第30ー2話 空を同じくして、袂を分かつもの10
◇◇◇
(ここは……どこ?)
薄らと目を開けた野口雫が目にしたのは、真っ白な天井だった。
「野口さん!」
「体は大丈夫かい?」
目線を横に振ると、そこには先輩2人が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
ぼんやりとした思考底から、ゆっくりと意識が浮上していくる。
「俺が耶蘇先生呼びに行ってくるから、東風谷さんはこのまま野口さんを見ていてくれるかな?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
西風舘は保健室のドアを開け、外で星斗達を送り出しているであろう耶蘇光を呼びに出る。
保健室の中に残されたのは東風谷と雫の2人。
「……野口さん、ごめんね……私が、あんな事言ったから……あんな物を持たせちゃったから……私のせいで……」
「……先輩のせいじゃ、ないですよ……私が、馬鹿だったんです……全部私が悪いんです……私が、勘違いしたから……」
東風谷は職員室で雫に話た伊緒と玲の関係の話と果物ナイフのことを謝っているようだが、雫としては自身の責任でしかないと思っている。
「先輩……ちょっと、1人になっても、いいですか?」
「……うん……何かあったら、すぐに呼んでね……」
「はい……」
心配そうに雫のことを見ながらも、負い目もあって保健室を出ていく東風谷。
雫はそんな東風谷に頭を下げ、扉が閉まると窓から空を見上げる。
「空が眩しい……」
青く澄み渡った空は、今の雫には眩し過ぎた。
想いを寄せたあの人が憧れた空。
勝手にライバル視していた人が、命を賭して舞った空。
それを躊躇わず追いかけた想い人。
そんな事をよそに、喜んでしまった自分。
全てが、嫌になる。
「もう、空なんて見たくない……」
見上げた先にあるのは絶望を写す空。
ならば沈めよう。
深く、深く、光の届かない水面の底に。
溢れ出る涙と共に、顔を俯かせ、意識を沈める。
「もう、全部嫌……こんあ自分も、こんな生活も、こんな世界も……全部、全部嫌……なんで、こんなに辛いの……何でこんなに悲しいめに遭わないといけないの……もう、水の底に沈みたい……」
零れ落ちる想いと共に、雫が零れていく。
「辛いね。悲しいね。その気持ちよく分るよ」
雫以外誰も居ないはずの保健室に響く声。
その声は優しく、慈愛に満ちた様な声だった。
少年の様な声は、誰もいない空間から響いており、雫は思わず周りを見渡す。
「だ、れ?」
何処に向けたとも取れない呟き。
答えを期待した訳ではなかったが、思いがけず返事が返ってくる。
「僕はエリネって言うんだ。よろしくね」
「エリ、ネ?」
「そうだよ。僕ね、ずっと君のこと見ていたんだよ。君のことが気になって仕方がなかったんだよ」
無邪気にそう答えるエリネと名乗る声。
その声は無邪気な少年のような雰囲気を醸し出し、優しく雫に語り掛ける。
「どこに、いるの……?」
「ふふ、近くに居たんだよ?君がナイフを持っていた時から心配で仕方が無かったんだ」
「ぁっ……」
雫の目が見開き、言葉が出なくなる。
エリネは構わずに語り続ける。
「ナイフを渡せなかった時なんかも心配で心配で」
「ぃ、ゃ……」
絞り出すような悲鳴が誰にも聞かれずに消えて行く。
己の膝を抱きかかえ、顔を埋めて世界を閉じる。
「でもその後の君に心からの言葉には感動したよ!自分の気持ちに素直な君は素敵だったよ?」
「や……め……て……」
「彼を失ってしまった君が悲嘆に暮れる姿に胸を打たれてね。こうして話をしにきたんだよ」
「お願い!もうやめてっ!」
エリネの言葉に、遂に雫が声を上げる。
目から流れる幾筋もの流れは、シーツにしみこみ、沈んでいく。
雫の願いを余所に、エリネは滔々と言葉を紡いでいく。
「そう!その言葉さ!その心からの叫びが聞きたかったんだよ!言っただろ?僕は君のことが心配なんだ。そして君のことが物凄く気に入っているんだよ」
「私……を……気に入って……る?」
「勿論さ!僕は君を一目見た時から気になって気になって仕方が無かったんだよ。そして見れば見るほど、君から目が離せなくなっていったのさ」
「でも……私は……私のことなんか…………誰も……」
雫の頭を過ぎるのは、誰も無いアパートの部屋、1人の食卓、渡せなかったお弁当。
脳内をぐるぐると回る記憶に掻き乱され、雫の心は沈んでいく。
「みんな……私と一緒に……沈んじゃえばいいのに……」
「じゃあ、沈めちゃおっか?」
「えっ……?」
雫が発した心の囁き。
水底に沈めていた想いが、溢れ出た言葉。
誰にも言ったことの無い言葉。
それがスルリと口から零れた。
雫がそれに気付いた瞬間、エリネはその言葉を肯定していた。
雫はハッとなって、思わず顔を上げる。
「やっと顔を見せてくれたね。じゃあさ、これから一緒に世界を沈めようよ」
「ぁ、ぇっと……」
顔を上げた先には優し気な笑みを浮かべた青年が立っていた。
あどけないとも言える顔立ち、癖っ毛の黒い髪に白いシャツ、黒いベストとズボンを履いている。
左目の泣き黒子が印象的なその男は、雫の横まで来るとそっと雫の手を取り両手で包む。
「あっ……あの……」
「君を苦しめる世界が悪いんだよ、だから僕と一緒にこの世界を沈めようよ。君だけ苦しむなんて辛いよね?ずるいよね?悲しいよね?じゃあ、世界と一緒に沈んで、君の悲しみを理解してもらおうよ。君を見てもらおうよ」
「私を……見て……」
「世界が、君を見ないのが悪いんだよ、彼が君を見ていればこんな事にはならなかったんだよ」
「伊緒くんは、悪くないんです!私が……私が……」
雫の心に残る想いが込み上げる。
グシャグシャな顔で必死に自分のせいだと、伊緒は悪くないと訴える。
「彼が君を見れなかったのは、この世界にそのもののせいだね。君を悲しませてるのはこの世界そのものなんだよ。こんな世界、無い方がいいだろ?彼のいない世界なんて、意味がないだろ?」
雫の目が見開く。
伊緒が消えた世界、伊緒が存在しない世界。
雫にとっての希望が存在しない世界。
そんなものは最早考えられない。
「伊緒くんが……伊緒くんがいない……私が……私のせいで……」
「そう、君が壊した世界だよ」
「あ、あぁ、ぁぁ…………わ、たし、がこわし……た、せかい……」
エリネの翠色の瞳が怪しく光、嗜虐の色を帯びる。
声は優し気なまま、エリネが畳みかける様に言葉を紡ぐ。
「君がきっかけを作り、とどめを刺した世界さ。もうこんな悲しい世界、いらないだろ?」
「い、らない……もう、嫌……こんな世界……私と一緒に、水底に沈めばいい」
雫が見上げた先には、優し気に笑みを浮かべるエリネの顔があった。
雫に覆われた瞳が映すのは、虚実の世界。
水底から見上げた空が歪むように、雫の目に映る世界もまた歪められた世界だった。
手を伸ばした先にあるはずの空を掴む事はできず、掴んだと思ったものは水面のに映る己の虚像。
だが、掴んだ虚像は遥かに巨大な天意だった。
逆らうこともできず、濁流に飲まれた雫の意識は、水底へと沈んでいく。
「さぁ、僕と一緒に世界を悲しみの水底に沈めようか」
雫は無言でエリネの手を握り返し、この世界と決別の意思を示す。
「あぁ、君の悲しみは何て甘美なんだ。僕が見込んだとおりだ」
エリネは雫の手を取って片膝を付いたまま、2人の足元に魔法陣を展開させる。
ゆっくりと沈む2人の身体。
「さようなら……私の世界……」
同じ空の下、世界と袂を分つ。
これにて2章終了となります。
そしてストックも終了となりました・・・
ちょっと書き溜めてきますので、書いたら公開していきます。
しばらくお待ちください。