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 きゃあ、とシーラが歓声をあげた。

 砂の中からはいだした三人をむかえてくれたのは、白い雲と青い空だった。まるで汚染などどこにも存在しないかのように、空は澄んでいた。

 そして本物の太陽は、まぶしかった。十一年前と変わらずそこにあった。


「お空…おっきい……それにアツいよ。太陽ってアツいんだ…」


 そしてシーラに言われるまでもなく、ジェイとピートもその果てしなさに感動をおぼえていた。

 これが空かと。

 こんなにも広かったのかと。

 籠の中に飼いならされていたつもりはなかったのに。いつのまにか、あの小さな世界がすべてになっていた。

 そして視界を下にうつしても、また、おどろくべき景色が広がっていた。

 波打ちながら、ゆっくりと下降線を描く砂の海。そしてその向こうに、青い、空より深い青がたしかに見えたのだ。金色の砂とコバルトブルーの海、そして透明な空。どんな芸術も真似できそうにない、そのコントラストの美しさ。

 これはいったいだれの皮肉だろう、とピートは思ったほどだ。

 うしろをふりかえると、一面の砂の海と、ちっぽけなコンクリートの建物がある。彼らの目的地だ。


「シーラ。行こうか、一緒に」

「いいの!?」


 意外なことに、シーラの同行を許したのはピートだった。

 どうせ砂にはまみれたし、一度本物の空をみたい。シーラの要請を、ジェイは空を見るだけという条件で許した。けれど、ここまで来たら。

 ジェイがとがめるようにピートを見たが、無視した。彼女の強さを、彼は知らないのだ。

 幸い目的の建物は近い。五百メートルあるかどうかというところだった。


「あれ、ピート」

「なに」

「Tシャツの背中、天使の絵だったんだ」

「なかなかいいだろ?」


 日のもとにでて、はじめて気付く絵だった。背中全体に淡いセピアのタッチで、なにかを包みこむような天使の絵がプリントされている。天使は、おしみない慈愛の笑みを浮かべていた。


「でも前が真っ白! 自分ではさみしくない?」

「ぜんぜん。だいたい道を歩いているときは、後姿が一番ヒトに見られるんだぜ?」


 なるほど。ピートらしいこだわりだと、ジェイも笑った。

 そういうジェイは、相変わらず、クリーム地に青のポイントのはいった警察官の制服なのだ。

 シーラは若草色の七部袖シャツにGパンだった。それをぱりっと着こなしている。さすがだ。


「ジェイ、やっぱりおまえだけ浮いてるぞ」

「うるさい、服なんか着れたらそれでいいんだ」


 なぜか、笑えた。軽い話ができた。

 このさき、なにが待っているかなんて分からないのに。

 大中小、このみっつの影は、ゆっくりと砂の上を移動していった。太陽は、まだのぼり道にあった。


  *


「移住希望者…登録所……?」


 なにこれ、とシーラがうしろの二人をふりかえった。

 それは四角い、一階建てのコンクリートの建物の表札だった。人工太陽製造工場にしては、ちいさい建物だと思っていた矢先だった。

 ガラスのドアのむこうは暗く、使われていない様子だ。しかしただの廃墟というには、人の手が入りすぎていた。

 ジェイも、左側のピートを見た。


「とりあえず、写真に残しておくよ」


 ピートはジーンズのポケットから手のひらサイズのインスタントカメラを取り出した。

 ジェイから、にらむような視線が返ってきた。そうじゃないだろう、と。

 かるく肩をすくめ、仕方なくピートは説明を補足する。


「まるで現実味のないうわさとして、聞いたことがあるだけだ」


 政府が、核爆発で奇跡的に生き残った人々のエデンへの移住を受け入れているという。

 けれど実際に自分は移住者だという人がいなかった、あるいは名乗り出がなかったため、うわさはうわさに落ち着いた。

 第一こんな不毛の大地で、医療設備もなく、十年もの生存が可能だったのか……。


「だいぶ前の話だぜ」

「でもおまえは、これがあることを前提として、地上から工場にもぐりこもうと考えたんじゃないのか?」


 さすがにジェイは鋭い。ピートの思考回路を読み切っている。


「半年くらい前だったかな? 太陽工場に毎日運ばれてる荷物が食料品だって情報が手にはいってさ」


 管理職員しかいない地上の工場に、貴重な食料の大量供給とは、あまりにも不自然だ。

 そこでピートが思い出したのは、移民の話だった。


「しかし、移民の受け入れがあったとして、太陽工場でいったいなにをしていたんだ?」

「わからない。やつは帰ってこなかった。俺たちのとは、ちがうルートで入ったはずなんだけど」


 移民を受け入れているなら、地上からの入り口があるはずだとピートは思っていたが、それはあくまで推測の域だった。苦労して地上に出ても、入り口がなければどうしようもない。ピートの相棒はそう言って彼の提案を蹴り、それきりになった。


「俺も、工場内部の構造になると、もう皆目検討つかなかいんだけどね」

「めずらしく無茶だな」


 正直な感想を、ジェイはこぼした。


「これ以上ムダに不便な毎日を送らされるなんて、たまったもんじゃないからな」

「相棒は、帰ってこないし?」


 喪服姿のピートを思い出し、ジェイは言った。ピートは応えない。

 だが、それが正解なのだと、となりで聞いていたシーラも分かっただろう。


「では、行くとするか。政府の思惑を探しに」

「まずは、古典的手段」


 ピートは針金をとりだし、ドアの鍵をあけた。


「パンドラの箱でなきゃいいな」


 軽口をたたきながら、ドアを押す。

 昔ながらの手押し式ドアは、しずかに侵入者を受け入れた。中は薄暗い。

 外のまぶしい太陽に慣れた目がふたたび暗やみに適応するのに、数秒を要した。しかし人気のない室内は、おとなしく彼らが見極めるまで待っていた。


「ただの受付、みたいだな。ここは」

「ああ」


 ジェイの見解に、ピートもうなずく。ただ普通の受付と決定的にちがうところは、受け入れられた人々が行くさきは、頑丈な扉のむこうだということだった。放射能の流入をふせぐための、いくつかのステップがあるにちがいない。

 無人の受付カウンターにピートはすべりこんだ。扉の開閉操作ができるボタンを探す。それはすぐに見つかった。電源はまだ生きている。

 ここで、ピートはシーラをどうするか、迷った。

 このさきは少女にはあまりにも苛酷だろう。しかしここも汚染のある場所だ。


「あたし、ここで待ってる。だって、ここでドアの開閉操作するひと、必要でしょう?」


 意外なことに、シーラのほうから提案があった。べつにそんなものは、全部あけて強引に突破してしまえばいいのだが。


「じゃあ、たのむ」


 ピートは、シーラの案に乗ることにした。そのほうが、潜入に気付かれにくいだろう。シーラのことを考えると、彼らはどうしても工場の職員に気付かれずに、潜入取材を成功させなければならなかった。

 そして一刻も早い、エデン『ホーム』への帰還を。


「すぐ戻る。イイコにしてな」


 二人の男は、そう言って、太陽工場の内部を目指した。

 工場は、移住希望者登録所の地下にあった。


  *


 潜入は、思ったよりも簡単だった。

 いくつかの廊下をすぎて、移民者のためのものらしい生活スペースを抜けると、食料品の倉庫になっていた。そこまで、まったくの無人だ。すくなくとも、太陽工場のシステム・ダウン以後は使用されていないらしい。

 倉庫から通風口にもぐりこむと、それは工場のあらゆる場所に通じていた。

 工場は、システム復旧に全力を尽くしているというには、あまりにも人がいなかった。ピートはその人気のなさも写真におさめた。

 二人が人の会話を耳にしたのは、工場の中心部に来たころだった。

 その部屋では、いくつものディスプレイが壁の一面を占領しており、ここで工場内部を監視しているらしかった。監視役に、紺の制服をきた職員が二人。

 みっつ並んだ椅子の両端に別れて座り、暇つぶしのトランプをしていた。地下ではものをみるにも不自由しているというのに、信じられない光景だ。


「しかし運転の再会はいつになるんですかね」


 丁寧にカードをくりながら、一人がそう言った。


「きのうから重傷者の氷付けの搬送がはじまっている。もうそろそろだろう。今回のことで住民は人工太陽なしの生活なんて考えられなくなって、政府は一石二鳥だな」

「核爆発の生き残りはもう使いきっちゃいましたからね」


 !?


 せまい通風口で前後に別れていたジェイとピートは、それでもそのとき、おたがいの姿を確認した。後ろにいたピートが、さがれ、とジェイのずぼんのすそをひっぱる。

 傍聴者がいるともしらず、年配の監視員はつづけた。


「しかしお偉方もよく考えたもんだよ。とりあえず混乱を引き起こして大量の()()を確保し、あとは死刑囚を多くするんだろ? おまけにたとえ気付くやつがでても、人工の…生きた人間を燃料にした太陽は必要だと認めさせようっていうんだから」


 そのとき駆け抜けた戦慄を、二人ともよくおさえたと思う。

 けれど、たしかに言った。


 生きた人間を。燃料に。…と。


 エデンは、みずからをノアの箱舟にするために世界を犠牲にし、そしてなお犠牲者を欲するというのだ。血に飢えた獣のように。

 そんな…ばかな!

 そこまでして、なにを追求するのか。


『ゆたかな、人間らしい生活を』?


 そこへ、別の職員がやってきた。


「おもしろい拾い物をしましたよ」

「や、はなして!」


 職員の声とともに、聞き覚えのある悲鳴があがった。


「女の子じゃないか、どこにいた」

「移民の受付です。この娘を安全な場所に避難させたくて、移民の受付なんかにいったんですかね」

「それでは、やはりだれか潜入者がいるということだな?」

「おそらくは」


 どうやらドアの開閉などというシステムの使用状況は分かるようになっていたらしい。


「やれやれ、こないだのやつの仲間かね」

「さあ…あまり仲間がいるようには感じませんでしたが…」

「こんなことなら、さっさと氷づけにせず、もうすこし情報をしぼりとっておくんだったな」


 ガンッ!

 なにを考えるよりもはやく、ジェイは行動にうつっていた。制御室につうじる網を蹴破り、制御室におどりでた。ピートもそれにつづく。

 トランプがメタル調の床に散った。


「ジェイっ」


 シーラがその名を呼んだ。

 職員たちは、話題の潜入者たちの登場にまずおどろいた。それから、ジェイの警察官の制服にとまどった。

 しかしすぐに頭を切りかえる。

 どんな服を着ていようが、彼らは侵入者なのだ。工場をおびやかす敵だ。


「しっ…侵入あり、全館非常事態宣言! 全館、非常事態!!」


 年配の男が、マイクにむかって叫んだ。


「させるかっ」


 ジェイは手早く二人を床に沈めると、もう一人も後ろから殴りつけた。すかさずピートが全館のドアを『開』に設定する。こうなったら、三十六計、逃げるしかない。


「シーラ、連れてこられた道順、わかるな!?」


 うなずくかわりに、彼女は走りだした。

 工場内の廊下は、通風口よりよほど複雑にできていた。つるんとした変調のない、メタリックな壁と床の迷路だ。それでなぜ通風口に仕掛けのひとつもないのか、不思議である。

 けれど警備は、そこまで抜けてはいなかったらしい。

 すぐにジェイは警備員を相手にするはめになった。一応、銃は携帯していたが、使えなかった。素手で応戦してしまう。急所を狙っても、致命傷にならないよう、との手加減がはいった。

 しかし、一人が二人、二人から五人と、かかる追っ手の数はねずみ算式にどんどん増える。


「さきに行ってろ!」


 ジェイは、ピートとシーラに怒鳴った。そうしている間にも、二人の方に向かっていく追っ手の首ねっこを、無理やりに引きもどし、たおす。


「ピート、シーラをっ!」

「わかってるっ」


 ふたつの足音が、遠ざかる。それを耳で確認し、ジェイは警備員にあらためて向き直った。警備員の数は、七人になっていた。

 すでに息はあがっている。けれど、それでもジェイは彼らに向かって不敵にほほえんでみせた。

 こんなところでくたばってたまるか!

 その想いが彼を支え、かつ強くしていた。


「ちくしょうっ」


 かけ声とともに、あっというまに、二人をのした。

 ピートたちを追いかけていかないよう牽制しながら、あと二人。そしてまた二人を相手にする。ちょうどそのときだった。ジェイが気付く間もなかった。

 その音は、高らかに廊下にこだました。


「ジェイ!!」


 そして、やさしい天使の絵が、叫びとともにジェイの前に立ちはだかった。

 瞬間、なにが起こったのか分からなかった。

 あれは、ジェイをねらった狙撃だった。残っていた一人の、銃口がみえる。

 くずれおちてゆく、親友の肩のむこうで。

 …もういちど。二発めの銃声で、ジェイはハッとした。


「ピートォっ!!」


 獣の咆哮をあげ、ジェイは自分の銃を抜いていた。三発目の弾丸は、警備員の肩を貫通した。


「行け、この馬鹿…」


 かけより、だきおこそうとしたジェイに、ピートは言った。右の胸と太ももから血があふれだしていた。真っ白だったTシャツが赤く染まって…。


「あと、たのむ。悪いけど」


 ピートは、ポケットのインスタントカメラをジェイに押しつけた。


「おま……」

「こっちだ、いたぞ!」


 ジェイの言葉は、新たな追っ手にさえぎられた。

「いっちまえ!」


 ピートがさいごの力で叫んだ。


「おまえなんか俺がいなきゃ、とっくにくたばってたくせに!」


 吐きすてる。

 だからジェイには、ピートのたのみを聞く義務があるのだといわんばかりに。


「ジェイ、ピート! はやくっ」


 廊下のすこしさきで、少女の声がひびいた。

 反射的にジェイは立ち上がっていた。そのままピートに背をむけ、少女のもとへ。


「ピートはっ!? ねえ、ジェイっ!」

「行くぞ、シーラ!!」


 そして、ふりかえらなかった。




──ああ…セイラ。もう、大丈夫だよな? おまえの愛した男は。


 あの、うさぎの心をもったライオン。

 かたくなだった自分をあっさりとくつがえしてしまえる、それほどの想いを、彼は手に入れた。

 あいしてるよ。

 うすれてゆく意識の中で、ピートは天使のようだった、彼女のほほえみを見た。




 無我夢中で走りぬけてゆく途中、ジェイは耳障りな放送をきいた。


「あの男の処分は?」

「さっきの会議で、明後日からシステムを稼働させることが決まった。どうせだから、彼には復旧第一号になってもらおう」


  *


 ざ…ざざ……ん………。

 おだやかな、波の音がひびいていた。


「星だ…シーラ…満天の………」

「うん、きれいだね…ジェイ。プラネタリウムなんか、くらべものにならないくらい、きれいなものだったんだね。多すぎて、星座もなにもわかんないよ…」


 二人は、波うちぎわに寝転がっていた。海の反対側には、砂丘がそびえたつようにある。

 工場の職員たちは、汚染された砂漠に出てまで、侵入者をとらえようとはしなかった。砂漠にとびだしても、エデンへの帰り道などないとタカをくくっているらしい。もともとの侵入経路も、地上からとは思っていないようだった。

 地上は、夜を迎えていた。

 雲ひとつない黒い空を、天の川がとうとうと横切る。かつて、都会ではおがめなかったものだ。まさかそれを、人間が破壊したあとの世界でみるとは思わなかった。


──セイラ。おまえが愛した男を、俺はみすみす死なせちまったよ。


 ジェイは、心の中で星にむかって語りかけた。それからすぐに、いや、と思いなおす。

 ピートはこの十年間、彼を支えてくれた、大切な、彼の親友だ。

 手のひらには、ピートから最後にたくされたカメラが乗っていた。そのちいさな固体が…ずっしりと重い。

 星空をながめながら、ぼんやりとジェイは言葉をつむいだ。


「シーラ。朝になったら、帰ろう。朝日がのぼるのをみて、それから帰ろう。朝日がどっからのぼるのかは知らないけど…町が正常に動きはじめたら、あのエレベータは使えないから」

「それで…ジェイは、どうするの?」


 シーラも、どこかはっきりしない頭でたずねた。身体の疲労とともに、ねむけにさそわれていた。まぶたが…おもい。


「そうだな…とりあえずマスコミを使って、太陽工場の秘密を暴露する。それからあとはたぶん、協力者を募って……あんな太陽、なくてもいいようにする」

「そう……」


 それを勇気と、ひとはいうだろう。

 他人事だから、簡単に。

 たしかに命懸けの大仕事ではあるのだ。しかし。納得できぬなにかをシーラは胸にくすぶらせていた。なぜ?

 ジェイが傷ついているのは痛いほどによくわかる。親友が自分を守るために犠牲になって、彼にできることといえば、そのさいごのねがいを聞き届けることだけ……。

 ちがう!

 そのときかえってきた反論に、シーラはハッと目を覚ました。ちがう、それは。


「だめ…だよ、ジェイ。それはちがう」


 シーラは首をめぐらし、ジェイを見た。


「なにが?」


 しかし返事はそっけない。

 彼は、シーラを見ようともしなかった。つめたすぎるくらい感情のかよわない横顔が、空をあおいだまま動かない。


「……だよ。…ジェイのは、『死にたい』だよ! ピートの願いはちがうじゃない!?」

「なにがちがうんだ。やつの遺志は、あんな太陽はなくすことだ!」

「そうだけど、ちがう。それよりもずっと、『生きて』ほしいでしょ!? だから、ジェイを助けたんでしょ!?」


 そんなことは、わかってる。

 けれどそこまでの強さはもってないから。いままでだって、現実から目をそらしてなんとか生きてきた人間なのだから、と。

 ふっと逃げるように、ジェイが目をとじる。あきらめ…だ。彼は絶望しているのだ。親友をなくして。……どうしようもなく、傷ついているのだ。

 それはわかる。けれど。


「……てよ」


 シーラは、自分のなかにわきあがってくる熱いなにかを意識した。


「え? いまなんて、シーラ?」


 そんなのは、ずるい。…そんなのは、許さない。それならば、自分はなんのためにここにいる?


「ジェイ…あたしと生きてよ」


 ふるえて、かすれそうになった声を、シーラはなんとか音声に変えた。負けるな、と自分に言いきかせる。


「あたし、エデンになんか戻らない。二人で、生きていこう。多くを望まず、毎日を戦おうよ」


 どんな形にしろ、十年間、大地はわずかに生き残ったものたちを育んできたのだ。


「シーラ……?」


 ようやくジェイはその瞳を彼女に向けた。それに突き動かされるように、彼女はつぎの言葉を口にした。


「だってあたしたちは、生きていかなきゃ。この身体をかたちづくる幾億の細胞が、生きていくようにプログラムされてるんだから。そして………」


 少女は上半身をおこし、うえからのぞきこむように顔をちかづけた。一字一句たしかめるように、唇を動かす。


「ひとには、良心があるから。良心に精一杯誠実にやってこう。人間の罪をぜんぶ背負って、生きていこう」


 たしかにひとは、楽園を追放された存在だったのかもしれない。次代につなぐだけでよかった、生命の連鎖の楽園を。

 みずからを組織する細胞とはちがうところで、ひとは、『こころ』を手にした。欲求が生まれ、矛盾が生まれた。欲求のままに、『より良い』を追求した。その結果が、たとえみずからの首をしめるものであっても……。


 ジェイは、なにも言わなかった。シーラも、二度はくりかえさなかった。

 見つめあったまま、時間は過ぎた。

 いつのまにか、鏡のように静まりかえった海のむこう、水平線が白く光りはじめていた。

 ジェイがさきに気がついた。


「シーラ……シーラ、見ろよ…!」

「ん…」


 自分に寄り添うようにねむっていたシーラを、ジェイはゆりおこした。


「夜明け……?」


 シーラは、重たそうにまぶたを押しあげた。


「ああ、海からだ」


 それはやけにゆっくりだったようにも、あっというまの出来事だったようにも思えた。

 だんだんと水平線のあたりが白んでゆき、そして海が途切れるきわからまぶしい光があふれだした。光はあとからあとからこぼれだし、空は一瞬にして透きとおった。

 ああ…その光の源では、なにが生まれているのだろう?


「シーラ。俺はやっぱりエデンに戻るよ」


 太陽が顔をだしきったあと、しずかにジェイは言った。昨夜とはちがう、たしかな芯のある声だった。


「なにも知らずに、めぐみを享受できていたらどんなに幸せだろうと思うよ」

「うん…」

「けど、それでも俺は知ってよかったと思ってる。無知なだけの幸せより、真実を受けとめて、自分自身で判断したいんだ。ほかのやつらがどう考えるかなんてわからない。政府の圧力もあるだろう。でも俺はこの良心にかけて、真実を伝えたいと思う」

「うん」


 シーラは、素直にうなずいた。こんな…自分がやるべきことをみつけて、走りだしたものを止められるものはいない。

 あとはただ、願うだけだ。


「でも生きて……どんなに困難でも、なんとしてでも、生きぬいて」


 そうやって自分のもとにたどりついた男を、女は祝福するのだ。それが生命の理。

 ジェイの戦いに終わりがあるのかなんて、知らないけれど。


「ああ…約束する。それがやつの遺志でもあるしな」


 ジェイが手をさしだした。そこに自分の手をかさね、シーラはほほえんだ。つかのまの海に、空に、別れをつげる。

 そして、エデンへ。嘘で塗りかためられた、籠の中の楽園へ。


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