第19ー1話 翼
東風谷は屋上へと続く扉のドアノブを握り、ゆっくりと回す。そして恐る恐る扉を開け、屋上を覗き込む。
背後から野口雫も東風谷の背中越しに覗き込み、正面に複数の人影を見る。
こちらを驚きと心配そうな顔で見ている仁代伊緒と真理の兄妹と西風舘、深い憂いの表情を覗かせる耶蘇光。
一番奥の室外機の上に座って不安を気丈に耐えている躬羽玲。その後ろに厭らしい笑みを浮かべる工藤の姿が見えた。
「東風谷さん……野口さん……」
光の心配そうな声。
それをかき消すように、工藤が宣言する。
「イヒッ!よぐ来たな2人ども。さぁ、これからの世界の話をしようが!」
工藤の言葉にビクッと身体を震わせ、扉を閉めたくなる東風谷。だが、後ろの背中越しの後輩が、東風谷の制服を振るえる手で掴み、下がらずに必死に堪えている。
(行くっきゃないよね……)
意を決して屋上へ踏み出し、改めて周囲を見渡す。
(皆ちゃんと居る……怪我もなさそうだし……)
そう考えながら工藤を見て、その手に握られたナイフが玲の首に当てられている事に気が付く。
(――!!)
東風谷は余りの状況に、思わず声が漏れそうになるが、必死に堪える。
恐らく、それが正解なのだろう。
(よく耐えた!私!)
東風谷は声を出さなかった自分を褒めたい気持ちで一杯になる。
ここに居る面々がこの状況を黙って見ているのだ。下手に動いたり、声を上げる事は、玲の命に係わる事だ。
皆の邪魔にならないように、ゆっくりと後ろの方に位置取って止まろうとする東風谷。だが、後ろから付いてきていた雫は違った。
そっと皆の輪の中程まで進み、伊緒の近くまで歩み寄る。
「伊緒くん、無事だったんだね……」
伊緒を見ながら小声でそう囁きながら、伊緒の背後に隠れる。
伊緒も近くまで来た雫を一瞥して軽く頷き、すぐに目線を工藤へと戻す。
「ざぁて、これで全員がなぁ?フヒッ!もう待てねぇじな!じゃぁ、始めようか!」
行方不明の教員である賀茂は、既に工藤の頭の中からは居ない事になっているのか、現状で集まった面々を前に演説を始める。
「俺は前の世界が大嫌いだったんだ!毎日毎日つまらねぇ日常!何も変わらねぇ世界!何なんだよ!!俺がいる場所ねぇじゃねぇか!!俺はずっと想ってたんだよ、俺が俺でいられる世界。俺が自由でいられる世界!俺が望んだ日常が訪れる世界!!……だがよぉ、そんなものは妄想だって分かってんだよ。毎日が絶望だ。朝起きて、飯食って、クソして、学校行って……俺が主役になることなんてねぇんだよ!クソがっ!!毎日毎日毎日毎日!!世界を呪って、詛ろって、のろって、ノロッテ……」
演説と言うには稚拙で幼稚な独白。
駄々っ子が思い通りにいかない事に癇癪を起こしているだけに聞こえる。
だが、癇癪も積み重なれば怨嗟となる。
世界を呪う言葉は呪詛となって工藤本人を呪縛する。
呪縛された心は、歪み、それでも溢れ出る怨嗟は形を変えて吹き出す。
「でもよぉ、こんな世界でも光が射すんだよ。俺みたいな奴には眩し過ぎる光……俺を慰めてくれるのは真理だけだ。毎日毎日眺めてたんだ。そしたらよぉ、画面越しに慰めてくれるんだよなぁ!フヒッ!普段は気が強ぇ割に、俺の前じゃデレてくるんだよ、それがいいんだよなぁ、ヒヒッ!俺の真理は可愛いだろぉ?」
完全に自分の世界に浸りながら、ニヤニヤと厭らしく真理を見詰める工藤。
「――チッ!」
「真理」
真理が思わず舌打ちをして睨み返す。心の底から嫌悪しているのはよく分かるが、堪えろと自制を促す伊緒。
「クヒッ!イイネイイネ!!ゾクゾクするねぇ!堪んねぇなぁ!!だが、まだ焦んなじゃねぇよ。俺の話はこれからが本題だからなぁ?それでよぉ!そんな世界がいきなりぶっ壊れちまった!俺が望んだ通りに!目が覚めたら最っ高の世界になってやがった!これは俺の望んだ世界、俺が求めた日常が送れる世界!法も、規則も、常識も、全て俺が決める!!その為の世界!!俺の為の世界!!俺が主役の、俺が神の世界!!!」
今の現実を、現実として捉えているのか、それとも夢として捉えているのか。それすら曖昧なのか。
工藤は理性と本能の垣根を失い、想いがダダ漏れになっていた。
但し、溢れ出る想いは陳腐で下衆なもののため、誰もその想いを受け止める事はない。
「だからよぉ、ここを俺の城にする。俺が神の、俺が主役の、俺の国!家臣はお前らだ!俺に尽くせ、俺に忠誠を誓え、俺を崇めろ!あぁ……でもよぉ、あんたはいらねぇや、耶蘇先生」
「私は不要だということですか?」
光は工藤を刺激しないよう、言葉を選びながら答える。
今はまだ、機会を窺う時。
「そうだぜぇ、あんたは真理を誘惑したからなぁ。俺もそこまで心が狭くねぇが、それはいけねぇな。国民がこれしか居ねぇんじゃ、争いになっちまう。子供を産む女は貴重なんだ、全員俺が管理してやるよ。国民を増やさねぇとなぁ、真理?」
ねっとりと絡みつくような視線を真理に向け、東風谷、雫と巡らせる。更に、今自ら呪縛している玲の真横に顔を寄せ、ナイフを持ったままの右手で玲の顔を持ち上げる。
「お前も一緒に可愛がってやるよ、フヒッ!イヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」
下卑た嗤い声を上げる工藤。
「ぉぃ……その汚い手を離せ」
その様子を、何とか黙って聞いていた伊緒が震える声で呟く。
「あ゛ぁ゛?なんか言ったかお兄ちゃんよぉ?今すぐこいつを殺すぞ!」
「その汚ねぇ手を今すぐ放せって言ってんだよ!下衆野郎が!!」
「フヒッ!言うねぇ、やっぱお兄ちゃんは面白れぇなぁ。でもダメだ、やっぱり男はいらねぇな。全員女でいいや。おい、お前ら。今すぐ死ねよ」
我慢の限界を超えた伊緒が、怒気を込めて工藤を一喝する。
だが工藤は、会話にならない会話で、この場に居る男に向かって「全員死ね」と宣う。
「そんな事はしませんよ。工藤くん、躬羽さんを離して下さい。僕が代わりましょう」
「フヒッ!駄目だね、あんたじゃ代わりになんねぇよ」
光と工藤が言い争う中、雫は手に隠し持っていた果物ナイフをそっと伊緒に手渡そうと差し出しながら伊緒に向かって囁く。
(――!、野口さん……これは……)
(わ、私の、護身用に持って来たんです……でもこれがあれば……)
「そんな事はない。僕にそのナイフを突きつけてくれて構わない、だから躬羽さんを解放して欲しい」
「しつけぇなぁ……あぁ、そこの女ならいいぜ?おい、そのこ、お兄ちゃんの隣に居る奴!ちょっと来いよ!」
「ひっぃ!わ、わたし……」
工藤の矛先が、雫に向かってしまう。
コソコソと果物ナイフを伊緒に渡そうとしていた所に突如話を向けられ、雫は動揺を隠せない。
一歩、二歩
と後退りする雫。
「え、あっと、わ、わたしは、その……」
「おい、その手に持ってるのは何だぁ?フヒッ!」
「こっ、これ、は……あっ……」
シドロモドロになりながら、ようやっと答えていた雫に工藤が楽しそうに詰問する。
果物ナイフを握る手は、いつの間にか胸の前に在った。
雫は自らの手が胸の前に在ることに気付き、その手に握られた果物ナイフに映る、怯えた少女と目が合う。
「ひっ……」
――何でここに在るの――
自分自身で操ったつもりのない手の動き。反射的に動いた防衛本能。
自らを守るための行動を、自分自身の行動が信じられなかった。
その瞬間生まれた感情は、悲愴。
果物ナイフを渡せもせずに離れてしまった自分が、いざという時に役に立たない自分が、玲のことを見ていなかった自分が、意気揚々と果物ナイフを渡し、伊緒に喜んでもらうことしか考えていなかった自分が、そんな自分を格好いいと思ってしまっていたことが。
脳内を駆け巡る。
「あ、あぁ、ぁぁ、ぁ……」
致命的な失敗と言う訳ではないだろう。だが野口雫と言う人間にとっての、絶望の引き金が引かれた。
自分自身の情けなさに、利己的な思考に、浅ましさに、悲しみが溢れる。
手が震え、力が抜ける。
必死に隠してきた果物ナイフが、カツリと地面に落ちた。
「ヒヒッ!何だ、いいもん持ってんじゃねぇかよ。じゃあさ、お兄ちゃんよぉ、それ使って死んでくれよ?今すぐ、目の前で!さぁ!早く!死ねよ!フヒヒヒヒヒヒヒ!!」
”悪意”と言うよりも、工藤の純粋な願い。
工藤の口から溢れ出る想い。
只、そう願っている。
目の前で死んでみて欲しいと、思っている。
「工藤くん!そんな事は――」
「あんたは黙ってろ!俺ぁ今、お兄ちゃんと話してんだよ、なぁ?こいつ、助けたいんだろ?グサッといこうや」
光の言葉を遮り、工藤が伊緒を見据えながら顎で促す。
「誰がこんなもの――」
「イヒッ!いいのかよぉ?そんな事言って?もう殺すよ?」
工藤は握るナイフの刃を、玲の首筋にピタリと押し当てる。
刃を立てていないため、切れてはいない。
だが、少しでも刃を引けば皮膚と筋肉は容易く切断され、傷口を腐食しながら玲の命を脅かすのは目に見えている。
「――っくそ」
伊緒は小さく毒づき、その場に身を屈めて果物ナイフを拾い上げる。
「――玲に何もするな……俺が、死ねばいいんだな」
「フヒッ!いいね!いいぜっ!お兄ちゃんが死んだら、こいつは解放してやるよ!さぁ!さぁっ!!」
伊緒は果物ナイフの柄を握り、自らの胸に当てる。
「真理……光さん……玲の事、頼む……」
「伊緒!あんた何言ってるの!やめなさい!!」
「伊緒くん!そんな事するんじゃない!」
「……ぃゃ……」
伊緒の声に、本気の覚悟を感じ取って真理と光が叫ぶ。
伊緒の背中越し聞こえる、蚊の鳴くような囁き。
(野口さんには……悪い事したな……ごめん……)
背中越しでも分かる野口の動揺を感じながら、伊緒は心の中で謝罪を口にする。
そして、意外にも落ち着いている自分に驚く。
(怖くは無い……玲が……傷つく方が、何倍も怖いから……ぁぁ、でも……父さんみたいには為れなかったな……)
「伊緒!!」
「動くんじゃねぇ!」
真理が伊緒を止めようとするも、工藤が一喝する。
その度に玲が呻き、いつ殺されてもおかしくない状態になる。
歯を食いしばり、握り込んだ拳からは血が滲む。現状打開の方策を必死に考える真理と光。
「邪魔はさせねぇ!おらぁ!逝っちまいな!!」
「玲、今までありがとう。俺の分も、生きてくれ――」
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