ける感覚。先ほどの皮膚を突き刺す寒さから一転し、ぬるいお風呂に入っているような暖かさに包まれる。冷たくかじかんでいた指に、一気に血がめぐる。馬車を降りた時のように、すぐに平坦な感覚に戻ったコメットは、ゆっくりと目をひらいた。
*****
目の前には、真っ赤な絨毯、大きなシャンデリア、ふかふかそうな大きいベッド…豪華絢爛な調度品ばかりの30畳ほどの部屋が広がっていた。
「ここは…どこ?」
「誰だあんた。どこから入ってきた」
冷たい声がコメットの背後から聞こえ、短刀が彼女の元に突き付けられた。
自分のおかしな能力で、人がいる部屋に転移してしまったのだ、とコメットが気づくには時間はかからなかった。
「あの、すみませ…」そう言い終わる前に、男性は喜びがあふれた、悲鳴に近しい声を上げた。
「おいおいおい、まじかよ。これ、この鏡、まさか、魔道具!?なんで俺の部屋に!?」
声につられコメットが振り向くと、そこに立っていたのは――
――ジジ・トリアニス。冷酷王子として名高い、この国の第一王子とは信じがたい、テンションの高い姿だった。
(もしかして、あの王子? ものすごいギャップね)