56.鳥籠の中
マティアスが出て行ってかなりの時間が経ってから、私はそろそろとベッドから降りた。
連れてこられるまでに、体は清められているようだった。
身につけているのは簡素な白いドレス。マティアスに出来るとも思えないし、おそらくは侍女か誰か協力者がいるのだろう。
心の平安のためにも、そう思うことにする。
鎖は今いる部屋の扉の近くに固定されており、隣室と、水場までは自由に移動が出来た。
部屋の中はマティアスの趣味なのか白と水色、そして金色で統一されている。
鎖は魔力に耐性がある素材で出来ているようで、魔術を使って壊そうとしても、傷一つつかなかった。代わりに周りの床に傷が入り、慌てて足下のマットをずらして見えなくする。
逃げようとしていたなんて知られたら、マティアスがどう反応するかわからない。
部屋の中を観察すると窓にも格子がはめられており、そちらも鎖と同じ素材のようだ。
(出入り口は、鎖で届かないあの扉だけ。鎖をなんとかしないと出られないってことね。魔力耐性がある素材なんて高いはずなのに、こんなに集めるなんて……)
マティアスの本気を感じて、怖気が走る。
(少なくとも、あの平民用の牢屋では魔術は使えなかったし、あそこよりも清潔だから)
落ち着かせようと、自分に言い聞かせる。
ただ、一つ気になるとすれば、マティアスのあの言葉。
(私が素直になるための時間って、どういうことかしら。助けを求めるまで、ここで放置されるということ?)
水差しはテーブルの上にあるけれど、他の食料は見当たらない。
あまり良くない予感に、私は身を震わせた。
私の予想は当たったようだ。
マティアスはあれから姿を見せず、おそらくは二日が過ぎた。
時計が無いから時間もわからない。
彼の代わりに侍女が訪れることもなく、時間だけが過ぎていく。
(こんなことで、私の心を折れると思っているのね)
水差しの水がなくなれば、魔術を使って水を出した。
それでも、空腹は体だけではなく精神も苛む。
最悪の予想が当たっても、全く嬉しくない。
私は極力ベッドから動かず、ただ空腹を耐え続けた。
(クロード先生が気がついてくれる。絶対、助けに来てくれるから、それまで耐えるのよ)
極力体力を使わないよう、ベッドに横になって過ごすことにした。
あまりにもお腹が減って、眠ろうと思っても眠れない。
ただ、横になって目を閉じていると、意識が飛んでいる時があり、起きると少し体が回復している。
私はとにかく体力を温存するように努めた。
そのようにして、眠っていた時だった。
(……折角、眠れていたのに)
遠くから近づいてくるざわめきに、私はうっすら目を開けた。
「こんな所に居たのね! この泥棒猫!」
甲高い声は、パトリシアの物だった。
パトリシアは足音荒く近寄ってくる。
「何暢気に寝てるのよ!」
腕を引っ張られるが、パトリシアの力では体を持ち上げるまではできないようだ。
「もう!」
頬を張られたが、痛みは然程感じなかった。
それだけのことでぜいぜいと息を吐くパトリシアに、無意識に笑みが零れていたようだ。
「気持ち悪い。なんで笑っているのよ」
ヒステリックな声も、心が麻痺したかのように何も感じない。
「あんたさえいなければ」
そんな私の様子に、パトリシアが激高する。
長い爪を持つ指が私の喉にかかり、徐々に力が込められていく。
「……、やめ、て……」
「だめ。絶対に、許さない……!」
「パトリシア! 何故ここにいる!」
マティアスの声が聞こえたかと思うと、次の瞬間首を絞める手がはがれ、私に覆い被さっていたパトリシアの体が吹き飛んだ。
「ジュリア! 無事か!」
マティアスは咳き込む私を見て、壁にたたきつけられたパトリシアを睥睨する。
「お前、私のジュリアになんということを!」
「わ、私じゃないわ! 私が来たときにはもうこの状態だったわよ! 死にかけていたから早く楽にしてあげようとしただけじゃない!」
「たわけたことを」
「きゃあ!」
パチンという音が響き、マティアスがパトリシアの頬を張り悲鳴が響く。
「なんで……」
「なんでと聞きたいのは私の方だ」
「そんなの決まってるじゃない! その子がいなくなって、私が婚約者になったのに、マティアスは全然会ってもくれないから」
頬を押さえながら、パトリシアが言う。
「そんなことか。言ったではないか。私にはジュリアさえいればいいのだと」
「どうして……! 婚約者は私なのよ!」
わっと泣き出すパトリシアに背を向け、マティアスが私を見下ろす。
「ジュリア。今回も、私に助けを求めなかったな?」
こんな時にもまだそのことに拘っているのか。
「私は、ジュリアが心から反省し私を求めてくれる時を待っていたんだよ」
意味が分からない私に、マティアスは微笑みかける。
「さぁ、どうすればよいか、今度こそわかっただろう?」
期待した眼差しで私を見つめるマティアスに、私は首を振る。
(マティアス殿下に助けを求めるなんて、絶対に嫌……)
口をつぐむ私をマティアスはじっと見つめている。
私が何か言わなければこのおかしな状況は動かないとわかってはいるが、マティアスに頭を下げるのは絶対に嫌だった。
どうしようと静かに考えを巡らせていると、視界の端で動く物を捉えた。
パトリシアがこちらへと駆け寄ってくる。
「マティアス様、お願い、目を覚まして……!」
彼女の手には、小刀が握られていた。
(どうして、そんな物を……)
マティアスは咄嗟にパトリシアを避け、私がパトリシアの進路上に取り残される。
パトリシアは驚いた顔をしたが、勢いを殺せずに突っ込んでくる。
避ける事もできないうえ、結界魔術も間に合いそうにない。
もう駄目かもしれないと、目をつむったところで、パリンと何かが壊れる音がした。
ゆっくりと目を開くと、まるで結界魔術を使ったように障壁が展開されパトリシアの接近を阻んでいる。
「魔術を使っていないのに、どうして」
ふと、ずっと指にあった感覚がなくなっていることに気がついて視線を下げると、巻戻った時からあった指輪が消えていた。
あの指輪に魔術が込められていたようだ。
「なんでっ、なんで、殺せないの!」
結界に向かって刃物を振り上げるパトリシアの背後から、マティアスが抱きつくようにして首を絞める。
「やめろ……! ジュリアを傷つけるなんて許さない!」
「……っ!」
パトリシアは抵抗し暴れているが、マティアスは顔を歪めながらも手を離さない。
私はこの隙に逃げようと試みたが、腰が抜けて動けなかった。
その時だった。
「そこまでだ……!」
聞き馴染みのある声が聞こえたかと思うと、途端にマティアスの手首に黒い枷が巻き付き、マティアスの手首を締め上げ始めた。
マティアスの手からパトリシアが解放され、咳き込んでいるところに騎士が駆け寄っていった。
私は必死に声の主の姿を探す。
「なんだこれは! おい! 王太子の私にこのような振る舞いをして、許されると思っているのか!」
マティアスの怒声が響くが枷は外れず、パトリシアの所に向かったのとは別の騎士がマティアスに剣をつきつける。
騎士の間から歩み出たのはクロードだった。
「なっ、お前はっ! 何故平民がここにいる……!」
「私は王家のお方のご命令によりこちらに参りました」
「父上か……? なら何故私を拘束する! 今すぐこの邪魔な物を外せ」
マティアスの疑問には答えず、クロードが言う。
「残念ですが。殿下の行動いかんによっては拘束もやむなしと許可も頂いておりますので」
「なにぃ」
逆上するマティアスに、涼やかな声がかけられる。
クロードの影から、マティアスよりも小柄な少年が前に出てきた。
「お前、エリアス、どうして……」
「兄上はご自分の地位が盤石だと思っていらっしゃったのですか?」
黙り込むマティアスに、エリアスと呼ばれた少年は続ける。
「元々、前の婚約者のご令嬢への学園での態度は問題となっていました。その婚約は侯爵家の申し入れでなくなりましたが、次に公爵令嬢との婚約が結ばれました。これで上手くいくならば、何の問題もなかった。でも、今度の婚約者の公爵家からも、苦情が上がってきている。その声を受け、兄上に監視をつけざるをえませんでした」
「監視……?」
エリアスは呆然とするマティアスに頷き続きを話す。
「牢屋から元婚約者を攫って監禁していた件は、こちらでも把握していました。相手は今は平民とはいえ、元侯爵家令嬢。流石に見過ごせません。とはいえ、これだけでは厳しい処罰は難しいと思っていたところで、こうして公爵令嬢への暴行の現場を抑えることができましたので、強制的に介入することとなりました。全部自業自得というわけです」
黙り込んだマティアスから目をそらし、エリアスはクロードに言う。
「後は任せても?」
「かしこまりました」
頭を下げるクロードに、エリアスは背を向けると、部屋を出て行く。その後ろを騎士が三名付き従っていた。
クロードは完全にエリアスの姿が見えなくなると、騎士に命じる。
「まだ王族だ。丁重に連れて行け。そちらの公爵令嬢も、殿下とは別の牢にご案内しろ」
騎士がマティアスとパトリシアを連れて行く。
私もどこかに連れて行かれるのだろうか。
それでも、もう崩れ落ちた場所から動く力も無い。
どうしようかと考えていたところで、クロードが近づいてくる。
「遅くなって申し訳ありません。ですが、本当に、ご無事でよかった」
クロードはあれほど苦労した鎖を魔術で切断してくれる。
「早く、こんなところ出て行きましょう」
「……クロード、せんせい?」
事態が呑み込めず、されるがままだったが、流石に抱き上げられたところで我に返る。
「また、牢に……」
「っ、あんなところには戻しません! 弟君の件は既に冤罪と証明されました」
「それも、せんせいが?」
「はい。ですので、安心して……」
クロードの言葉をそこまで聞いたところで、限界だった。
お礼を言わなければと思いながらも、私の意識は闇に呑まれた。




