第9-2話 殺意《ねがい》
「――えっ――」
間の抜けた声が漏れる。
――メキメキメキメキ――
木立の軋む音が林の中に轟く。熊と対峙していた方向の真横から聴こえる樹木の悲鳴。顔だけ素早くそちらの方向に向けると、林の中の一層大きな樹の中程に熊が張り付いている、幹が大きくしなり、悲鳴と共にバキバキと破断していく。
熊は真っ直ぐに星斗を見据え、樹のしなりを利用して射抜かんとする、矢の如くこちらを狙っている。
凶悪な後ろ足の脚力をもって巨体が撃ち出される。
熊とは思えない動きに星斗の思考が置いていかれる。
(――横に――躱せない――前に!)
直感的に真横に避けても熊の巨体に巻き込まれてしまうと悟り、身を屈めて前に転がりながら躱す。
直後、真後ろに着弾する熊。鈍い轟音と共に土煙が舞い上がり、土や石が霰の様に降り注ぐ。
足場にされた巨木がメキメキと音を立てて倒れ、折れた枝葉が舞い散る。
前回り受け身の状態から更にゴロゴロと横向きに転がり、漸く止まる。素早く身体を起こして拳銃を構え、土煙の中を見据える。
濛々と立ち込める土煙が漸く晴れていき、薄らと熊の輪郭が見えてくる。
確実に仕留めるために急所を狙おうとタイミングを見計らう星斗。
――ドンッ――
地を蹴る音。風が舞起こり、土煙が渦巻く。
目の前の熊の輪郭が無くなり、巨大な影が星斗の上に迫る。
「――お前本当に熊かよ!」
巨体に似つかわしくない俊敏さ、熊とは思えないこちらを翻弄する動きに人間の様な悪意を感じる。
慌てて銃口を上空に向け、襲いかかる熊に向けて発砲する。
――ドンッ!!――
重たい発砲音と共に真紅に翠の混ざった弾丸が飛び出す。
弾丸は真っ直ぐに熊の巨体目掛けて空を切り裂く。
咄嗟のことで大して狙えなかったがこの巨体であり、胴体の何れかには命中するだろう。
吸い込まれるように熊の上半身に滑り込んで行く弾丸。
熊の鋼の体毛をすり抜け、分厚い鉄板の様な皮膚を貫き、筋肉を食い破る。
体内で止まった弾丸はその運動エネルギーを放出すると共に、真紅の死を撒き散らす。
――グァァァォァォォォォォ――
身体の内から食い破ろうと暴れ回る死。
肉体を、霊子を、ズタズタに引き裂きながら身体中を駆け巡る。
ルフのように霊子を強力に操り、抵抗できれば、身体の一部が死にゆくだけで済むのだが、熊はそこまでの技量を持ち合わせてはいない。
星斗に襲いかかる余裕も無くなり、飛び上がったまま地面に叩きつけられる熊。
星斗も避ける余裕は無く、本日2回目の対動物の人身事故である。
巨大な質量に轢かれ、普通なら即死する様な衝撃を身体に受ける。それでもまともに受け止めては不味い直感し、左手で体捌きながら身体を回転させて衝撃を去なす。
「――痛ってえ……何とか生きてるか……」
吹っ飛ばされ地面に打ち付けられながらも自身の無事を確認する、今日は地面に転がってばかりだと思いながら熊の様子を伺う。
――グォォォォ――
迫り来る”死”から逃れようと暴れ回る熊。
その巨体故、1発の弾丸に込められた死だけではすぐさま殺し切ることができない。
ましてや、雑念の混じった弾丸では。
のた打ち回る熊は、明滅する瞳に自身の死神を映す。
生態系の頂点に君臨する捕食者が、初めて遭遇した死を齎すもの。
謎の男に胸を貫かれた時ですら感じなかった恐怖。あの男とは根本的に違う。目に映る男は明確な殺意を持って、今まさに自身の命に手を掛けている。
――逃げなければ――
謎の男に与えられた力と人間を憎めという使命。その使命に従えと身体の中の何かが訴えてくるが、圧倒的な死を回避しようとする本能がそれに打ち勝つ。
もたつく脚を無理矢理に立たせ、その場を立ち去ろうと足掻く。脚がもつれ、漸く立ちあがろうとする星斗を吹き飛ばす。
「ぐっは!」
再度巨体に轢かれて弾き飛ばされ、木に激突する。
肺の空気が抜け、朦朧とする。必死に駆け出して行く熊の背中を見ながら、もう1発の銃弾を撃ち込むことを決意する。
そこではたと気が付く。奇しくも熊が星斗から逃げる為に駆け出した先には、親子が倒れていることを。
「……おい!……そっち行くな!」
いまだ苦しい呼吸の中、声を振り絞るが、熊に聞こえる筈もなく星斗の声が虚しく響くだけであった。
立ち上がれず藻掻く星斗の横を亜依が飛んで行く。
「ちょっ!お前何するつもりだ!」
亜依が熊に追いつき、その鼻先を飛び回る。先程までこれで熊の気を引けたのだが、恐慌状態の熊には亜依の存在が認識されていないようだ。
暴走する熊が親子を目掛けて走る。
もう立ち上がる事も叶わない母親が、迫り来る熊から亜衣を庇って覆い被さる。亜衣もやっとの思いで母親の背中にその小さな手を回す。
熊の前に立ちはだかる亜依、亜衣の目からは小さくも頼もしい勇者の姿が見える、だがそれは蛮勇である。
(そんなことしたら……)
亜衣の心の声は届かない。
軋む身体に鞭打ち、立ち上がる星斗。
顔を上げた先に居るはずの熊が遠く離れて行くのが見えた。
拳銃を構え、震える手で熊を狙うが、照星と照門が合わない。
視界に霞がかかり、視界がボヤける。ボヤけた視界の先で亜依の光が飛び回っているのが見える、その光が突然消えた。
「亜依!」
亜依は親子を守ろうと必死に熊の目の前を飛び回るが、なかなか熊の気を引くことはできない。より強く熊にアピールしようと近付き、目や鼻を掠めてみる。
流石に熊も目や鼻先を刺激されては鬱陶しかったのか、蠅でも払うかのように亜依を叩き落とす。
亜衣のすぐ横に尻餅をつく亜依。痛そうにお尻を摩っている。
亜衣と目が合い、ニコリと微笑む。
――大丈夫だよ――
声は聞こえない、けれどもそう言っている様であった。
力の入らない手で、母親の背中をギュッと抱きしめる。
亜依を叩き落とした熊は、一瞬冷静さを取り戻す。
――グルルルルル――
目の前に倒れる2人の人間、強烈な使命が熊の本能を押し退けて顔を出す。
――人間を憎め、殺せ――
再び熊の頭の中は人間に対する憎悪で染まる。目の前の人間に恨みがある訳ではない、人間に何かやられた訳でもない、それでも頭の中で男が囁く。
――憎め、憎悪しろ、殺せ、人間を殺せ――
男が何をそこまでさせるのか、熊には分からない。だが抗えない使命として、熊はその使命を受認してしまう。
――ガァァァァァァァァ――
大きく立ち上がり親子を威嚇する。右脚を振り上げ、霊子を爪先に集中して必殺の一撃を振り下ろす。
「させるかぁぁぁぁ!!!!!」
熊が立ち上がった事により、的が大きくなる。覚束無い右腕を左手で支える、後は勘で撃つしかない。
「当たれこのヤロー!!」
せめてもとシングルアクションにするため撃鉄を起こし、力み過ぎないように引き金を引く、多少ガク引きになっても大丈夫なように熊の首筋下辺りを狙う。
SAKURAの銃身から押し出された弾丸が飛び出す。先程よりも紅い弾丸は狙いよりも下に逸れながら空を切り裂く。
弾丸は熊の脊柱に激突する。熊の鋼鉄の様な脊柱を砕き、破片が散弾の弾になって熊な内臓を食い破っていく。真紅の弾丸は心臓へと滑り込み”死”を解放する。物理的な死と霊子的な死が織り重なって熊の体内を駆け巡る。真紅の死は弾丸から解放され、熊の細胞1つ1つに死を齎す。そして死脳へを達する。
熊の意識が消えていく。
森の主として山々を駆け、獲物を狩った王者の矜持が消えていく。
野生動物としての本能も消え、最後に残るのは強烈な使命だけ。
消えゆく命の間際、熊は最後力を振り絞り、使命を果たさんと親子に向けてその前脚を振り下ろす。
致命の一撃は僅かな霊子を纏って降り注ぐ。
――させない――
亜依が親子を庇う様に再度立ちはだかる。
両手を広げて2人を庇うその姿は、蛮勇なれど亜衣にとっては紛れもない勇者であった。意地悪な男の子から庇ってくる友達の様な、優しくカッコいい存在。
一緒に遊んでみたかった、お喋りしてみたかった、叶わないと分かってしまったが、溢れる感情は涙となって頬を伝う。
圧倒的な質量の前に亜依の霊子の身体は千切れて吹き飛ばされる。
飛散する霊子の粒。
無情にも熊の爪は親子を貫く。
「やめろ――――!!!」